26.October,2006
4次元ガーデンは東京という街のなかにひっそりと潜む。
うっかりしていると、気づかないで通り過ぎてしまう。
それは、僕たちは普段空間を決めつけてとらえていることも意味する。
「ここは。公道だから。個人の庭なんてあるはずはない。」
そんなところに、悪びれずソロッと庭があったりする。
この庭も、はじめは普通に通り過ぎようとした。
「ん、でも待てよ。」
と少し考える。あっ。そうか。コレは庭だ。と。
「止まれ」の標識と、電柱。その隙間に観葉植物。
こんな隙間、なんにも使えない。だから置いたのか。
しかも、植物の入っている白いポットが、標識の白いポールや、道路に敷かれている白いラインや、ガードレールの色とダブって、まるで公共の植物のように見える。
うまい作戦である。
「でも、待てよ。」
とまた少し考える。ここはゴミ捨て場である。
もしかしたら、ここに昔、誰かがこの植物を捨てて、
業者の人がこれは燃えるゴミにしては大きすぎるので引き取ることが出来なくてそのまま放置しているか、植物を捨てるなんてけしからんと、大事にとっているのかもしれない。
僕はこういう隙間が子どもの時、好きで好きでたまらなかった。
学校の帰り道、よく電柱と壁の隙間をわざわざ歩いて帰っていた。
それで、たまたま壁から出ていた金属に頭をぶつけたりして、
血を流したりした。
それでも好きで、自転車でもよくこの間を抜けようとした。
そういう面で見ると。この隙間は子どもの視点でもある。
子どもは空間に「決めつけ」がないから、簡単に変容することが出来る。
公共も個人も分け隔てないのである。
そういう意味では4次元ガーデンはその子どもの視点が、溢れている庭とも言うことが出来る。
子供ガーデンでもあるのだ。
秘密基地の感覚に近いと思っている。
ゴミ捨て場というのも面白いな。
これも、週に何回か、それも朝だけ、空間が普段と変化する。
しかも、たまによく分かっていない人がシールも貼らずにおおきいソファとか捨てている人がいて、勿論放置されて、何だか急にそこが休憩所みたいになっているところとかある。
あれも、この感覚に似ている。
あと、あれだ。バス停。
バス停も待っているとき用の椅子が置かれているが、それは多分、バス会社が持ってきたのではなくて、近くに住んでいて、バスを利用する人が持ってきたであろう、おばあちゃんちにありそうな椅子が、種類も違うのが2、3個並べられている。
僕はあの風景にもなぜか、「庭」というフレーズが頭の中の電光掲示板に、横流れに出てくるのだ。
子供空間を持つ大人たちの仕業である。