今日は雨だ。自転車に乗れないので、朝、ベンツゲレンデで幼稚園までアオを送る。その後、零亭で原稿を書く。坂口恭平日記2000字、月刊スピリッツ連載「鼻糞と接吻」2000字、吉阪隆正賞受賞によせて住宅建築用原稿2000字、全て午前中に仕上げる。今回の書き下ろし「幻年時代」を書き終えて、また息の長い原稿を書く技術が上がったかもしれない。原稿5枚くらいを一継ぎで書けるようになってきた。幻年時代を入稿できるまでの状態には仕上げたので、僕の頭は次作の原稿に向っている。今度はもう少し長く書いてみたいと思っている。短編集のような原稿の塊が全て繋がっているようなイメージが頭の蠢いている。久しぶりに原稿を書いていて、楽しいのである。こうなったら、どんどん先に進んでみよう。
零亭にwifiがないので、キャッスルホテルまで歩き、インターネット接続して、それらの原稿を送り届ける。キャッスルホテルのパンがとても美味しく、僕とアオの好物なので、酒粕あんぱんと名作クロワッサンを二袋購入。そのまま、PAVAOへ。ヨネの現場の視察。なんかいい感じになってきているようだ。弟子は僕と同じく建築士免許を持っていない。僕は建てない建築家だからいいものの、ヨネはどうやって生き延びていくのか興味深い。ま、いろいろ方法はあるさ。建築士に縛られないほうがいいことも多い。僕の師匠たちで持っている人は実は少ないし。
吉阪隆正賞を受賞したことが、何か僕の中にじわじわと染み入ってくる。吉阪隆正は、僕が生まれて初めて読んだ建築家である。この人を知って、U研究室がやっていたことを知り、それが僕の零亭や、自分の仕事の元の一つになっていることは確かだ。はじめから日本だけでなく、海外でも仕事をすることを決めていたのは、吉阪が数カ国後を話せて、百人町での会議でも日本語を使わないときがあったくらいという逸話を高校生のときに聞いて、衝撃を受けたからだ。高校生のときの僕には、吉阪隆正、石山修武、赤瀬川原平さんが書いた「東京ミキサー計画」と「反芸術アンパン」の二冊で知ったネオダダを始めとする美術運動、ホールアースカタログを起点とした、ソローの森の生活、ジャックケルアック「路上」ゲーリースナイダー、バックミンスターフラー、そして、音楽家のディラン、ベックがいた。頭の中でさまざまな想念がアメーバ状に広がっていった。目の前の世界は退屈だったが、書物で知る、それらの世界は無限大の拡がりをもっていた。僕はそんなところからはじまった。そして、何も変わっていない。それが一時期は悲しい事実としてしかなかったが、今は、それでよかったと思えている。ディランと石山修武をどうやって結びつけるか。そんなことばかり考えていた。このときから躁鬱病の気はあったのかもしれない。実家という安定した空間にいたので、僕は自覚できていなかったが、この繋げたがりの性格は、おそらく性格というよりも、この自分の能の損傷によるものだと最近では考えている。
その高校生の元に、なったのが、僕の幼年時代である。4歳から10歳ごろまでにやった行動が僕の原点となっている。その4歳の記録を書いたものが、7月下旬に出版される「幻年時代」である。自分があの時、本当に何を考えていたのか。今回の執筆はそれを探る、巡る旅であった。路上生活者の家を調査するようになったのも、このへんの経験が強く結びついていると思う。そうやって旅をはじめたはいいものの、当初の計画とは全く異なる仕上がりになった。自分でも予想しなかった世界がそこにはあった。それをどうにか必死に書いてみたつもりだ。前著「独立国家のつくりかた」とはまるで違う本になっているので、おそらく読者はびっくりするかもしれないが、楽しんでくれるものと思っている。
現場を見た後、幼稚園が終わったアオを迎えに行き、家に送り届ける。僕は、そのまま健軍にある「コダマヘアー」という美容室へ行く。ここの社長は、僕が高校時代に髪を切ってくれていた女性で、懐かしくなり、そこに行ってみることにしたのだ。18年ぶりに会ったら、向こうはしっかりと僕のことを忘れていて、その僕は、すごく記憶している、でも相手は初対面のように僕に接する感覚が、不思議でなんだか得したような気分になった。髪を切るのは相変わらず上手で、神宮前twiggyのクミちゃんのところに行けないときは、ここに来よう。その後、サンワ工務店に立ち寄り、再びPAVAOへ。今年の10月に熊本市現代美術館にて開催されることになっている、鉄職人ズベさんの展覧会のための打ち合わせ。というか寄合みたいな、というか任侠の集会みたいなものになった。サンワ工務店社長山野潤一、僕、ズベさん、熊本市現美術館学芸員坂本さん、面木さん、ズベさんの仲間3人の7人で。大爆笑の集会になった。皇太子が熊本に来るときに、ズベさんはホテル横に、超巨大な鉄のバイクを持ってこようとしている。面白すぎて、僕は黙って、どんどんその企画を通す方向へ持っていった。10月は楽しいことになりそうだ。5月下旬からは、僕の作品も熊本市現代美術館に展示される。オープニング当日はドイツベルリンにいるので、行けないが、こちらも楽しみ。
夕食は、PAVAOでタイ風焼きそばを食べ、家に帰る。そのままソファで眠りについてしまい、12時過ぎにフーに起こされて、布団に連れて行かれる。やたらと眠い。産後の体みたいな感じになっている。僕もフーもそれぞれ子どもを産んだ。すくすく育ってほしいな。星に願う。
朝起きて、親父と母ちゃんを迎えに、行き、県民百貨店で待ち合わせして、おばあちゃんを迎えに行く。今日は弦のお宮参り。弊立宮の従兄弟である龍田の三宮神社へ。隣には熊本国際民藝館がある。ここの収集すごいから僕は大好きだ。お客さんがたくさん入っている様子をみたことがないがだからこそ、貴重な場所である。今日も僕はペンタックスを使って、フィルムで撮影する。僕も子どものときに着た坂口家の家紋付きの碧色の着物を弦に着せる。樹齢350年程の楠の前で撮影。ここも楠が気持ちよい。僕が一番好きな木だ。南方熊楠の木。横井小楠の木。
お宮参りが終わり、そのまま、僕の家の裏手にある花岡山にひっそりと忍んで建っている「魚嘉別荘」へ。ここは新政府料亭の一つ「魚よし」の別邸である。僕とフーと碧と弦と親父と母ちゃんとおばあちゃんの7人で、昼御前を。尾頭付きの鯛も食べる。ノンアルコールのALL FREEっておいしいな。ここは庭が無茶苦茶気持ち良い。僕の本籍地でもある。横では、坂口家が通っていたレストランの社長の一周忌の法事の後の食事会が行われていた。Davesというお店で、僕はここに小学生のころから来ていて、ビーフウィズライスというおいしいランチを食べていた。後に泥武士という名前に変え、今は東京銀座のファンケルビルの8階にもお店がある。僕が食事をするということを考えるきっかけになった場所だ。母ちゃんと奥さんが同じ田舎で、それでお世話になっていた。僕の新聞連載も楽しく読んでくれていて、いろいろと大人になってからも話を聞かせてもらいたかった。
その後、写真を現像し、プリントしてもらう。村上春樹の新作を買ったりしてみる。フーが読んでみたいという。新作の書き下ろし原稿を書き上げてから、体の疲れがどっと溢れ出て、首、肩、腰と傷んでいる。横になり、幻影と現実を読みながら、寝る。夕食は質素にそぼろ御飯。碧と早めのお風呂に入る。小学館月刊スピリッツの打ち合わせ。その後、ギターの練習少々。ドイツ・ミュンヘンのアートフェスティヴァルに11月参加しないかとの依頼を受ける。しかし、今年は海外に行き過ぎなので、どうしようか迷う。二週間の滞在。5月下旬はドイツ・ベルリン、ワイマールに一週間、7月下旬にはサンフランシスコに一週間、そして、11月に再びドイツ・ミュンヘンに二週間。どうしようかな。しかし、海外での活動が増えているのはとてもうれしいことだ。来年はスロベニア、そして、ウィーンでのかなり大きなフェスティヴァルへの参加要請も受けている。日本はできるだけ、執筆に専念する方向へシフトしようと思っているが、海外での現地制作はやはり今でも楽しく、人々との出会いがあるので、やめられない。TOKYO0円ハウス0円生活の中国語翻訳、韓国ではゼロ〜と独立国家のつくりかたの翻訳、フランスではTOKYO0円ハウス0円生活の翻訳と、海外への本の流布も広がっていっているので、もっとどんどん攻めて行きたいところだ。同時に、僕はもう家族とゆっくり家で過ごしていたいと思っているのもある。僕はただ何もしたくないのかもしれない。ただ街を歩き、人々と話をしていたい。それだけで、人からは暇人に思われるかもしれないが、僕の頭の中では爆発しているのである。 いのちの電話をやめると言ったら、本当にみんな電話をかけてこなくなった。もちろん、ゼロではないが、一、二件くらいである。だからこそ、僕は自分の仕事にどんどん集中していきたいと思う。
夜は、碧と一緒に絵本を二冊も作った。「あおときょうへいのものがたり」という船に乗って、おじいちゃんの家に遊びにいくまでの物語と「あおとパパとげんとママ、しんかんせんでたびにでる」という僕の家の前のチンチン電車の駅に、なぜか新幹線が来て、戸塚のオオマに会いに行くという物語。アオは絵本作家にでもなるのかという勢いで作品を作り出しているが、アオはあくまでもこれは遊びであり、本当なりたい職業は「ケーキ屋」であると断言している。面白い人だ。最近、アオが本当に興味深い。ほぼ感覚的なのであるが、それが自分の論理とシンクロしている。作品が生まれるべくして、生まれていっている。僕はその作業を作るために、直感だけでは無理で、やはりその波長を作り出すために、結構苦労しているので、おおきに勉強になる。書き上げたそばから、次作の構成を練っている僕は完全にアオに刺激を受けている。今日は、初めて、青墨を使った。薩摩から依頼されている毘沙門天像の絵も早く描いてみたい。そして、早く髪を切りたい。ぼさぼさなのだ。今。
深夜、フーと「恋する惑星」を観る。ウォンカーウァイ、やっぱり無茶苦茶かっこいいいなあ。高校生のときにこの映画を観て、興奮して、こんな毎日を送りたいなどと妄想した日々を思い出す。ジャームッシュのデッドマンもそうだった。あのころのデートは、本当に僕にとって大きな文化的食事だった。大きく育っていた。そして、あのころ、毎日やっていた行動が写真を撮るという作業なのである。石川直樹がヒマラヤからメールしてきた。あいつも元気にしてるかな。
DJ KOZEの新作「AMYGDALA」を聴いている。とても気持ちがよい。ふと、早くサンフランシスコに行きたいと思った。20歳のときに弟と二人で衝動的に行ったあのサンフランシスコが懐かしい。
朝から、シミと一緒に、サンワ工務店の山野潤一さんのところへ。工場見学。そして、ベンツゲレンデに乗って、一路、山鹿へ。一木一草という温泉宿へシミを連れて行く。ここも山野さんの設計によるもの。泉質はとろとろしていて最高である。その後、この前会った、僕の本の読者である温泉のすぐ横にたまたま住んでいる源ちゃんのところへ。嫁さんのゆきちゃんとシミと僕の四人で、広い庭で、七輪使って焼き肉ランチをごちそうになる。ノンアルコール麦酒なのに、完全に酔っぱらう。源ちゃん、いろいろと面白そうな変人であった。平山温泉に寄った際にはいつも寄らしてもらおうっと。ありがたい限り。ぼくはいつもこのように旅先で、いろんな人にお世話になる。とにかく人が来たら、徹底して歓待する。これが僕が19歳から続けてきた旅で学んだことである。僕もそうありたいと思っている。楽しいことに真剣になることは財産になるのだ。
その後、八千代座で開催されている地元の人たちのカラオケ大会を観に行く。八千代座は観光というよりも、こうやって現場で人が使っている様子をみるのが一番かも。完全に僕はぶっとんだ。フーから、メールが届いた「恭平が注文していた福音館書店の林明子全セット届いたよ!」とのこと。やばい、楽しみだ。早く帰りたい。しかし、実は零亭の方にも「ピーターラビット全24巻」を購入しちゃっていることはまだ言えていない。。怒られるかな。
市内に戻ってきて、島田美術館へ。ここで、宮本武蔵の直筆の書と絵を鑑賞する。宮本武蔵は最後は熊本に住み、そして、亡くなっている。五輪の書もここ熊本で執筆している。「風の巻」の一部が展示されていた。本当に巻物である。僕は今、和紙にいろいろ書いてみようと思案しているので、大いに刺激になる。そして、武蔵の絵もみる。美術評論家の小倉さんは宮本武蔵の島田美術館に収蔵されている絵を見て、もしかしたら、日本の現代美術のスタートは武蔵からなのかもしれない、と言っていた。そうやって捉えると興味深い。ここは庭が本当に気持ち良い。温泉に浸かって、島田美術館の庭に浸り、体が解れていく。シミの服の展示を町中で見て、家に帰ってくる。
絵本が届いており、とりあえずこれで福音館書店で現在手に入る、26冊の絵本は揃った。アオが興奮してくれて、というか、僕も負けずに興奮している。おまけに2002年版の林明子カレンダーまでおまけでつけてくれている。。感謝。奇跡的に、2013年と2002年のカレンダーが同じ日付と曜日らしく、ということは今年使えるので、フーが喜んでいた。次の「母の友」では林明子さんの取材、特集、年譜が掲載されており、それも付けてくれていた。昔、行った、五味太郎さん、宮崎駿さんとの対談の記事のコピーも。林明子さんは僕は勝手に私淑しており、今度は宮城県美術館の原画展に行っちゃおうかと思っているくらいだ。5月12日までという。気になる。。。うちの本棚の絵本を数えたら、200冊近くあった。本棚に並んでいる姿を見て、夢心地の僕とアオ。レーモンルーセル方式で、アオのためといいながら、実は絵本を欲しがっているのは僕だったりする。僕はやはりいまだに4歳なのかもしれない。アオは寝る前に今日は、林明子さんが絵を描いた「おでかけするまえに」を選んできた。明日は、弦のお宮参り。
午前中に、熊本高校の後輩のノブが旦那と息子とやってくる。一緒に料亭魚よしへ行き、寿司を食べる。その後、フーが髪を切りにいったので、僕はフーが冷凍していた母乳を自然解凍させ、弦にあげる。爆飲してくれたので、しっかりと寝て、抱っこ紐で前抱っこしながら、アオに洗脳された僕は、近くのデパート「県民百貨店」の7階に連れて行かれ、百円を抜き取られ、アオは、犬が旅する移動式ゲームみたいなものに興じている。アオは完全に僕を掌握している。僕も負けたくないので、親らしくしようとするが、それは先回りされて読み抜かれており、ちゃんと親友の座に落ち着かされる。僕も別にアオは放置しても、無茶苦茶はしないと思っているので、どちらかというと、親友というよりも、先輩のお姉さんみたいな立ち位置に結局は立ち、僕と弦をコントロールするアオに従っている。
アオが、玩具コーナーで、楽器ばかり見て、アンパンマンギターを買ってくれというモードになってきて、危険を察知した僕は、楽器はやっぱりアンパンマンじゃないほうがよいということを早めに伝えた。アンパンマンは先日、アオに聞いたところ、しっかりと卒業が完了していると断言していたので、僕が油断してしまっていたのだ。アンパンマンは卒業でも、ギターに最近関心を持ち出している僕はどうにかアオに子ども用のギターを買おうとしているのだが、すると今度は、フーという牙城が現れ、あなた、毎月、いくらお金を使っているんですか、ちょいと考えてくださいといつものように言ってくるフーが現れ、まだアオにはギターは早い、むしろあたしはビブラフォンがいい、などとフーはフーで、自分の世界を持っていて、そんな流れでアンパンマンギターは僕は買いたくないし、フーにも怒られるだろうし、かと言って、このままじゃアオも納得しないだろうし、この状態で、アオが崩壊してしまったら、僕も立ち往生してしまいだし、なんてことで、とりあえず次は、楽器屋に行ってみよう!デパート売り場じゃクオリティの高い楽器は臨めないし、それでは駄目なので、先輩!最高の楽器屋に行きましょうよ!と誘って、上通りの大谷楽器へ。
