22.October,2006
原宿から歩いていくと狭い住宅街の中に入り込んだ。
そしてある角を曲がると一つの郵便ポストが目に入った。
しかし、よく見てみると確かに郵便ポストではあるがただの郵便ポストではない。
住所を確認すると「天国三丁目 鬼太郎 目玉親父」 と書いてある。
写真では見えにくいが、ポストの下には木の枝がくっついていて、
ちょうど高床式住居みたいになっている。
ということはもしや、本物の鬼太郎の家?
梯子の上では目玉の親父がいつものように茶碗の風呂に入っているし、
その下では子泣きジジイ、ねずみ男、ヌリカベなどあの大スターたちが集合している。
どうやらこれは本当の鬼太郎の家のようだ。鬼太郎の家は渋谷区にあった。
しかし、これは鬼太郎の家にも似ているが、ポストである。
あの鬼太郎の漫画に出てくる鬼太郎に助けを求める時に手紙を出すどこにあるか知られていない「霊界ポスト」にも見える。
霊界ポスト=鬼太郎の家という新説も浮上してくる。
鬼太郎の家は入れ子状になっているのか?
色々妄想が進んだが、とにかくこの鬼太郎ポスト仕上がりが抜群にイイ。
あまりに良すぎて、青色の住所表示の方が嘘っぽく見える。
本当に天国三丁目のようだ。一体何のためにつくったのか。
屋根は本物の木の皮をはっているようだし、ポスト自体も何やら複雑な造りをしている。
梯子も丁寧に作っている。見ていると桃源郷に紛れ込んだような気持ちにもなってくる。
この家にも庭と呼べるような空間は存在しない。
しかし、このミニチュアの世界はよその広い庭より壮大だ。
人間にとって重要なのは「広い狭い」なのではなく、
縮尺は無関係で「壮大か、そうでないか」の方なのではないか。
広いほうがいいのではなく、広そうに見えるほうが人は感動するかもしれない。
盆栽だってそうだ。ICチップだってそうだ。
要は実際に手に入る空間を求めているわけではなく、実際には手にしていないけれども、手にしているようにしか見えないような錯覚の感覚を求めている。
その感覚は元々は手に入れることができるわけがないという「諦め」から生まれているのかもしれない。
しかし、そういう感覚には必ず目で見える空間に加え、脳を使って空間を感じる。
そこが人間にとって興奮したのではないか。
空間は目の前にだけあるのではない。
頭の中の空間が目の前よりもリアルに感じられるときもあるのだ。
さらにもうひとつ紹介する。
これはトーテムポールである。
僕は今回のバンクーバー旅行でトーテムポールをよく見かけ、
なぜか、日本人にトーテムポールというものが身近であることに不思議な気持ちになった。
このトーテムポールは題材を見ると、アイヌのもののようだ。
アイヌと、ネイティヴインディアンになんらかの関連があることは分かっている。
神話にもいくつか相似点があるようだ。
それが、また東京のド真ん中にも繋がっていると思うと人間の構造は大昔から変わらないのだということがわかる。
おそらく、現在でも、時代は変わってしまっても人間の奥底の精神性は変化しないはずだ。
それが、4次元ガーデンとして現代の東京という、
自然や人間の本能から切り離されているような場所に出てきているのだとボクは考えている。
それはまた0円ハウスでも同じことだ。
そして、僕はトーテムポールを見ると、やっぱりあの小学校のトーテムポールを思い出してしまう。
アレは一体ナンなのか?
しかも、あれは全国的に見られる風習のようだ。
人間の本能が都市の中には実はどこそこに散らばって内在している。
その視点で都市を見ていくともう一つの世界が見える。
目に見えるところと見えないところ。
都市には二つの空間がある。