ここは僕が、高校時代、ピアノやギターのスコアや、ギターの弦、エフェクター、などを購入していた場所。サックス、バイオリンなども取り扱っており、昔ながら、感じのよい楽器屋といった風情である。いろいろと探していると、アオがリコーダーコーナーで物色をしている。鍵盤ハーモニカには最近興味を持ち出し、僕とセッションも何度か行っている。そして、最近、僕が大谷楽器で買ってきたブルースハープにも興味津々。というわけで、流れとしてはもうすでに自分の頭にあったのかもしれない。リコーダーをどうにかしてゲットしようとしている。で、僕もみたら、AULOSのクライネソプラニーノリコーダーというものがあって、これが小さくてアオサイズでしかもなんか可愛い。で、僕も欲しくなってしまう。友達のソンくんが、サックスの修理に来ていた。なんか、そんな楽器屋が素敵だなと思った。ということで、つい、買ってしまった。
その後、アオと弦と三人でPAVAOヘ。この上の階にあるグランドギャラリーという美容室でフーはいつも髪を切っている。だから、下で待つことに。横では弟子のヨネが、移住してきた大工たっちゃんと一緒に新装工事をやっている。なんかみんないろいろ動いている。僕は原稿を書き上げて、おそらく今から一週間は茫然としているはずだ。まあ、たまにはゆっくりと休もうと思って、リラックスしている。かおるちゃん手作りのジンジャーエール。アオはマンゴージュースを注文。二人で笛を吹く。しばらくすると、フーが終わったので、みんなでそろって家に帰る。そして、僕は元マッサージ大臣のところで一時間半施術してもらう。骨盤、体の歪みなどないが、とにかく体を酷使しすぎている、といつもよく言われる。体はいつもコリコリなのである。終わって、家に帰ってきて、酒屋でイタリアのマルケという美味しい白葡萄酒と天草で先日もらった濁酒をもって、グリーンホテルで、いつも僕の服をつくってくれている中目黒にお店をもっているブランドNameのデザイナー、シミと久々に会って、一緒に歩いて、町を散策。白川沿いを歩く。華人の坂村岳志さんがやっている「さかむら」で漢時代の馬の木彫を見て、なんか興奮したり、川沿い歩きながら、いつかみんなで熊本に移住してきて、みんなで活動している様子を妄想したり、妄想というのが仏教用語らしいと教えてもらったことなどを思い出しながら、シミと二人で、坂口家御用達の料亭「Kazuku」へ。いつも服を0円で頂いているので、、ひろみさんの料理をごちそうすることに。帆立、鯒(こち)、スナックえんどうとウドの豆腐和え、鯒のお吸い物、銀杏と白身のすり身の揚げ物、鯛のオイル焼きオレンジ乗っけ、などの料理を堪能。シミといろいろ話す。
食後、熊本に二台しかないと言われる「くまもんタクシー」を呼び出し、次は「ビリーズバー」へ。マスターがDylanの二枚目アルバム流してくれて、ラガヴーリン一杯飲んで、家に帰る。
朝から自転車で幼稚園にアオを送り届ける。写真現像屋で昨日、ペンタックスで撮影した子どもたちのプリントを受け取る。プリント屋からもらった簡易のアルバムに茶紙を巻いて「きのうえのいえのぼうけん」とタイトルを書いて、アオに絵と色付けを依頼し、作った写真本を幼稚園の先生に渡す。幼稚園の新しい庭として機能しだしたら、面白いことになりそうだ。
熊本大の先生に電話し、映画の授業をパーマとタイガースに忍び込ませる旨を伝える。いーよ!と一言頂く。といいつつも、僕は人から学ぼうとしたことがないので、別に必要もないと思うのだが、パーマは大学に行きたいようだ。ないものねだりである。己の中から学問を作らないと駄目だと思っているが、まあ、それでもなんでも経験だと考えているところもあるので、三人でお好み焼きを食べながら、話す。とにかく、人と話し、原稿を書け。僕からの命令は唯一それだけだ。
アオが帰ってきたので、そのまま零亭へ。そして、白川沿いへ。川沿いを走り抜ける。いつかここで筏を作って、コンティキ漂流記みたいに海に出たいと思った。橋の下の雄ちゃんは、筏作れるし、海にも出れると確信を持って言う。そんな旅を思い描いている。アオは怖いから遠慮するという。いつか、一緒に筏で旅をしたいなあ。
いつもの野良猫タウンへ行く。創設者の親父さんと話をしていると、親父の父親が、日本初のカーラジオの発明家であることが判明する。無線の専門家である。浦本電器という名前でやっているという。今でも警察の無線は全て担っているそうだ。今度、話を聞かせてくださいと言った。最近、新しくハロー・ワークスがもう一度頭の中で発酵している。面白くなりそうだ。
アオを家に連れていき、僕は早川倉庫へ。午後7時まで幻年時代第三稿を黙読し、仕上げの段階。もうすぐで終わる。早川倉庫二階屋根裏部屋に新しく作った書斎「ゆきがらす」にて。
夜帰ってくる。夕食を家族で、食べて、四人で寝転びながらスピルバーグ映画「タンタンの冒険」を観る。なんか半端なく面白かった。冒険心が頂点に達している僕とタンタンを重い重ねた。タンタンって、勘違いして、勝手に謎を作って、依頼もないのにどんどん冒険を始めるって、まるでパパじゃん、とフーが言う。
夜、みんなが寝付いてから、僕は黙読の続きを。翌朝8時、いよいよ完成した。梅山に送信し、電話する。後は梅山が編集を行い、そして、入稿である。ようやく印字になる。7月21日発売予定と日付も決まりそうだ。次の冒険が始まることになる。
朝からアオと自転車で幼稚園へ。アオと別れて、近藤文具店へ。LIFE!社の20×10の原稿用紙100枚がそのまま束ねられているノートがあるのだが、それを7冊購入。さらに方眼のノートも。原稿用紙をタイガースとパーマに。そして方眼の方をフーあげた。それぞれ執筆したらという気持ちで。坂口亭タイガースには、幼いころから治らない眩暈を治すために、今、通っている医学塾天真楼での歩行訓練の過程を、玄白先生の言葉を、記録して「歩く虎」という本を書けと命じた。坂口亭パーマには、周辺のおじいちゃん、おばあちゃんの話を、肩でも揉ませてもらいながら、聞き取って「肩たたき」という本を書けと命じた。その後に、日本一大きいハンセン病療養所である熊本の「恵楓園」に住む人々の記録を二人で実施してほしいと言った。そのことを、合志市の元市会議員野田さんに電話で伝える。この80歳代の人物も傑人である。フーには梅山が出したアイデア「日記」を書くように促してみた。フーは昨日、僕の前で涙を流して、少し楽になったようだ。生きる喜びを噛み締めて、寝ることもなく執筆に邁進する人間が、突然、顔色を変えて、死にたい自信がない家族を持って不安だお金がない、とか言い出すのだから、フーが受け取っている天国と地獄の落差もやはり僕と同様大きいはずだ。だから、とにかく傷が深くなる前に、僕になんでも言えと伝えた。そして、その様子は絶対に記録にとったほうがいい。僕の躁鬱の状態の記録にもなるし、梅山への連絡帳にもなる。手書きでいいから、やってみなよと伝えた。
フーは僕が作品へ向いすぎていくために、自分のことを必要としていないのではないかとも思っていたようだ。そりゃないだろ、お前とは思ったが、誤解されているところがあるので、それを説明した。それでも肌の触れ合いは減っていたのかもしれない。手を繋ぐとか、抱きしめるとかそういった行為の重要性を再認識した。とにかく離れるときは手や体を触ろう、何か仕事が一段落ついたときには肩でも摩ろうと思った。アオと僕が、今、二人で自転車に集中して、創作意欲も湧いている。そこで生じた孤独もあるように言っていて、そのことを説明している人間、フーがまた野生の鹿のように見えてきて、愛おしくなった。僕は、フーが弦におっぱいをあげていて、僕まで近寄って、弦かわいい、かわいいと言っていたら、アオが寂しくなるのではないかと思い、とにかく今はアオとがっつり、半端なく面白いことをすることに集中していたと伝えた。だから、アオが帰ってきたら、フーも忙しくても、抱きしめてあげて、その間、僕は弦との楽しい時間を過ごす、そうやって、ちゃんと分担していこうと話し合う。こういう時間が少なかったのかもしれない。僕はもう基本的には熊本を離れず、家族と一緒にいながら創作に打ち込むという生活に変えていこうと思っていると伝える。だから、ずっと送り迎えは僕がやるし、アオとは幼稚園が終わったら、少し遊ぶし、坂口亭タイガースとパーマもアオをあやすのが上手いから、みんなで仲良く子どもを育てればいい。いろいろと面白い。こうやって、学んでいくのだろうと思った。僕は親父が会社員だったにもかかわらず残業せずにずっと一緒にいてくれたことが自分の安心に繋がっている。時間を奪われず、いつも暇でいたい。
午前10時になって、今度は幼稚園のたんぽぽ組の子達30人が先生に連れられてやってきた。まるで、別の種族が零亭集落に訪ねてくるような雰囲気を感じた僕は、大きな葉っぱを引きちぎって「かんげーーーい!かんげーーーーい!」と言いながら、舞を披露した。子どもたちは、笑い、僕にぶつかってくる。その中に、僕の娘であるアオがいるのはなんとも不思議な気持ちだった。本来なら僕の零亭集落にいるはずのアオが、幼稚園種族の派遣員の一人として、僕を見ている。アオは僕のところに飛んではこなかった。遠くから、笑ってみていた。なんかその距離を僕はとても面白く感じた。そして、僕は彼らに零亭の庭にある木の上の家「猿巣」を案内する。ディズニーランドのごとく、一度に六人の子どもを上に連れて行き、窓から顔を出し、一枚ずつ写真を撮っていく。僕の家には変な鉄くずや動くものなどが一杯あるので、子どもたちは興奮していた。それを見て、アオが嬉しそうな顔をしていた。自分の家に友達が30人来てくれるなんて、不思議な感触だなあとアオを見ている。最近、アオは本当に幼稚園を楽しんでいる。かんな、まほ、みゆ、りきや、など親友たちもできている。とても恥ずかしがりやだったアオは、少しずつ活発になっている。僕に似て、ありえないほど、繊細なのは変わらんけど、それはいつか淡い変化する色になる、と僕は思っている。僕はペンタックスで写真もとった。
二階の僕の書斎にも案内する。僕の家は縁側の柵も適当だし、その向こうは川なので、最高に気持ちがよいが、子どもにとっては危険でもある。それでもそういうところで遊ぶのが楽しいのだ。僕ははじめにどうすればいいかを彼らに伝えた。この零亭は今、90歳のおじいちゃんです。壁は全部土でできてます、おそらくみんなの家とは違います。だから、やさしく、ひいおじいちゃんと思って、優しく、でも元気に遊んでください。土は触りすぎると壊れるから、なでてね、と伝えた。彼らは聞いてくれて、そして、一時間半ほど遊んだ。最後には僕が歌を贈りたいと「たんぽぽ」を歌った。彼らはその歌を園長先生を送る歌で歌っていたので、僕に合わせて、みんなで31人で合唱した。零亭に子どもの歌声が響く。僕は泣いた。ただ泣いた。子どもがたくさん元気にいるという空間とは、なぜここまで豊かなのだろうか。子どもたちはたくさんで育てたいなあ。できぬ夢を描く。思わず、幼稚園の先生に、零亭を幼稚園の分園にしていいですよと伝えた。零亭はいつでも誰でも使って良いですよ。打ち合わせでも、週末でも、子どもでも大人でも幼稚園に関係していることなら全てなんでも使っていいですよと伝えた。まずは、ちゅうりっぷ組とふじ組さんも連れてきたいとのこと。みんなでモバイルハウスも作ろうよ。楽しいよ。
午後1時半にアオを迎えにいき、家へ。そして、原稿を今度は読みに、早川倉庫へ。午後4時過ぎに、家に戻り、熊本駅から博多へ。赤坂の山本文房堂で矢立を買っちゃう。岩絵具も豊富だった。福岡にも趣味人がいるんだなあ。そして、VooDoo Loungeへ。ユンさんとタンゴと。七尾旅人くんと友部正人さんのライブ。七尾くんはライブ自体はすごかったが、やはり喉の調子が心配になり、天真楼に連れて行きたくなる。しかし、明日インタビューだから無理とのこと。残念。今度はライブではなく、療養で熊本に来てもらおう。楽しく話す。友部さんとも再会。2005年のニューヨーク以来だから8年ぶり。友部さんの、うたを唄えば詩になる、という言葉が入っている歌と、ビルの十三階に水が湧き出ている歌、そして100%ここにいる、という歌、やばすぎた。。ぶっとばされた。一人なんか、気を失って倒れてしまった。で、みんなが立ち往生している。人が倒れた状態に悲しくも慣れてしまっている僕は、そいつのほっぺを目一杯叩いた。そしたら、目を開けた。芸術に対峙すると、気を失う。だから、油断してはならぬと伝えた。フーから「アオがパパが福岡に住んだらどうしようといって泣いてた。もう寝たけど。明日も自転車で送ってあげてほしいなあ」というので、終電で帰る。午前2時に熊本に到着。自転車で家に帰る。藤野からクリストファー・コードウェル「幻影と現実」が送られてきている。
自由とは必然性の認識である エンゲルス
床に就く。今日は久しぶりに酔っぱらった。そして、酒が全く必要のないことを再認識する。
朝。雨が降っている。親父に電話して、ミニクーパーで迎えにきてもらい、僕も一緒にアオと幼稚園へ。車よりも自転車が好きだとアオは言う。なんで?ってきいたら、車は風が吹かないからいやだと言っていた。ベンツゲレンデも秘密の車庫に停車したままになっている。僕もタクシーに乗ることがなくなった。自転車にはまっている親子である。でも、雨の日は、やっぱり車がいいね。アオと幼稚園に行くと、アオが所属している、たんぽぽ組の担任の先生から、
「坂口さん!」
「おはようございます!どうしました?」
「明日、零亭に行ってもいいですか?」
「先生がですか?」
「いや、たんぽぽ組30人で!」
面白すぎて笑って、いいですよ!もちろん!と答えた。すると、アオが少し誇らしげな顔で、
「ゼロには、おおきな木がほしいみたいな、木の上に家があります」
大きな木がほしい、というのは、佐藤さとるさんの絵本である。少年が木の上に家があったらと空想する楽しい絵本で、アオが好きだったのだ。その熱意を見て、昨年の4月、僕は零亭の庭に生えている杉の木にツリーハウスを作ることを大家に内緒で決めたのである。あれから、そのツリーハウスが帯になった本が6万部も売れたのに、熊本日日新聞にも出たのに、大家さんは文句一ついってこない。とても心の優しい大家、不動産の人で、僕は心から嬉しい。だから、この場所はやっぱりずっと守っていきたいなと思う。築90年のこの60坪の家を、ずっと借りてたいなあと思っている。熊本市中央区のど真ん中で家賃3万円という破格の坪井川の夏目漱石の家の目の前、横井小楠の生家の目の前、宮部鼎蔵の生家の目の前、小泉八雲ゆかりの地に、零亭は位置している。そのちょいと先には熊本随一の国学者だった林櫻園先生が作った家塾「原道館」があり、その目の前には宮本武蔵の旧居跡まである。とんでもない場所なのだ。僕が仕事をしている場所は。今は弟子たちが二人で暮らしている。その零亭に幼稚園児が30人遊びにくる。なんか素敵だなと思った。町に馴染んでいっているような気がする。そして、自分の家に、たんぽぽ組の子たちが幼稚園の行事として来ることを嬉しがっている様子で、僕も笑顔になった。みんな、生きているなあと最近思う。するどく生きている。温かく。
零亭へ。ギターの練習をする。そして、パーマとタイガースを連れて、散歩する。僕がいつもお世話になっているところに挨拶周りをしようかと思ったのだ。弟子を紹介しようと。近藤文具店に行く。ここも明治からやっているところである。ここは筆が強い。揃っている。人髪の筆を見せてもらう。子どもができたら、ずっと切らずに伸ばしておいて、それで先の方を切って、筆を作ってもらうそうだ。アオの筆を作りたいと思ったが、一度鋏をいれているのは駄目なんだと。がーん。知らなかった。弦のときは髪を切らないで、筆を作ってもらおうと思った。ここの方は僕の新聞連載を楽しみにしていてくれた方。本当に新聞連載は僕にとって重要だった。熊本の人々への挨拶になったのだ。町を歩きやすくなった。僕は人間を、その思い出を、記憶を採集している、記憶採集者である。そのためにはみなさんに顔を覚えてもらわないといけない。旦那業を訓練していると思って、僕は毎日ひたすら町を歩いている。最近は自転車にも乗っている。これで鬼に金棒である。
次に河島書店へ。ここも明治からある。僕はここで昭和18年に河島書店で出版された林櫻園先生遺稿集、糸で編まれた最高の本を3万円で買って、フーに怒られた。でも、怒られても本は残る。それは僕の宝物として、今、僕の手元にある。こんな本、なかなか見つからない。ここには加藤清正公の直筆まで売っている。85万円。ついつい買ってしまいそうになり、フーの顔が浮かび、書店内でなく、店前に並べられているセール品を弟子に買ってあげることにした。本の選び方を教える。まだ知らぬ人間にとって古本屋はただの満天の星空だ。そこから星座をつくる必要がある。僕は本を読めないのに、本を選ぶのが得意である。その人がどんな本を読めばいいかが、一瞬にして分かるのだ。ということで、背表紙で本を見つけていく方法論を、僕の我流なのであるが、それを直接見せた。
坂口好み選書 於、河島書店 2013年4月24日
またフーに怒られるかもしれない。こんなに本を買ってしまったら。でも本は残るから大丈夫なのだ。本ならいくらでも使っていいと勘違いしている僕は、パーマとタイガースにこんだけ本買いながら、アオに林明子さんの絵本を18冊も福音館に注文していまっている。さらに、ピーターラビット全24巻セットまで注文してしまっている。巻物を獲得せよという毘沙門天からの命令に背く訳にはいかず、怒られるのを覚悟で買った。それでいい。店主の奥さんと話をする。柳田國男編集の採集手帖がかっこよすぎる。今和次郎も使ったのかなあなどと妄想する。腹が減ったので、向かいのこむらさきで三人でラーメンを食べる。そして、大谷楽器へ行き、ブルースハープを三つ買う。古本屋で払った金と同じ金額でいろいろと不思議なことをかんがえる。しかし、僕には本は必要がない。僕は本をあげたいのだ。本は書くものだと思っている。もちろん必要な書は、読む。しかし、僕は基本的には頭の中に鳴り続けている音楽を採譜するかのように原稿を書くだけだ。その毎日を行う覚悟ができた。もうインターネットはしない。僕は徹底して書くのだ。早川倉庫に勝手に結んだ庵「雪鵶(ゆきがらす)」で書くだけだ。真っ白いカラスのことだ。空巣の別読みでもある。そして、僕は坂口恭平であり、空巣(くじょう)であるということが判明した。空海ではなく空巣なのだ。ま、それは人々には妄想と捉えられるのはしっかりと理解できるので、妄想と呼べばいい。僕もある部分の腰では妄想と思っている。しかし、恐ろしいことに、坂口恭平は三部作を書く。しかも、それはその後の三部作のための三部作だという入れ子構造の執筆意欲が生じている。「幻年時代」げんねんじだい、「船鼠」ふなねずみ、「雪鵶空巣」ゆきがらすくじょう、というものになるらしい。と、一応、妄想も記録しておこうと思う。そして、ブルースハープを吹きながら、音楽を奏でながら、幼稚園に戻り、アオを連れて、零亭へ。アオはタイガースとパーマと遊んでいる。アオが傘を10個くらい重ね合わせて家をドームを作っている。0円ハウスである。びびった。しかも、超幸福そうな顔をうかべとる。よかったね。僕はヨネが担当しているPAVAOの横の新店の工事現場へ。ヨネにちょい叱る。建築をやっていないと見えた。
工事が終わって、六月になったら、僕とヨネとパーマとタイガースと造園家木村雄一の五人で伊豆に行ってみようかなとぼんやりと思い始める。僕は尾道にも輪島にもいかなくてはいけない。いろいろといく場所が増えている。すると、今度は鹿児島から電話がかかってくる。鹿児島の焼酎酒造から、限定2000本の特別な焼酎のラベルの絵付けをお願いしたいとの依頼。しかも、毘沙門天の絵を描いてくれとのこと。なんだか、江戸時代みたいなノリになってきたね。しかも、依頼主はどでかい会社であった。良い仕事になるかもしれない。受けた。
家に帰ると、坂口恭平の料理番、坂口家の料理の先生、細川藩古料理の伝承者である、今では坂口家の新しいお母さんである、ひろみさんが天草スタイルの漢方漬けの鳥の丸焼きを持ってきてくれたので、先日、天草でもらって帰ってきた濁酒を飲みながら頂く。天草は全て、ひろみさんの紹介で僕は旅行する。ひろみさんは僕の行動に感嘆してくれて、全ての料理に関することを助けてくれる。タイガースが通っている医学塾「天真楼」のことも彼女から紹介してもらった。本当にこういう医学、料理、水、とにかく熊本の文化の高さを恐ろしいほど実感している坂口恭平である。途中で、アオがまた「ことはあそび」やろうと言ってくる。もちろん、やった。今日はこんな感じだった。
ことはつくり
二節
2013年4月24日
らせえ
ちにみ
うのは
すけりや
かよくへ
ふそねお
これゆも
いし
まぬろ
めんと
たる
ほむわ
きひあさ
なつ
て
これを僕はこう感じをあててみた。
らっせえ 地に見えた卯の葉が
巣蹴りや 寡欲な扶蘇根緒を
是湯も石に真塗ろ 面と樽に
穂の無い輪の基肥は麻
夏の手
勝手に解説すると、ある男がいる。褌一丁の男である。この男は狂っている。おれのように気違いである。ある日、家族が今でちゃぶ台で夕食を食べている。夏の午後7時ごろ、まだ完全には日は沈みきっていない。空にはまだ赤みも少しある。狂った男は、そとに着物を脱いで褌一丁で出て行く。ちゃぶ台の嫁は諦めている。この狂人はもう仕方がないのだ。彼はどでかい、石を彫り続けている技術もないのに石工だと言い張って、家族は霞を食って生きている不幸な家族の風景。男は自分で彫った石の大きな穴に湧かしたヤカンを持って、お湯を垂らしている。手には三味線を持っている。
「らっせえ!らっせえ!」
男が家を出て、庭の巨大な石に向っている。庭には大きな楠があり、何かの鳥が作った巣が落ちてしまっている。そこに卯の葉っぱが、まるで巣を蹴ってでもいるようにくっついている。手に持つ三味線を調律する男。まったく装飾のない寡欲な三味線の根緒には、始皇帝の長男である扶蘇の顔が金で描かれている。ヤカンのお湯をその巨大な石に彫った穴に入れる。しかし、穴も大きいので、ヤカンのお湯では一杯にならない。しかし、それでも男はそこを野外の五右衛門風呂みたいな勢いでお湯の薄い風呂として入り、三味線を弾いている。お湯を掬い、石を塗るように濡らしている。桶の面だけでなく、石という樽全体に。穂を全部落して茎だけで作った輪っかを、肥料にして作り上げた大麻を男は丁寧に吸っている。そして、三味線を弾きながら、歌っている。奥のちゃぶ台には妻と娘と息子が下を向いて食事をしている。沈黙なので、三味線が鳴る。そんな三味線をがなり立てるように弾く、男の夏の夕暮れの手にフォーカスしているカメラの映像が見える。 というような物語にある。アオと一緒に考え出した「ことはつくり」。無茶苦茶面白い。
ことはつくりで、一本本が書けそうな勢いである。
夜、帰るひろみさんが、夜道を歩いて帰るというので、一緒に熊本城まで送りますと言って、一緒に歩いた。坪井川遊歩道という僕が大好きな小道を教えてあげた。ひろみさんは知らなかったので、よかった。送ったあと、今度、人吉高校にいくので、人吉のとても親しい知り合いに電話で伝える。泊まりにおいでよと言っていただく。僕は本当に人々に守られて生きている。僕はどの団体にも、文壇にも、建築界にも、所属していないが、僕は人々にとっては無名の、僕にとっては名を知っている、つまり町に生き生きと生きる名を持つ特定の無数の人々による助力で成立している。つまり、坂口恭平という概念は一人ではないのである。坂口恭平はそれらの人の集まり、重なり、繋がり、編み込み、によって構成されている。それを今、幻年時代で描いている。そこに気付けたのだ。僕は。そして、自分はその繋がりの星座を示すための虹を作る幻術師かもしれんと思った。源氏物語のなかで紫式部は「まぼろし」という言葉を使っており、そこでは「まぼろし」=「まぼろ・し」つまり、まぼろ幻を表出させる師、そういう職業の人と捉えている。面白いなあと思った。土佐日記とか蜻蛉日記とかも読んでみようかなと思った。僕は坂口恭平日記を書いている。これは僕の物語でありながら、人の動物の植物の道具の音楽の物語だと思って書いている。僕は僕の周辺の人々の交わり具合を、図像化したいようだ。それは絵では不可能で、文字では可能だと自分は確信した。だから、僕は書いている。ずっと書いている。そして、横のフーが泣いている。
「おい、どうした?」
フーは、ほとんど精神の揺れ動きがない人だ。そのフーが泣いている。産後は不安定になるとは聞いたが、そういうことなのだろうか。とりあえず、背中をさすってみた。そして、二人でお茶を沸かして、ゆっくり話をした。お互いの誤解があったようだ。フーはとても素直だが、どこかだけちょっと頑固なところがある。しかし、その頑固さがあるからこそ、このほとんど精神分裂状態のまま生き続けてしまっている一年のうち3ヶ月程は完全な亡霊となり布団の中で24時間口もきかず悶えている男と一緒にいれるのだろう。ほとんど、というよりもフー以外はみんな嫌だと思う。僕は楽しいときには楽しい。だからそれが好きで集まってくる人もいる。それは分かる。そして、そういう人間は必ず般若の面に僕がなったとき、消える。だから、そういう人は気にしなくていいのだ。僕が優しく温かい言葉を届けなくてはいけないのは目の前のフーなのである。この女は違う。どこにも逃げずに、いつベランダから猛ダッシュで飛び降りるかわからぬ、この精神錯乱男と、温かい家庭という城をどうにか築いてきた建築家だ。コンクリート基礎を作ってしまったら、もうとっくの昔に倒れていただろう。だから、フーはモバイルハウスみたいな可動式の地震で揺れ動いたとしても絶対に倒れない、そして、可動式の家庭空間を作ったのだ。この男は素晴らしいときは半端ない動きをする。それは僕も認める。しかし、問題はその見えていない部分なのだ。その闇とフーは対峙している。楽しいときの僕はその闇とは対峙できていない。なぜなら完全に人格が分裂し、闇の記憶を失ってしまうからだ。そのどちらも会っているのはフーのみなのである。だから時には涙が出るのである。でも、僕は今回は謝らなかった。おかげで、とんでもない幻年時代という子どもが、今までの作品がこのための修行であったと確信できる、つまり転生・坂口恭平の処女作と思える作品ができた。それはお前のおかげだし、本当にありがとう。そして、おつかれさま。まだ完成はしていないけど、脱稿はあと、黙読、音読を完了すればできる。だから、終わったら、どこかでゆっくりしよう。
己の行動の意味が分かってきている。僕はもうそんなに東京にいく必要がない。僕はずっとフーとアオと弦と時間を過ごしたい。そして、そうなるだろう。ただ、書を、巻物を、絵を、作り、町の人と出会い、親友達と語り合い、アオと自転車にのり、弦のゲップを出し、フーと川沿いを歩けばよいのだ。さすれば、どこまでも遠くに届く。もう人前に出る必要がない。隠遁せよ。消えて亡霊となって奈良時代にでも跳べ。そこがお前の次の舞台だ。福岡県糟屋郡新宮町。僕が0歳から9歳まで育った町。この糟屋郡新宮という地名は奈良時代から変わっていない。そんな奇跡の町で僕は育った。そして、風がいつも吹いていた。九州を舞台にした現実の己と江戸時代の己と安土の己と室町の己と平安の己と奈良の己と古墳の己と縄文の己を。福岡の建築家、親友井手健一郎からメール。僕が頼んでいた新宮の縄文期の地図のファイルが届く。九州大学下山正一教授の論文からの引用であった。
「これ、福岡の縄文海進極盛期の海岸線と、第三紀層と第四紀層の境界線の図。新宮、かなりスウィートスポットみたいだね」
つまり、僕の暮らしていた土地は縄文時代から陸地だった。そして、やはりそこには宮があった。
僕の体は熊本だけでなく、というよりもむしろ、坂口恭平はまず、福岡の地で体を動かし始める。ここでの地面からの気配を感じている。
そして、なぜか、明日、2013年4月25日、僕は音楽師七尾旅人に誘われて、福岡で行われる友部正人さんとのライブを観に行くために、一人で福岡へ行くことになっている。新宮にはおそらく時間の関係で立ち寄れない。新宮には九州最古の民家があり、そこに坂口恭平の守護神である毘沙門天が、しかも最澄が直接彫ったと言われる毘沙門天の木像が納められている。最澄が焼べた火は、今も住人によって千年の時を越えて、今も燃えている。横には岩井の水と呼ばれる、最澄が探し当てた水脈から水が湧き出ている。
ここが七月に幻冬舎から出版されるはずの「幻年時代」の舞台である。
妄想も存在するし、現実も存在する。現実というものは、妄想と呼ばれている想念、思考、空間、時間が合わさってできた複雑な生命体の先っちょから、少しだけ顔を「現」した「実」なのだ。実だけを見てはいけない。人間も根を持っている。シモーヌヴェイユが集団の意味を「根をもつこと」に書いている。それを一行読み、泣くが、やはり今日もおれはサイレースを飲まなくてはいけない。そして、強制的な眠りの世界に入らなくてはいけない。それをフーと約束した。フーは僕の探求を止めようとする侵入者ではないはずだ。おそらく心優しい僕の妻である。だから、僕は安心して、錠剤に手を出し、口に含む。紛れ込んだ、小さな銀紙の屑が歯に当たり、金属音が鳴った。眠ってはだめよ。今すぐ福岡に行くのよと、なぜか頭の中で聞いたことのない女性の声が聴こえる。しかし、それは不思議と初体験ではないような気がした。何の声なのだ。それは。フーは今、目の前で寝ている。ベランダだと中に煙が入るので、玄関ドアを出て、煙草を一服だけする。暗闇が恐ろしい。吸い殻を灰皿にぶちこんで、扉を開け家の中に入ろうとしたとき、透明の男の手が入ってこようとした。おれは焦って、ドアを閉めようと試みる、しかし、手は力を入れ、おれも入れろと聴こえない空の声を出した。あー、恐ろしい。おれは今、何と対峙しているのか。その時、弦が泣いた、音を鳴らした。再び、坂口家の温和な空気が戻ってきた。おれは安心して今から、電源を切って、深い人工的な眠りに入る。
明日は午前10時に零亭にアオの仲間30人がやってくるのだから、早く寝よう。
ようやく現実と人が呼び、僕も一応、認識することのできる世界にピントが合った。アオは寝ながら、体を掻いている。
なぜ、人間は痒くなるのか?と疑問になった。
なぜ、弦はゲップ、おくびをするのか。しゃっくりもよくする。そして、母乳を吐く。なにが違うのか。そして、その目的は?
僕は自分の体について何も知らないことを知り、恐ろしくなる。
まず、考えなくてはいけないのは、おれの体とは何か?である。眼球の中で水晶体に何が起きているのか。目の中には水晶体と繋がる硝子体管というものがある。硝子、つまり硝子である。眼球の中の硝子はゼリー状らしい。ますます分からなくなる。ワタリガラスは本当に烏なのか。
今日は弦が産まれて、ちょうど一ヶ月。一ヶ月検診にお昼過ぎにフーと弦はいくという。僕とアオは今日も自転車に乗り、幼稚園へ。緑の桜並木に並んで自転車で走る。零亭へ戻り、ギターの練習。寿限無の歌詞が完成した。
じゅげむ
じゅげむ じゅげむ ごこうのすりきれ
かいじゃりすいぎょの すいぎょうまつ
うんらいまつ ふうらいまつ
くうねるところに すむところ
やぶらこうじのやぶこうじ
ぱいぽ ぱいぽ ぱいぽのしゅーりんがん
しゅーりんがんのぐーりんだい
ぐーりんだいのぽんぽこぴーの
ぽんぽこなーの ちょうきゅうめいのちょうすけ
おれのむすめのなまえは
さかぐちあおといいます
おれのむすこのなまえは
さかぐちげんといいます
すべてのいきものさまよ
どうぞよろしくおねがいします
このやさしいふたり
このなみだのかたまり
どうか生きてください
ライブの練習をする。タイガースとパーマが聴いている。パーマに早川倉庫のユウゾウからもらった鹿児島土産をあげる。坂口亭タイガースは、幼い頃から眩暈がするという。飛行機に一度乗ったことがあるらしいのだが、発狂しそうになったという。それで、困っているという。病院ではどこも原因不明という。原因不明などないのに。それは、ただ「わからない」ということなのだ。原因不明なのではなく、ただバカだから分からないのだ。それが人間だ。それに気付けばいいのに、科学的に考えてしまう。しかし、熊本は違う。僕は杉田玄白を知っている。秘密の医学塾である天真楼を僕はタイガースに伝達した。そこに彼は今、週三回通っている。
一回、2000円くらいするらしい。でも、一度、行ったあと、どうだったか?と聴くと、狂人のようだが、西洋医学も東洋医学も等しく取り扱っており、なんにせよ、先生の言葉が面白すぎるので、通いたいですと言う。金はあるのか、と聴くと、今は、月に一度、一週間だけ大阪へ行き、阪神タイガース関連の仕事をして、それで、零亭におれば、宿代は0円だし、食事もパーマくんとなんとかやっておりますので、なんとかいけるかなと思ってます。と言う。足らなくなったら、日雇いをせよと伝えた。ありえないくらい面白すぎて、涎がでるような日雇いをみつけ、2000円の三回だから、6000円の日雇いを見つけ、週に一度、それをせよ、そして、タイガースに仕事を与えた。
「お前の仕事は療養である。真剣に死ぬ気で療養してくれ」
彼が僕に手渡したのは、天真楼からもらった一枚の紙である。そこにはぐにゃぐにゃのまるで僕の大好きな南方熊楠の南方マンダラのような不思議なぐちゃぐちゃな線の運動線であった。これはなんだとタイガースに聴くと、
「これがどうやらおれの重心の移動の軌跡らしいです。これは歩行検査というんですけど、ちゃんとバランスが取れている人は、一点におさまるらしいんです。それがおれのは一秒ごとに重心がずれている。眩暈の原因を西洋医学は追ってきたのですが、玄白先生は、まずは体の使い方を教えたいと言ってます」
その一秒ごとに重心が変化し、止まって作業することができずに、結局、零亭へとたどりついた坂口亭タイガースは、玄白に、
「よくぞ、この場所にたどり着いたな」
と言われたそうだ。僕は玄白の言葉の全てを記録することをタイガースに命じていた。録音したければちゃんと許可を取れと言っていたが、
「録音してもいいかと聴いたのですが、駄目だ、まずは体の使い方を教えるから、その後だ、と言われました」
タイガースも面白い旅をはじめているようだ。録音は別にカセットテープでするのではない、人間も録音機能を持っているということだということで、あらゆる電気的なものの使用を禁止し、耳でききとり、ノートに鉛筆で記録しろ、できるなら、和紙がいいな、お前も森本に行って来いと伝える。こうして、元テレビの構成作家をめざしていた男は、零亭にきて、めまいを告白し、療養自体を仕事とし、その記録を書に巻物に残すことになった。
「歩く虎、とかでいいじゃないか書名は。歩くとは何かを玄白に教えてもらっているのだから、しっかりとそれを書け」
こうやって人は本を書きはじめるのである。可能か不可能かは自分次第である。まあ、別に本が書けない人間でも何も人生が終わりというわけではないが、すごい体験と共に、書ははじまる。だから今、お前はチャンスなんだと伝えた。
その後、キャッスルホテル九曜杏で原稿。最終章を書いている。とんでもないことになってきた。あと原稿用紙7枚分の手直し部分だけとなった。約80000字。原稿用紙で200近く。大体、ゼロからはじまる都市型狩猟採集生活と同じくらいの分量になりそうだ。体が震えている。こんなものを書けるなんて、書き始めたころは思ってもみなかった。その獣道を歩いたら、気付いたら、見たことも無い色をしている海の砂浜に出てきてしまった。そこに僕は立っている。立ち尽くしている。
あんぱんを買って、幼稚園の迎えにいく。アオと自転車に乗って帰る。
アオがぼそっと言う。
「ぱぱ、あおちゃんね、ぜんぶおぼえてるよ。わすれてないよ」
「アオは本当に記憶力がいいよね。半端ないよ。おれよりすげーかも。どうやってんの?」
「あのね、わすれないためにはね、かんがえればいいとよ」
もうすっかりと熊本弁に変幻したアオの言葉が胸にぐさりと突き刺さる。そして、アオは一歳のときの記憶を語った。
「このまえね、ままが、むかしの、びでおみせてくれたよ。あおがたったとき。あのときね、ののちゃんがあそびにきてくれたから、それがうれしくて、たったんだよ。でも、ののちゃんがおすから、いやになったから、あおちゃんね、もうたつのやめたの」
アオは僕が撮った立ち上がったデジタル映像を見て、そのときの自分を思いだしたというのだ。元々人間はすべて記憶している。しかし、一歳のアオは言葉を持たない。だから、必死に伝えようとしても伝わらない。その藻掻きが、彼女に「記憶する」という強い欲求を引き出す。それと同時に、彼女はののちゃんという姪っ子が訪ねてきてくれたことを喜び、はっきりと意志をもって、足をつかって、喜びを表現したというのだ。言葉にはならないが、足や記憶をつかって、その感情を表現していたのである。僕は驚愕し、ひれ伏した。この目の前の僕の娘はおそらく、娘だけではない。僕の先生である。認識のための、記憶とは何かを追い求める旅案内人である。かつ、いつか帰っていく、その世界の同じ村の住人である。涙が出たが、これを見せたら、またあの鬱状態で苦しみ泣き叫ぶ獣の僕を思い起こさせてしまうので、そっと拭いた。アオは本当に優しい心の持ち主である。そのためにも彼女の行動を一字一句ちゃんと記録をする義務があると思った。僕は仕事よりも、むしろ、アオと遊ぶという「事」に「仕」える芸術家でいようと思った。この子は、この生物は、全てを記憶している。そして、それはどの人の子どももそうなんだろうと思った。
家に帰り、僕は家を出て、早川倉庫へ。僕の今の頭の中は幻年時代だけである。しかし、同時にその書は、僕に様々なイメージを想起させてくる。それは魔界のような空間である。そこを覗かなければ、どんどん原稿が進むはずなのに、僕はどんどんつぎ込んで行く。
今回の幻年時代の発想の起点はいくつかあるのだが、その中でも林明子さんという絵本作家の、僕の中の三部作「おふろだいすき」「はじめてのおつかい」「きょうはなんのひ?」は僕が四歳ころに親にもらった宝物である。そして、僕は芸術を志す。僕はもうすでにワタリウム美術館のワタリさんに電話をしていた。
「ワタリさん」
「おっ、どうした?」
「林明子さんというのは絵本作家ではなく、芸術家なんですよ」
「この前、キョーヘーがやばいというから、見たよ、その三冊。うん、確かにやばい」
「だから、林明子のその三冊の原画展をワタリウムでやるべきかと」
「なるほど」
そして、その瞬間、僕は福音館書店に電話をする。福音館書店こそ、僕がもしもこの会社を全てぶっ壊そうとしているテロリストである坂口恭平が、唯一、勤めてみたいと大学時代に思った会社である。僕は一度、「こどものとも」から原稿依頼を受け、完全に鬱状態であったにもかかわらず、「おふろだいすき」について原稿を書いた。こういう原稿だ。
小学生の時に、自分の学習机の下に潜り込んで画板で屋根をかけ「家の中の家」を作っていた。それが後の建築家を目指すきっかけになるのだが、僕が興味を持っていたのは単純な「たてもの」ではなくて、学習机が家に変わる瞬間の「空間」であった。机の下に潜り込むと、普段足を置いていて目に付かない机の下は「洞窟」に変わり、椅子の座面は「テーブル」になる。そこから見た六畳の子供部屋は部屋ではなく「外」に感じられた。部屋の広さ自体が変化したわけではないのに、そこにある机や椅子はいつもと何ら変わらないのに、なぜ空間の大きさが変化したのだろう。それが気になるもんだから、建築家を目指しながらもどんどん道がずれていってしまい「建てない建築家」になってしまった。
「おふろだいすき」はそんなことを考えるきっかけになった絵本である。母親が好きだったのだろう。うちには林明子さんが絵を担当した絵本がいくつかあり愛読していた。一人で入ればただのお風呂かもしれないが、アヒルのプッカを連れて浮かべたらそこはお風呂というよりも湖のように見えてくる。お風呂という箱のような空間が、人が入ってきて、愛着のあるオモチャが入ってきて、石けんを使い、泡を立たせ、波を起こすと、どんどんと空間が広がっていく。浴槽も大きくなり、最終的には海にも繋がってしまう。
当時、僕はこれを空想ではなく、リアルなお風呂空間の捉え方をしていると感じたように思う。
人間は目で見えるものだけでなく「目に見えないけど感じることができる」空間を持っているという直観はその後も僕の仕事に大きなインスピレーションを与えてくれている。
町を歩けば、どこも大きなたてもので溢れている。空高く聳え立つ高層ビル群を眺めながら、目に見える世界に何もかも表出させなくたって、視点のスイッチを変えるだけで「おふろだいすき」みたいなスペクタクルが作り出せるのになあと思う。
その依頼してくれた担当編集者インナミさんに繋いでもらう。
「坂口さん、お久しぶりです」
「お久しぶりです。あの、突然なんですけど」
「はい」
「林明子さんの原画展をしたんですよ」
「はい、、、」
「今年、絵本が出ましたよね。新作が」
「はい、そして、あれで最後とのことです。もう新作は出ないと思います」
「本当ですか。。僕は、おふろだいすき、はじめてのおつかい、きょうはなんのひ?、で育ち、生きる目的を見つけました」
「光栄です」
「原画ってどこにあるんですか?」
「原画は宮城県美術館にあります。そこに聞かない限り難しいかと」
「了解しました。ありがとうございます。いつか僕は林明子さんと話をしたいんです。そして、アトリエの図解を描きたいんです。そして、いつか僕は絵本を描きたいと思っています」
「いつか、きっと実現しましょう」
そして、僕は宮城県美術館に電話をする。
「もしもし。林明子さんの原画展をしたいのですが」
「難しいかと思います。林さんの作品はデリケートですので」
「では、どうすればいいですかね」
「ちょうど、今、原画展やっているんですよ。ここで」
「本当ですか!?」
「はい。おふろだいすきとはじめてのおつかいは原画が展示されてます」
「きょうはなんのひ?は?」
「数年前にやったので、今はゆっくり寝かしてあげてます」
その優しさに触れ、僕は原画展を企画することを静かに諦めた。そして、僕は宮城県美術館に行くことに決めたのだ。そして、宮城県といえば、気仙沼である。鳴子温泉である。この二つには石山修武設計の傑作建築が立っている。リアスアーク美術館と早稲田桟敷湯。林明子さんと石山修武のディテールを確認しにいく旅。こうして、また僕は向う必要のある場所を見つけた。次は宮城である。なんだなんだ。何が起きているのか。僕はこれが現実なのか夢なのか、分からなくなっているが、もう既に毘沙門天と起きながらに、起きて見る夢として体験してしまった僕にとっては驚くことでもない。常人なら発狂してとっくの昔に死んでいるだろう。
インナミさんに再び電話する。
「どうしました?坂口さん」
「林明子さんの絵本全てをみたいと思って。福音館書店から出版されている全ての絵本の目録を送ってください。全部買います。今、僕は、おふろだいすき、はじめてのおつかい、きょうはなんのひ、こんとあき、とんことり、おつきさまこんばんは、おててがでたよ、きゅっきゅっきゅ、は持ってますので、それ以外の本、そして見積もりを。あんまり高いと妻に怒られるので」
「了解です。こどものとも、で執筆してもらったので、著者割引という扱いになります」
「やったあ!」
すぐに送ってきてくれた。全部で26冊あった。僕は8冊持っていたので、あと18冊。なんだかかんがえるだけで興奮してくる。ドラゴンボールが一挙に集まるような、ちょっとやってはいけないようなことを、ビックリマンの大人買いをしているような気分だが、それが同時にアオと弦への贈り物なので、許してちょっとおどけると、フーは逆に喜んでくれた。魔女の宅急便の原作の挿絵も林明子さんだからだ。宮崎駿氏は林明子さんの偉大さにちゃんと気付いていると僕は確信している。トトロも魔女の宅急便もアリエッティも僕には奥に林明子さんの描く植物が見える。あー楽しみだ。しかも2万円切っていた。家族四人で一生喜ぶ物を著者割引で買えて、僕は作家になってよかったと妻に誇ってしまった。ありがとうと言ってくれた。ぱぱ、すごい、とアオが言ってくれた。クリスマスじゃなく、幻年時代が脱稿したほうがうちにとっては記念日なのである。一生残る本を、いや、僕が死んでも残る本が完成しそうなのだ。もう臨月どころか、分娩室に入っている。そうだ、絵本はとりあえず横において、僕は原稿に戻らなくてはいけない。
最後の7枚の原稿を書いている。そして、途中で、また坂口恭平の弟子であるが、今は浜松にいる藤野から池田浩士先生著の「仮説縁起絵巻」が献本されてきた。この男は、おれが欲しい本をいつも送ってきてくれる。配本の天才である。卒論は「坂口恭平とドゥボール」である。つまり、キチガイのバカである。勘違いもいいところである。でも、世界でおれだけは、そこに何かの光を感じてしまう。別におれのことを書いているからではない。その気持ち良さが、男に見えるからだ。だから、藤野に言った。
「おい、藤野」
「はい」
「お返しに、今、書き終わったばかりの1081字だけ読んで聞かせる」
「はい」
幻年時代の一節を声に出して読んだ。電話口で藤野がハーハー言っている。
「なんか、心臓が痛くなってきました」
「これが、今の、おれの風圧じゃ。だから、お前も書け。書くのは辛いが、残るぞ」
「はい」
「お前の生活を書け。そして、卒論を送れ。おれは読まんが、おれの周りの天才編集者の誰がいいかをヤッターマンみたいに賽子ふって考えて渡すから」
「はい」
「本送ってくれてありがと。書けよ。つまらん人生なら死んだ方がまし、もう、それでいこうぜ。食えなくなったら零亭にこい」
「今、amazonのマーケットプライスで零亭へコードウェル「幻影と現実」を送りました。坂口さんの捉えようとしている世界への手助けにきっとなると思います」
「おいよ、いいね、その調子だよ」
おれのまわりにはもうすでに人間がいる。だから、僕は周辺に人々と世界を、言葉の世界を作ればいいのだ。人と出会い、それで対話すればいいのだ。会いたいんですけど、という電話はかかってくるが、もう全て断ることにした。偶然会うことしか興味がない。もう弟子を受けいれることもフーに禁止された。だから、坂口恭平、ヨネ、藤野、坂口亭パーマ、坂口亭タイガース、この五人でもって、坂口家は終了である。僕の概念なんて、伝承できると思った僕が間違っていた。そんなことどうでもいい。おれはただ生きる。それをただ見せる。そして、屋根裏に隠れて、一人で原稿と書と絵と音楽を作り続ければいいのだ。僕は完全な創造へと向う。これから。船鼠にもいつか会いたい。新政府は全て真空状態の世界に閉じ込める。いのちの電話も、おれの生き様を見せるという書に現す。シズクはまだ生きていると思う。子を捨てたおれは、その罪をずっと引きずりながら、動けばいい。それでも僕は書こう描こう歌おう踊ろうと思った。このキチガイはただの制作の世界に入る。そして、ほとんどの人間がおれの一番嫌いな会社にはいってしまって、町には誰もいなくなってしまったと焦っていた小学生のころのように、町を歩き、人々と語り、歴史を教えてもらい、この無知なただの世界一勘の良い躁鬱病者はただひたすら、頭の中の渦巻く、そのぐるぐるを、「あ・る・く」などという陀羅尼のような単純な言葉に置き換えて、いつかおれが死んでからかもしれない、いつか出会うことになるだろう、たった一人のその読者に向けて、本を書く。
そして、2013年4月23日、初稿は1月開始。4ヶ月が経とうとしている。そして、今、原稿が終わった。謎がちゃんと解けた。とんでもない本が書けた。涙がぽろりと出た。アオがフーがいないから、泣けた。早川倉庫のおやっさんの前で男泣きした。おやっさんは麦酒を息子で僕と同年のユウゾウは美味しい料理を持ってきてくれた。そして、祝杯をあげた。おれの仕事はまず一つ完了した。
梅山に電話すると、
「おめでとう、よくやったよ。よく超鮮明でありながら、その愚鈍さを保ったよ。今日はもう何もしなくていい」
「今度は何をすればいいんだ?」
「今度は黙読をするんだ」
「了解」
「本は一人で読むんだ。その一人目の読者の気持ちに立って、今度はちょいと優しく、黙読をして、分かりにくいところは切っていけ。生け花みたいなイメージでいこう。最後の調整を行う」
「なるほど、お前、すげーな」
「というか、この本はとんでもないぞ、きっと、すごいとこまで届く、じゃないとここまでおれも付き合わないよ」
「おつかれ」
そして、家に帰ってきた。フーがつくってくれた冷麺を食べる。
リラックスして家族と一瞬の穏やかな団欒。でも、最近はもう東京に行くのを完全にやめたので、ずっと家族といれている。それがとても嬉しい。そんなところに一本の電話がかかっていることに気付く。かけ直してみる。
「はい、人吉高校です」
人吉高校とは熊本にある人吉市にある高校だ。僕とは全く関係がない。人吉はとても好きな場所だけど。
「着信があったので、かけ直しました。坂口恭平ともうします」
「はい。ちょっと待っててください」
しばらく待つと、不思議な答えが返ってきた。
「あのー、すみません、誰も坂口恭平さんにはかけていないそうです」
一瞬沈黙が訪れ、しかし、そんなわけはない、僕の電話に着信があるのだから、誰かがかけたはずだ、いのちの電話もやっていたから、もしかしたら、高校生がかけたかもしれない、探してくれとお願いしそうになったが、おそらく、僕の番号を知っているのだから、もしも必要であれば、またかけてくるだろうと思い、静かに電話を切った。
何か、あっけにとられ、どこからが舞台なのか、おれが何の演技をしているのか、いや、そもそもおれはこの日記で何を書こうとしているのか、その前に、何かをつかみ取る必要なんか果たしてあるのか、というかお前は一体何者だ。勝手に人吉高校に電話してきた、わけのわからぬ、キチガイじゃないかと落ち着き始めた。フーが、不安そうな顔をしている。フーは僕に、恐ろしいが、落ち着いているようでもあり、作品が産まれているのだから、止めるわけにもいかず、どうすればわからずおろおろとしている私も確かに存在している。と言った。そして、二人で話し合う。おれが大津波になってきているときは、不安になる前に、梅山に電話しろと言ったじゃん、それやってみようよ。おれもtwitterやめたんだから。。。とお願いした。フーは固く口を閉ざしている。それでやってみようよ。フーは、僕の大津波で生き延びれていることを知りながら、その力を使いすぎると、地獄に落ちる自分の旦那を、心配し、できることなら、何もしないでゆっくりしてほしいと思っているのだろうか。よくわからんが、自分で抱え込むのはやめて「早めの梅山」でいってくれとお願いする。梅山に負担もかかってきている。あいつも、七本くらい連載抱えている作家でもある。おれが電話し、常に音読して、原稿を書いているのをずっと聴いていることも負担かもしれない。というか、おれは迷惑なおれなのか。と河の畔でぽつんとおれは静止した。
すると、一本の電話が鳴る。
「はい、さかぐちです」
「あの、人吉高校のものですけど」
「はい。見つかりましたか!」
「はい。私が電話しました」
「しかし、職員室では誰も電話しなかったと言ってたそうですけど」
「はい、進路室にいました。すみません」
「いや、全然いいです。どうしました?」
「高校生が、あんまりいい状態にないと思って、そして、教師たちもよい状態にないです」
「でしょうね。背骨が溶けとるようにおれには見えます」
「そこで、坂口さんに講演をしてもらいたいと」
「高校で講演をするのは初めてだし、それは高校生の一生の記憶に残るので、ぜひやらせていただきたい」
「ありがとうございます」
「報酬は0円でいいので、最高の宿と、飯と、温泉と、そして、銘木屋を紹介してください」
「はい」
「先生は何を教えてるんですか?」
「英語です」
「高校の英語教師と言えば、僕が高校生だったころ、通っていた熊本高校の新任の黒田先生という英語教師がいまして、その人の授業が無茶苦茶おもしろくて、ボブディランの歌詞とか使うんです。でも、ある日、僕はその授業をさぼって、黒田先生に怒られるんです。しかも、進路室でした。進路室に呼び出された僕は、なぜさぼったのかを説明しました。その日は僕が好きだった熊本県立美術館でのシャガール展の最終日で彼女と一緒にさぼって、観に行った、と。すると、黒田先生は、Blurというバンドを知ってるかと聞いてきたんです。黒田先生も昔、バンドをやっていてレコードも作ったりしていたそうで、ブラーのベーシストである、アレックスジェームスは無茶苦茶天才でオックスフォード大学にいけるほどの学力を持っていたことを語りだし、お前も芸術もいいが、ちゃんと学問もせないかんよと叱られました。でも、その叱り方がかっこよすぎて、まじで学問するように早稲田大学理工学部建築学科に行ったんです」
すると、電話の向こうの先生が止まっている。
「あの、、、、坂口さん、、、」
「どうしました?」
「その黒田先生が、今、教えているのがこの人吉高校なんです」
「えええええええええ!」
僕は黒田先生と会うべきなんだろう。17歳、18歳ごろに高校で生徒の中にもいなかった、唯一の理解者であった黒田先生に僕は5月20日に会うことになった。高校で講演するのではなく、恩師に会いに行く。そうなってしまった。面白い。人吉は「木」のまちだ。僕は自分の庵を早川倉庫の屋根裏部屋に結ぶことを考えているので、ケヤキの一枚板を今、探している。
毘沙門天、その人間の形をしたものが弘法大師、空海である。空はサンスクリットで数字の0、つまり空海は零の海なのである。ならば、今年、毘沙門天に出会ってしまった僕は何者か。僕は夢想する。零の家、つまりそうなると、空家になる。それ空き家、じゃん、面白いなあ。と思った。でも、僕は家じゃなく巣の人でもある。そうなると空巣、つまり「あきす」になる。文字面は面白い。空を「あき」ではなく「から」とすると、空巣と書いて「からす」と読む。おっ、ワタリガラスが出てきた。いい感じだ。次にカラスの漢字を探す。カラスの漢字は四つあった。「烏」と「鴉」と「雅」と「鵶」である。フーは鵶が好きだと言った。僕もそれかなと思った。すると、アオが、
「ぱぱ、『雪』にするって言ったじゃん」
という。なるほど。鵶に雪。黒に白か。ユキガラス。雪鵶。「雪」「鵶」「空巣」。面白い言葉が並びはじめている。巣の音読みを調べていると、音読みには「呉音」と「漢音」があって、呉音というのは、遣隋使以前にすでに日本に定着していた漢字音のことだ。それで巣を読むと、「ジョウ」と読むのだそうだ。空は「ク」と読む。つまり、空巣は「カラス」であり「クジョウ」とも読める。クジョウにも無数の意味がある。
くじょう
九条 「九条の袈裟」の略。平安京の条坊の一。関白藤原忠通の三男兼実が京都九条に住んで九条家を創設したのに始まる。
公請 僧侶が、朝廷から法会や講義に召されること。また、その僧。
苦情 苦しい事情。「或は関東の苦情を演べ」〈染崎延房・近世紀聞〉
宮掌 伊勢神宮や熱田神宮の神職。権禰宜(ごんのねぎ)の下に置かれる。
九条兼実 鎌倉初期の公卿。藤原忠通の子。九条家の祖。法名は円証。源平争乱期に複雑な政治生活を送るが、源頼朝と結び、摂政・関白となった。博学をもって知られ、典礼・和歌・音楽・書に秀でた。
九帖の御書 中国の仏教書。唐の浄土教大成者、善導の全著作の総称。観無量寿経疏4巻、往生礼讚偈1巻、観念法門1巻、法事讚2巻、般舟讚1巻の5部9巻からなり、日本の浄土宗成立に大きな影響を与えた。
なんだか、えらいことになってきた。ということで、僕はこんな魔界には入らずにアオと遊ぶことにしよう。とりあえず僕の庵の名前は「空巣」で「くじょう」と読むことにした。坂口恭平は陶弘景のように35歳で隠遁生活に入ることになる。つまり、ここから芸術への道がはじまる。この空巣(くじょう)と零亭(ぜろてい)と九曜杏(くようあん)とfelice(しあわせ・伊太利亜語)と坂口家(さかぐちけ)で僕は毎日、文字を書く。たぶん、耐えきれずにすぐまた外に出るとは思うけど、ちょいとそんな乗りでやってみようかと思っている。アオと遊ぶは「ばばばあちゃん歌留多」である。僕たちは、歌留多を次のようにして遊ぶことをみつけた。絵柄を全部裏返して、一枚めくる。たとえば「い」それで止めるかどうかを決める。もう一つ行くと決めたら、まためくる「す」と出たら、それを椅子とする。みたいな、言葉を偶然によって作るという遊びを坂口恭平が開発した「ことはつくり」というゲームをアオとしている。今日のアオは冴えていた。50音によってこんな言葉が編まれた。
もさ 猛者
えき 駅
らせん 螺旋
て 手
りす 栗鼠
なめひお 舐め氷魚
む 夢
ゆ 湯
や 矢
の 野
るうれね 流憂ね
まふ 麻布
いそ 磯
しか 鹿
ろ 露
ほ 帆
とち 土地
はみへく 食み屁く
けこあよ 毛児会よ
わ 輪
ぬたつに 沼田津に
猛者が駅の螺旋に手を
栗鼠が舐め 氷魚が夢を
湯には矢が 野を流憂ね
麻布が磯に 鹿が露を
帆の土地は食み屁く
毛児会よ 輪は沼田津に
みたいな詩ができる。アオと二人ではまり込む。ことはをあつめろ。落ち葉集めのように僕とアオは入り込んでいる。その遊びがおれは好きだ。僕はこのように金のかからん、零から自分で作った、わけのわからん、でも自由の風を感じる遊びのことを「零遊(ぜろあそび)」と詠んでいる。おれはおそらく狂っているのだろう。早く寝ればいいのだ。だから、もうおれは今から寝る。サイレースを半錠、リーマス200mgを2錠、口の中にぶち込み、湧き水で飲む。おれは何をやっているのだろうか。視界の糸が解れていく。
昨日の夜はコッポラのゴッドファーザーをなぜか一番近所のビデオ屋My Wayでカード紛失しているのに借りようとし、名前を伝えたら借りれたので見た。何も間違いない。ただ進めとコッポラが僕に言っている。僕は一度、コッポラと対談している夢を見たことがあるのだが、その日は近づいてるのかもしれない。夢でみれた情景だけが実現化する。僕はずっとそう思ってきた。そうやって百点とってきた小学校時代である。
朝、起きて、アオがパンを食べたいというので、一番近いパン屋「松石」へ。ここは、パン屋にもかかわらず、名前がなんか和菓子屋みたいである。食パン六枚切りと、フーからの依頼で薩摩芋入りのパン、アオ用にクロワッサンを購入し、レジで会計していると、レジの裏にどでかい桜の木に彫られた、看板が飾ってあるのに、いつも買い物しているはずなのに、初めて気付いた。レジは白髪の親父である。
「おっちゃん、この看板はなんすか?」
すると、親父はここの店長ですと自己紹介した後に、
「パン屋の前はここ、朝鮮飴屋だったたい」
と言った。朝鮮飴はその昔、戦争のときの非常食として作られていた。かつ、それは長持ちして安く作れて栄養のあるという理由で、子どものお菓子でもあった。それが、乾パンという非常食にとって代わり、パン屋を始めたという。
「ここらへんは、おれがちっちゃいころは、午前3時ごろになると人が多すぎて、歩けんくらいだったとよ」
「なんで?」
「ここはお菓子の卸屋が並ぶ市場だったんよ。その先、坪井川にブチ当たったところが魚市場たい」
そして、その奥、唐人町通りが、九州で一番栄えていた、今で言う、銀座通りだったらしいのだ。つまり、僕は江戸でいうところの日本橋の付近に今、家族で暮らしているのだ。僕の住所の江戸時代のころの名前の看板が飾られてる。熊本の僕の家の周辺はまだ近代以前の薫りが残っている貴重な空間なのだ。早川倉庫はそのまた裏にある。熊本の歴史を僕が人々に会いながら、見つけ出し、空間として創出するような冒険の書を書きたいと思い、熊本日日新聞の担当編集者浪床さんに電話し、連載小説を毎日、出したいと伝えた。鬱になったらまた大変ですよ。毎日連載なんて、というので、もちろん、350枚終わってから、手渡すから、何も問題ないはずだと伝えた。
アオを乗せて、今日も緑の風に誘われながら、自転車にのって幼稚園へ。アオを下ろし、零亭でギターの練習。新曲が生まれちゃった。一瞬で。こちらは5月5日の一番最初の曲になると思った。曲名は「寿限無」。もちろん、あの寿限無の言葉を歌にしたものだ。坂口弦のご紹介の歌でもある。いい歌ができた。なんたって、子どもだって歌える歌だ。パーマとタイガースという弟子である二人の観客の前で、一階縁側、川沿いに立つ僕は、アコースティックギターで歌を歌った。5月5日のリハーサルをした。全六曲。5月5日の代官山UNITが楽しみになった。アルバートホールのボブデュランの研究をしている。今までで一番良いライブにしたい。なぜか音楽にも力が入っている。
PAVAOという食堂の横にできる、PAVAOの次の店の名前を、僕は勝手に考えている。ヴィトーコルレオーネのごとく、名付け親になろうとしているのか。PAVAOはポルトガル語で孔雀を意味する。孔雀といえば、孔雀明王なので、高野山金剛峰寺の孔雀明王を、快慶作の最高の芸術作品を僕はぼんやりと眺めている。一体、僕は何をしているのだろうかと一瞬、思うが、今は目の前の世界は全て化石であることに設定しているソフトウェアを使って、頭を動かしているので、気にせず、孔雀明王の真言を調べる。真言は「おん まゆら きらんでぃ そわか」であった。そして、真言とは別に陀羅尼という言葉の羅列があることに気付く。それは「のうもぼたや・のうもたらまや・のうもそうきゃ・たにやた ・ごごごごごご・のうがれいれい・だばれいれい・ごやごや ・びじややびじやや・とそとそ・ろーろ・ひいらめら ・ちりめら・いりみたり・ちりみたり・いずちりみたり ・だめ・そだめ・とそてい・くらべいら・さばら ・びばら・いちり・びちりりちり・びちり・のうもそとはぼたなん ・そくりきし・くどきやうか・のうもらかたん・ごらだら ・ばらしやとにば・さんまんていのう・なしやそにしやそ ・のうまくはたなん・そわか」というらしい。というよりも陀羅尼とは何か。陀羅尼はサンスクリットのダーラニーから来ていて、その意味は「記憶して忘れない」というものだった。これは坂口恭平の人生のモットーでもあり、涙が少し垂れそうになるが、こんなwikipediaを眺めたくらいで涙が湧き出てくるのは躁状態の証で、そうすると、フーが心配し、それを心配した僕が病院へ行くことになったりして、面倒くさいことに、そんな目の前の化石である現実と呼ばれている世界と付き合わなくてはいけなくなるので、落ち着いて、梅山に電話し、その件を説明し、愚鈍になれという命令を受ける。そうだ。僕は鮮明すぎる。解像度が今、高くなりすぎている。それこそ、陀羅尼のような呪文を唱えたい。そんなわけで寿限無を唱えていたのかと納得しそうになるも、また寿限無がなんの陀羅尼なのか、気になるが、そこらへんで止めておいて、とりあえず僕はキャッスルホテルへ歩いて行く。幻年時代の原稿を書かなくてはいけないのだ。
キャッスルホテルで久々の執筆。僕は今、熊本にいくつかの書斎を持っている。零亭、坂口家洋服部屋、全日空ニュースカイホテルラウンジ「フェリーチェ」15番テーブル、そして「九曜杏」31番テーブル。そして、新しく早川倉庫の屋根裏部屋。この五つの書斎はもちろん、どれも僕の所有物ではない。借り暮らしのキョウヘイなのだ。九曜とはインド天文学で九つの天体、それらの神を意味する。インド天文学といえば、世界遺産であるジャンタル・マンタルという僕が大学時代に好きだった、狂人と呼ばれた人間による建築である。シュヴァルの理想宮、そして二笑亭に続き僕が好きだった建築だ。そういえば、先日、米山堂という表具屋の裏庭に発見した茶室の名前は「三笑軒」だった。石山修武は「笑う住宅」であるし、僕はそういうのが好きなのだ。九曜は細川藩の家紋。伊達政宗の家紋。現在の福島県相馬市である相馬藩もこの家紋を用いている。杏はいちょうである。熊本県の木だ。ヤッターマンのごとく、毎日、僕は場所を変える。零亭にはほとんどいない。僕は人に見られたくないのだ。同じ場所にいたくない。いつも消えたいのだ。だから、人知れず、ふらふら散歩し、僕はどこかへ、とにかく煙草が吸えて、wifiが通っているところであれば、どこでもいい。そこで書く。今日は九曜杏で書く。
第九章(二)まで来た。本当にとんでもない作品を作っているのではないかという地鳴りが聴こえてくる。これは統合失調症の症状が出てきているのだろう。精神分裂が日常的に日々起こっているのだ、と精神科医なら言うだろう。ほとんどの状態で、僕は自殺したくなるわけだから、そのような状態なのだろう。しかし、今日はチューニングが合っている。落ち着いて原稿を書いている。76000字を越えてきた。10万字を梅山に6万字に削り取られ、鬱になり、死にたくなり、そして、そこから16000字、つまり40枚ほど追筆している。すごく心地よい風が内奥に吹き、一瞬だけ幸福になる。いや、その一瞬が続いているような錯覚に陥っている。というよりも、一瞬とは何なのか。坂口シズクが言い放った「恭平と出会って、一瞬だけ幸福だった。あとは地獄だけどね」という言葉の一瞬だけ幸福だった、と僕も同じく感じている。しかし、それは人間との出会いではなく、僕は己の作り出しているものの世界との出会いでだ。「お葬式には来てね」とシズクは言い、僕はぶち切れて、ふざけるなと怒った。そんなことを言ってはいけないのだ。絶対に。お天道様が見てるときにそんなことは言ってはいけない。僕は人に死にたいときは死にたいから、助けてくださいと言う。怖くて、死んでも元気でねなんか怖くて言えない。言ったらいけない。お天道様が見ているのだから。だから、東京に戻ったあと、シズクは手紙を書いたのかもしれない。もう二度と会わないだろうが、そのお天道様を僕は示そうと試みたことが、伝わったのかもしれないと思えた。
午後1時半にアオを迎えにいく。人の家の庭先の金柑がいくつか落ちていて、あやちゃんの息子が拾っていて、僕も一つもらった。あやちゃんの息子はアオと同じ幼稚園に通っていて、というよりも今年から通い出していて、でもさびしがりやのその子はあやちゃんがいないと幼稚園に入れないので、あやちゃんは毎日、幼稚園に通っていた。ある日、僕が迎えにいくと出会った。幼稚園のグリンピースの実をとろうとしている。しかし、そのグリンピースはまだ大人になっていない。だから、まだとっちゃ駄目というと泣き出したので、零亭のツリーハウスへ連れていくことにした。途中、人の家の金柑がなっていたので、それを今回だけお天道様ごめんなさいととって、彼に渡したら、笑顔になった。それを覚えていたのか、今日はたくさん金柑を持って、先日貸した傘を返しにきてくれた。おい、とっちゃだめって言ったじゃんと言うと「落ちてるやつだよ」という。お前はいいやつだよ。そうそう、人の家に生えている果物はどうやらとっちゃいけないって法律で決められているけど、路上に落ちたら、とっていいんだ。それでいいぞ。と僕は誇らしくなった。おれの息子かと勘違いした。そして、あやちゃんの息子は、あの金柑の日以来、一人で幼稚園に通うことができるようになったのだ。零亭のツリーハウスに一人で上れる人間は弱い寂しがりやの人間ではない。弱くても諦めない人間なのだ。
アオを連れて、自転車にのって、今日は原稿が進んだので落ち着いている僕は、再び白川河川敷へ。河川敷は最近、整備が整っているので、全部コンクリートの道があるが、僕はその道が嫌いだ。アオはガタガタ道が嫌いだから、コンクリートの道のほうがいいという。でも、ガタガタ道という遊戯をこの前、パパの太ももの上でやたじゃないか、そして、アオ、お前笑ってたよ。たぶん、アオはガタガタ道好きだよと誘って、僕が昔育った十禅寺のほうの河川敷へ行く。そこはまだ舗装されていない。つまり、熊本市的にはあんまり重要視されていない。だから、草花がちゃんと育っている地域で、砂利道になっている。アオが日が照ってきて暑いというので、木陰を探すと、小ぶりの楠が見えたので、そこへ向う。すると、そこには先客がいた。黒いジャージを着た男は、僕とアオと顔を見合わせると、びっくりもせず、こちらで座んなよと手招きをした。
彼は39歳の木村雄一という男であった。造園、大工、農業を30年近くやっているといっている。ということは9歳からじゃないか。この男は嘘を言っているのだろうか。しかし、こんないい場所を、知っている男は嘘なんかつかないのである。名刺などない僕の人生は、こうやって里見八犬伝的にはじまる。36歳で隠遁した、本草学の創始、陶弘景のことを調べていたので、一瞬、この男がそうなのかと思ってしまった。陶弘景は456年生まれの中国の医学者、科学者、占師、暦算、経学、地理学、博物学、文芸、書、フィールドワークの達人、つまり、天才なのだ。今の漢方薬の始祖みたいな人である。この人が今、気になっている。中国に行きたい僕がいるが、どうにかとどまって、白川沿いで僕とアオと木村雄一の三人で楠の下で、日を避けている。
彼は僕にソーラーパネルの作り方を教えてくれた。アルミ缶を広げて板状にして、それをいくつか並べて、パネルを作る。その下にビニール袋を敷いて、その中に水をいれればいいのだという。電気とかそういう問題じゃなかった。彼には電気を使っている人間が信じられないそうだ。電気は要らないと。金は造園さえしてれば9月から1月までの間で一年食べていける金は手に入る。あとは白川の橋の下で寝てればいい。おれは木を見てれば暇をつぶせるし、それが一番幸福だから、それで満足だと言った。コンクリートが嫌いな僕との共通点を持っている。
ふと、この男であれば、僕が伊豆につくろうとしている0円生活圏「零山」の農業、造園部分を任せられるかもしれないと思ってきた。首長としての坂口恭平、設計を弟子のヨネ、零文庫担当をパーマ、医療をタイガースに任せようかと今、考えているのだが、伊豆にずっと暮らすことはできない。しかし、この男なら一生幸福に暮らすことができる。金もかからない男である。
「ね、雄ちゃん」
「なんね」
「伊豆に行かんね?」
「その零山にか?」
「そうたい、そこで木をずっと見ておける人間が必要なんよ。野菜も育てれて、モバイルハウスっちゅう可動式の小屋も作れるような男が」
「ほー、面白じゃないね」
「やるね。五月か六月に伊豆にみんなで行くんだけど、雄ちゃんも行くね?」
「いいね。金はいらんよ。木があればいい」
「うん、最高級の道具だけはおれが責任もって買うから」
「それなら話は早い。乗ったよ、その夢」
すると、アオが言った。
「雄ちゃん、家がないなら、この木の上に作ればいいじゃん。パパは木の上に家を持ってるよ」
洒落たことを言うやつだ、良い子だね、と木村雄一が言う。
「どうせ、携帯は持ってないんでしょ?」
「うん、いらんもん。金もいらん」
「どうやったらまた会える?」
「おれはずっとこの橋の下でぼうっと木を見てるけん、いつでも気が向いたとこにきな」
「何が好きと?食べるものとか」
「だけん、いいよるだろが、なんもいらん、て。木があればいい」
「今度、筏一緒に作って、この白川から有明海にでるまでの旅しようよ、雄ちゃん」
「いいね。おれは木の上に家を作ったこともありし、筏で海まで行ったこともあるよ。車もマンションも興味ないけど、そういうのは好きだし、そういうことばっかりやってきたけん」
そういって、僕は彼と別れた。本当に僕は里見八犬伝のような坂口恭平による、何かを求めて旅する冒険がもうすでにはじまっていることを知覚している。自転車に乗り、アオも登場人物としてしっかりとやる気になっているようにさえ見える。
家にアオを置き、歩いて早川倉庫へ。原稿の続き。すると、また一本の電話がかかってくる。それは僕が19歳のときにバイクで旅をしたときに、広島尾道で台風に追いつかれ、避難する必要があったときに助けてくれた、もう16年の付き合いになる、尾道の大将、山根浩揮であった。
「恭平、ちょいと相談があるんよ」
「なんね。大将の言うことは聴かんといかん」
「屋台村みたいなものを熊本につくろうという話があって、協力してもらいたいんよ」
「大将、、おれの日記読んでるの?」
「いや、読んどらんよ。どうした?」
「えっ、、先日、白川沿いに昔、屋台がずらっとならんどって、それを戻してくれって、野良猫を育ててくれている優しい親父に言われたところだったんよ」
「そりゃ、やばいな。恭平は最近、何しよるん」
「えっ、今、鼠の筆を探しとるよ」
「おもろいことやるよるなあ、筆かあ、そういうことじゃったら、一人、可能性が有りそうな人がおるよ」
「どこに?」
「もちろん尾道よ」
「どんな人ね」
「雪舟って知っとるかい」
「雪舟の毘沙門天の絵がおれは好きなんよ。先日、毘沙門天をみちゃったのもあるし、かつ、雪舟といやあ、涙で鼠をかいたっていうあの逸話があるしね。おれは今、鼠に夢中なんよ。アオも鼠年だしね」
「ほー、いいね。その雪舟という人以来、540年ぶりに中国の天童市から「天童第一座」という世界最高の書の位をもらった、書家がおるんよ。その人やったら、話がわかるんとちゃうかな。おれの中学校の美術の先生をやりよった」
「その人の名は?」
「七類堂天谿っちゅう人」
「名前からして半端ないね」
「今度、尾道にこいや、紹介できると思うよ。だって、お前があの19歳のとき、尾道で一緒に雀荘で麻雀したスーがおるだろ?」
「おー、今、理髪店やっとる」
「そうそう、その親戚なんよ」
「もう、なんかすごすぎて、漫画みたいになってきてるよ」
「元々、おれもお前も漫画みたいな人生やんか」
「はあ。。。」
「あっ、そうそう、恭平、あとな、尾道はな、『墨』の町やからね」
「そうなんだ。じゃあ青墨は尾道で手に入れろってお告げってことやね。分かった。原稿書いたら、尾道いくわ。原稿に戻ります」
「おー、じゃあ屋台の話もよろしくね」
「ばいばい」
なんだか大変なことになってきている。「文房四宝」と呼ばれる「筆」「墨」「紙」「硯」が揃い始めている。「紙」は熊本唐人町通りの森本襖表具材料店、「墨」は尾道に、「筆」は尾道か、輪島にあるかもしれない。硯とはまだ出会ってはいない。こうやって出会うのが道具、つまり、それは持物ということだ。毘沙門天の持物は「宝塔」である。これは写真でみると、ただのモバイルハウスにしか思えない。その瞬間、零山の建築のイメージが湧いて出てきた。僕は次は宝塔を作るのだ。石の上に、伊豆にもらった山に生えた木を使って。つまり0円で。さらに、僕の頭の中に、トロイの木馬のような巨大な木の車輪の上に乗った、木製の超巨大モバイル九龍城砦アパートの絵が突き刺さってきた。いつもこうやってイメージは僕にダーツのように、弓矢のように頭に突き刺さってくる。どんどん次のイメージが湧いてくる。健常者がこの状態に陥ったら、おそらく、その人は発狂し、自殺するだろう。しかし、僕は違う。首長になれと毘沙門天に命じられた、よくわからない、誇大妄想満載のキチガイ親父なのだ。だから、これが普通であると思えている。一日が一年に感じられてきている。まさに幻年時代である。こんなに狂ってきているのに、原稿で使う文字はどんどんシンプルになっている。梅山の言う、愚鈍の意味が少し分かってきた。僕は九章をあと20行ほど残し、Macbook airを閉じた、帰りに料亭「魚よし」によると、サンワ工務店の山野さんが来てくれた、もしかしたら、再生お願いするかもしれんと言った。うれしくなって、山野さんに電話。屋台村の話もする。人と人を繋げ、技術を伝承し、人々に一瞬かもしれないが、幸福を提供する。それがおれの仕事だ。しかも、政治ではなく、芸術によって。その自覚が、僕を少し興奮させている。毎日が、怖くて、楽しい。一瞬の幸福はまだ続いている。しかし、同時に死の恐怖もある。
朝、起きると、アオが寝ている僕の上に乗っかっており、自転車に乗ろうよと誘ってる。しかし、アオちゃんよ、今はまだ午前6時であるし、そして日曜日だよ。幼稚園に行かなくていいんだよ。自転車に乗りたい気持ちも分かるけど、躁状態で少し眠れずサイレースを半錠飲んで、どうにか夜を過ごしている僕は、うとうとしながら思っている。すまんね。夜はぐっすり化学的に寝てしまっているので、深夜夜泣きして授乳や排泄状況を伝えてくる弦の歌声すら聴こえてこない。しかし、そうしないと大変なんだ。鬱状態はむしろ薬はいらないんだ。執筆が終わったら、おそらく薬も飲まずにゆっくりできるだろう。ということで、寝ようとするが、起こすので、結局起きて、アオとギターを静かに弾きながら、弦に歌った。弦は音楽を聴きながら、突然泣いているのを止めた。アオは能書家にでもなりそうなほど文字や絵に長けているのだが、弦はもしかしたら音楽師になったりして。まあ、なんでもいい。好きに生きるがいい。人に迷惑かけなければなんでもいいよ。一人で勝手に好きなことして生きればいいのだ。僕は人に迷惑かけてばかりいるから、そう思うのかな。
アオが自転車と朝からやはり蠢いているようなので、僕も休息を諦めて、自宅マンションの自転車置き場へ。しかし、自転車がない。盗まれたかと思ったが、そういえば、昨日幼稚園に自転車で行ったはいいものの、途中で雨が降ってきたので、弟子の坂口亭タイガースにお願いして、零亭に停車してもらったのであった。思い出し、アオにそう伝えると、納得がいかないらしく、それならば仕方が無いと、フーには絶対起こられるけど、タクシーに乗って零亭まで。朝8時。自転車を確認し、パーマとタイガースの二人の弟子と朝の挨拶。
いつものように郵便物に目を通すと、坂口零、つまりシズクからの手紙がある。送り先は坂口亭パーマと書いてある。僕はシズクと今後一切連絡を取らないと言っていたので、どうやらパーマに送ったらしい。内容をパーマに聴くと、一人暮らしを始めたという近況、そして、死にたくなることもあるが、あのときは一瞬だけ幸福だったことが書いてあるという。一瞬だけ幸福だった人なんかそんなにいるもんじゃないんだよ。だから、一瞬だけでも幸福であれば、それは幸福だということだ。彼女は今までそんなことがなかったと言ったんだ。だから、それでよかったんだ。シズクはまだ人との付き合い方を分かっていないところがあり、甘えがある。それでは坂口家にいたらいずれ必ず勘当されている。だから一人暮らしして、自立する必要がある。厳しいようだが、僕はそれでいいと思った。死ぬかもしれない。しかし、それでもその一瞬の幸福さえあれば行きてゆけるさ。パーマが連絡を取ったらいいじゃんと伝えた。でも、したいようにすればいい。好きなように生きればいい。ただ僕は自立できない人間は結局いずれ死ぬことになるので、自立しか促さない。一人で行きていけるようにならなくてはいけない。弟子はパーマとタイガースで今は手一杯だ。シズクは家族を作るんだ。家族に入るのでなく。妄想の家族の温かさの中に入り込むよりも、自分で零から作れ。僕の本を読んでないだろと聞いたら、半分しか、と言った。そこからの半分におれの言いたいことが書いてあるんだよ、バカと僕は言いました。いつか読んでくれ。僕が言っていることが少し分かってくれるかもしれない。自分で子どもでも作ったら会おう。僕はそう今思う。この鬼はそう思っている。僕は鬼だなと思う。人が辛いところを見せても、その辛さの嘘しか見えない。酷い人間かもしれない。そして、それくらい絶望している自分がいる。しかし、僕はもう死なないことを決めたのだ。作品を作り続ける人生を歩むことを決めたのだ。人のことなどもう完全に無視してしまって、自分の中にある狂気を描こうと決めたのだ。それしか、僕にとっての人間に対する思いは伝わらないということを確信した。作品さえ作れば、百年後、誰かが読んでくれるはずだ。それでいい。それだけでいい。
零亭から自転車でアオを後ろに乗せて熊本城の堀端を走る。水飲み場でひげ剃りをしている親父がいる。アオに「外でひげ剃りをしているおっちゃんを見かけたら、その人は大抵面白い人だから、おれは話しかけるんだ」と伝え、おっちゃんに話しかける。別府から熊本にアルミ缶の値段の違いを知り、訪ねてきたという。熊本は100円まで上がってきたのだが、別府は50円だという。また情報を獲得した。千円を渡した。金しか渡せずにすみませんとギャグを言ったら、お前さん面白いねえと言って、感謝と言われ受け取ってくれた。金ってなんだろうね。と思った。アオは僕に「またパパは友達ができたんだね。うまいね。つくるの」と言っている。おっちゃんはプロゴルファーになろうとしていたらしい。金がかかりすぎて断念したが、技術は半端ないよと言うので、この堀端でゴルフ教室を勝手にはじめればいいじゃんと言った。今度は、金じゃなく、最高品質の1番ウッドを、持って行こうと思った。熊本で二人目の路上の友人である。アオは朝から自転車に乗り、ご機嫌で、僕も朝の熊本城の市役所沿い、そして市民会館沿いの本当は自転車が入っていけない、でも朝一だからいいだろうと僕は勝手にルールを作って、自転車で疾走した。緑の風にさそわれて、ひらひらはためくかざぐるま、とアオが童謡「鯉のぼり」の二番の詩を歌っている。本当に受信能力があるな、この子は。僕を鼓舞しようとしているようにも思える。二人で、持ってきたラジオでFM NHKを聞く。なんか壮大なクラシックが爆音で前籠から聴こえてくる。二人で静かにその音楽を聴きながら、朝の家に戻ってくる。なんだか探検から帰ってきた集落の親子のような感覚になる。
最近は朝飯も昼飯も抜いている。体重もいい感じで落ちてきた。68キロ。72キロまでいっちゃってたからなあ。65キロくらいに落したい勢いである。
フーにアオを手渡し、日曜日であるが、原稿を書きたい旨を伝える。しかし、フーもきついというので、零亭の弟子二人に電話し、昼飯を作るところから、手伝って、今日は二人でアオとがっつり、遊んでくれとお願いする。この二人は子どもの扱いがうまい。優しい人間の証拠である。優しさは、僕にとっては必要のない感情だが、それでも他の人間同士が集まって形成している、社会とかと、呼ばれている世界では大抵うまく作用するので、食いっ逸れはないよ、お前らは。心配なく、ただ僕の躁鬱しながら、それでも作り続けている、キチガイの動きだけを見てればいいよ。教えれることは何もない。しかし、この僕という人間の、獣の、動いている軌跡は何かのメッセージになるかもしれん。僕が死んでからしか伝わらないものだろうが、それでも見ててくれと弟子に対しては思う。零亭に入れば一生、生きていけるのだから、生命の心配をしなくてすむのだから、代わりに命をかけて事に仕えろと言っている。
ということで、時間を確保した僕は今日も朝9時から早川倉庫へ。おやっさんと朝の珈琲飲みながらで、話す。おやっさんが、柚子の木のことを教えてくれた。樹皮がすごいというので、まず触る。まるで野生の鹿を触っているみたいな最高の手触り。おやっさんは今、鬱っぽいのだが、その絶望眼が見せる、淡い春の息吹を僕に伝えようとしてくれている。柚子の花が5つなっていて、丸い玉が見える。これが白い繊細な花として咲くらしい。早川倉庫のおやっさんとの朝の対話が、まるで禅僧の師匠との禅問答のように、かつ優しい林櫻園先生に学ぶ、横井小楠との関係性のように思えてくる。
そして、原稿執筆へ、「幻年時代」第9章。ここからが綱渡りになってくる。苦しいが、昨日、峠が見えてきて、僕は恐ろしくなるもほっとした。ようやく集中して戦闘ができるモードになってきたようだ。明治タイルの上の灰皿を右手に置いて、左手に以文社の親友、前瀬、佐々木中さんのやはり今でも最高傑作である夜戦と永遠の担当編集者から送られてきた、海賊ユートピアという狂った本を左手に、執筆を開始した。
夕方午後4時までかかったが、2000字加筆、修正が完成。9章の1が完成。次が2。そして10章でこの本は終わる。もうそろそろだ。家に帰ってくる。アオがまた自転車と言っている。この人半端ない。僕を休ませるようなことは考えていない。僕もそれで愚鈍にしようと試みているのかもしれない。パーマネントモダンの有田さんに誕生日プレゼントのお祝いをもらったので、お祝い返しに新刊の「思考都市」をあげた。シャワー通りの大好きな茶屋「さい藤」で。ふな焼きという熊本地元料理である、というかチャパティみたいなもんなのだが、黒砂糖を小麦粉でつくったクレープで包んだお菓子をアオに食べさせる。ここのふな焼き、半端ないんです。有田さんは、僕が弦の節句のためにかった90センチの巨大な張り子の鯉のぼりの写真を見て、おれも欲しいと言ったので、薩摩のgallery koenのタビトに電話して注文。
そして、白川沿いを二人で駆け抜ける。夕方の川沿いが緑と混ざり、本当に気持ちよすぎて、つい大声で気持ちいいーーーーーと叫んでしまったくらいだ。フーが夕食を作る気が全くないというので、熊本駅近くの僕の大好きな広島風お好み焼き廣にて、電話注文していた肉玉そば、二丁を受け取りにいく。自転車させあれば、どこでも行ける。タクシーに100万円くらい使っていた馬鹿な僕は、今後はタクシーにはほとんど乗らないようになるのか。それでも、アオがいないと自転車に乗りたくない僕がいる。アオさえいれば野宿しても自転車にのって旅に出ることができそうだけど。
TOKYO0円ハウス0円生活の担当編集坂上ちゃんと電話。どうやら中国語の翻訳が決まりそうだ。初の中国語翻訳。こうやってどんどん広がって行くのはうれしいことだ。今のところ、翻訳は韓国語版が「ゼロから始める都市型狩猟採集生活」と「独立国家のつくりかた」フランス語kindle版が「TOKYO 0円ハウス 0円生活」の三冊。今度で四冊目になる。
次の本のタイトルを決めた。そのためにもじっくりとしかも光速でこの「幻年時代」を完成させたい。ゲラに入る前に三回書き直ししたことなんて今までの人生で初めてだし、ここまで前著と変化していることも初めてだ。今度は独立国家のつくりかた、とはまるで違う、実は違わないけれども、ほとんど狂ってしまったと思われるだろう内容の本になっている。だからこそ怖いし、だからこそ生きている必要がある、まだやらなくちゃいけないことがあると思えてる。それくらいの絶望の状況の中で生きない限り、つまらなくなってきた。それは不幸な人なのかもしれない。しかし、僕もシズクと同じように、一瞬かもしれないが、今日幸福が降ってきた。
アオとお風呂に入る。ずっと僕と一緒に入ってくれなかったが、自転車仲間になることで、一緒に入浴することが可能になった。今日は頭まで洗わせてくれた。それでも泣いたけど。アオは僕と一緒でお風呂がきらいだ。でも林明子さんの「おふろだいすき」は僕と同じように大好きだ。僕の母が林明子が好きだった。それはとてもありがたいことだと思う。僕は林明子さんの安野光雅さんによって小さい書物の記憶は構成されている。安野さんは後にヒルトンの前に、ワシントンでホテルマンの修行をしているときに、ラウンジの常連さんだった。そして、僕は0円ハウスという写真集を出してますが、安野さんの絵本で育った人間ですとこそっと伝えたことがある。いつかご一緒することがあったら、いいなと思うが、現在御年87歳くらいのはずだ。お元気なのだろうか。
大分で磯崎新さんと話さないかという依頼が来ていて、執筆でそれどころじゃなかったのだが、ワタリウム美術館の和多利さんと話して、お会いして話しておくべきだという助言をいただき、一度断ったが、もう一度やると言ってくれと梅山にお願いする。場所はしかも磯崎さんの初期代表作の大分県立図書館だという。そういえば見たことがない。いかねばならぬのかもしれない。
執筆が終わったら、次は0円生活圏作りのために伊豆へ向う。そこには運慶作の鎌倉時代の毘沙門天もある。松崎町には師匠、石山修武設計の長八美術館もある。石山建築も見ていないのが多い。よくこんなんで吉阪隆正賞なんかもらってるねと他者からは笑われそうだが、僕はこれで生きてきたのだし、これしかできないのだから、これでいくしかない。でも、今度、全部見に行きたいなと思う。日本を回ろうと思う。ワタリさんから、鼠の筆はもしかしたら、輪島の漆の職人だったら、金箔塗るために、いまだに昔の筆を持っているのではないかと助言をもらう。やばいことになってきたね。
しかも、今日の原稿が終わり、ほっとして電話をかけた先の梅山が一言。
「おい、坂口恭平、船鼠って、なんだと思う?」
「ん??なんかおれっぽいなと思ったんだけど…」
「バカ言うなよ」
「じゃあなんだ」
「蒸気船ウィリーだよ」
「??」
「ミッキーマウスだよ。ミッキーマウスのは海の上の鼠だよ」
ウォルトディズニーはEPCOTという概念で、ディズニーランドの中で完全に自給自足を可能にし、エネルギーもそこで作り出し、内側から鍵をかけて、この世界からの独立を実践しようとしていたとか誰かが言っていたのを思い出した。。しかも、そのEPCOTの看板の写真をなぜか僕は2004年ごろに撮影していた。しかも、路上の泥棒市の写真の中で。なんか、物語が進行していく。一体、僕はどこに行くのか。伊豆、輪島、京都、熊本、ベルリン、サンフランシスコ、これからはじまる旅の予感がある。何が起きるのか僕はわくわくしている。そして、同時に、もう自分の肉体なんか腐って、朽ちて、ウジ虫になって、粒子状の気体になって、散っている感覚もある。おもしろいよ。怖いけど。何が起こるか分からない。それが人生の醍醐味とようやく思えてきたよ。恐怖心はやっぱり克服したらつまらんよ。その怖さの中の怖さの中の喜びについついやられちまって、長居してたら、眠くなってきて寝てたら、その怖さという世界の住民になってしまい、熊本に住んでいる自分という殻はもぬけとなり、怖さから戻ってこない坂口恭平らしき、何者かわからぬ物質のようになり、怖さの中の茶屋で麦茶を飲んでいる。温かい茶を。
朝からアオと一緒に自転車に乗って幼稚園へ。今日は幼稚園は休みの日だが、新入園児たちを迎えて、その家族も交えてみんなでお見知りパーティー。アオと一緒にお遊戯に参加。その後、役員会。フーは幼稚園での仕事に興味を持っており、昨年の引き続き幹事を担当した。昨年は僕は忙しく、おやぢの会にも全く参加できなかったので、今年は父親だけで構成されているおやぢの会にも挨拶をした。ここの幼稚園はおそらく他のどこよりも家族が参加しなくてはならず、運動会なんて朝5時集合でみんなで設営したりする、大変だけど、それだからこそ子どもがすくすくと大人まですくすく育つ素晴らしいところだ。だから、みんな次々と子どもを産み、みんなをこの幼稚園にいれる。出生率が落ちてることなんて信じられない。ここにいると二人じゃ少ない気がしてくる。四人子どもがいる家族も少なくない。よいことだと思う。僕の高校の同級生が二人、親としている。なんか不思議なものである。横井小楠先生の生家の真裏にあり、夏目漱石の旧居の真横にあり、宮部鼎蔵の生家の真横にあり、目の前に零亭がある幼稚園ってなかなかないよなあと思いながら、年中になり、成長の軌跡を残しながら、走り回る娘を見て、その人間の30年後のおれの年齢になったアオへ向けて、言葉を何か送る自分がいる。そうやって伝達が行われる。シモーヌヴェイユが、集団とは死者からの霊的な伝達を可能にする装置であると言っているが、その言葉がじーんと僕を包む。幼稚園の両親参加なんて、面倒くさいと思っていた僕が恥ずかしい。そして、そういった一見、何でもないような、さらりと通り過ぎていってしまっても問題のなさそうな事柄に、ちゃんと気負わずにさらりと付き合っているフーを見て、本当にこの人は何か意味を知っているのではないか、僕は本当にただの掌の孫悟空なのかもしれんなと身を引き締める。そして、アオは、僕が踊りすぎると、やめなさいと止めた。そうだ、ついつい調子に乗って、また楽しくなりすぎて、やりすぎる僕をアオはフーとして止めているのか。いや、この男が停止してしまうと、遊べなくなるのが、つまり自転車に乗れなくなるのを恐れているのだろうか。そんなことを思わせてしまって、親として成立しているのだろうかと悩む、僕に対して、フーは何かを教えようとかしなくていいんだよと小さい子に伝えるように僕に言葉を放つ。
幼稚園のママ友である、まいちゃんと、フーの親友で新しく幼稚園に入ってきたママ、あやちゃんと僕とその子どもたちで、知くにある最高に旨い饂飩屋野崎で昼食。僕はかけうどんぬくぬく大盛りで、肉と鳥天と海老天をトッピング。その様子を、最近使い出した昔かったPENTAXで撮る。フィルムで写真を撮ってみることにしている。写真家齋藤陽道の影響だろう。今度、一緒にドイツへ取材旅行に行く写真家石塚元太良の影響だろう。今またヒマラヤに行っている写真家石川直樹の影響だろう。虫の狂った写真が凄すぎる吉祥寺のクレイジーガイである写真家梅川良満の影響だろう。僕の友達の写真家が狂いすぎていて、僕もついつい写真を撮っている。僕は写真を15歳のときに始める。初めて買ったカメラはオリンパスペンである。古道具屋で3000円で買った。後に、インドで無一文になって、1500ルピーで売ってしまった。プロヴォーグを見て森山大道さんと中平卓馬さんに惹かれていた高校生だった僕の最初のアートワークは写真であり、著作の処女作0円ハウスも実はあれ、写真集である。リトルモアの編集者浅原さんに写真を見せに行ったときを思い出す。あれは2002年。あれから、気付いたら11年も経ってしまっている。3年くらい前に感じる。なんだか訳がわからない。
アオは友達と遊びたいというので、まいちゃんの家に置いて、僕だけタクシーで早川倉庫へ。原稿執筆開始。幻年時代。早川倉庫の屋根裏にある書斎にて。早川倉庫の社長に、大正時代に台所で使われていた30センチ角のタイルを一枚もらう。こんなものを貰ってもいいのだろうか。その色があまりにも美しくて、原稿を書いている机の右手の横に置き、その上に灰皿を置いて書くことにした。佐藤春夫の書斎の話を、一坪遺産で書いたことを思い出した。僕は家なんか本当はいらないのだろう。いつも誰かの家や事務所や図書館やホテルのラウンジで、原稿を書いている。家で書いたためしがない。しかも、一カ所で書けないのでふらふらしている。そして、今は早川倉庫にいる。今日は原稿が乗った。これでようやく波をつかめたかもしれない。第8章まできた。原稿を書き終え、マネージャー兼担当編集になっちゃった梅山景央に送信する。PUNPEEと長めの電話をする。また一緒にやりたいと思っていたら、5月5日にUNITで共演することに。七尾旅人くんまで来ちゃうし、磯部涼がDJをする。楽しい宴間違い無しだ。そして、Sly&The Family StoneのMother Beautifulを聞きながら煙草を一本。幻年時代のテーマ曲にぴったりだ。この本は僕と母と父との物語である。僕が今まであんまり書きたくないと思ってきたことしか書いていない。だから、いつも壁にぶつかる。で、ぶつかっていることに安心したりしている。前に進めているほうが僕は不安になる。駄目でいないとすまないのだ。自分のことを認識しすぎたり、認めたり、力を信じてしまうと、突然奈落の底がまってえんま大王が出てくるのだ。知らない自分と出会え。それしか言ってこない。怖くて、冷や汗しか出ないけど、それでしか人生はないのだから、諦めて、その通り生きろ。
原稿書き終わり、早川のおやっさんに珈琲とタイルのお礼を伝え、目の前にある100年の歴史がある僕の行きつけの料亭「魚よし」へ。店が終わってたが、原稿今日分完成したから、旨い寿司食べたいと我がままいったら、じゃあ店を開けると大将が言ってくれたので、カウンターに座る。寿司四貫と赤出汁を注文。酒はもう必要なくなった。茶も飲む気無し。水だけでいいよ今は。旨い湧き水さえあれば飲みものはそれでいい。鮑、縞鰺、烏賊、穴子の四貫。天草の最高の魚。15分で食べて、ごちそうさまと勘定しようとすると、今日はいいよ、閉店してるからと大将。大将の嫁さんが「だから、墨で鯛を描いてね!」と一言。雁皮に青墨で鼠の筆使って描いてみたいな。8×10で大将が仕入れてきた鯛を撮影し、それを元に、墨で鯛を描くことを思いつく。何か毎日、が次への、ワープの入り口になっている。ここに階段が、ない。
今日は自転車の日である。最近、自転車にハマっている僕とアオは、自転車の日である今日、もちろん自転車に乗っている。自転車の日のことを教えてくれたのは、ベルリンに住む、僕の親友、西海洋介なのだが、彼から面白いメールが届いた。自転車の日の由来である。なぜこの日が自転車の日かというと、それは現在世界的に使用が禁止されている化学物質、つまり麻薬であるLSDを作り出したホフマン博士に関係があるというのだ。ホフマン博士は1943年の4月19日、鼠にLSDを摂取させる。しかし、何も反応していない様子で博士は鼠を手に取る。その鼠の手から染出ていたLSDを、何かの拍子でペロリと舐めてしまった博士は、自転車に乗り、そこで強烈なサイケデリック体験をし、LSDが意識を変容させる化学物質であることを確認したというのだ。LSDで人間が初めてトリップした日、その日が自転車の日になったという。面白い話だ。洋介とSkypeでそのことを話した。僕は鼠の筆の話をした。ちょうど彼から、坂口弦の誕生祝いでビーズのブレスレット二つ(アオの分も)と、洋介のパートナーであるスーベニアがやっている洋服のブランド、REALITY STUDIOの新作カタログが送られてきていた。最高の新作服を見て、僕も最高の作品を仕上げないといけないと兜の緒を締める。
自転車にアオと一緒に股がり幼稚園へ。そして、零亭に行き、まずは鼠の筆を買おうと、熊本唐人町の和紙屋「森本」のおやっさんから教えてもらった京都にある江戸中期からある画材屋「放光堂」へ電話する。鼠の筆というと、電話をとったおとっさんは雰囲気を変え、鼠の筆は高いですよ。そして、今、作れるのは京都の人間国宝「村九」しかおりまへん、と言う。村九とは、村田九郎兵衛のことである。そこで、村九に電話。鼠と言うと、職人が20年前にいなくなり、20年間作っていないとのこと。今は、猫の毛で蒔絵筆という名の小筆を作っている。今度京都に来たら寄ってくださいねと言われた。
放光堂のおとっさんに村九にも鼠は無かったと言うと、彼はその鼠の話をしてくれた。「船鼠」の毛を使うのだと言う。船鼠ってなんですか?と聞くと、異国の野生の鼠が餌を求めて、船に忍び込む、その船で育った鼠を「ふなねずみ」というらしい。僕は彼の話を幻のように聞いている。野生の鼠だと傷だらけで良い筆にならないそうなのだ。そして、その船鼠をとって皮をはげる職人が日本にいたという。そして、その職人がいなくなった。だから今は猫で作っているらしい。僕は「仕事と労働」という本をいつか書きたいと思っているので、コヨーテで連載していた路上生活者たちの生業を取材した「ハロー!ワークス」を思い出し、担当編集佐々木さんとそんなことを電話した。日本は豊かな国だったのだなと思う。そして、その文化はまだ死んでいない。僕は今度、6月30日に京都でトークをする。そのときに村九と放光堂にいこうと思う。素晴らしい出会いであった。
午前11時にアオを迎えにいく。フーアオと家で一緒に昼ご飯を食べた後、歩いて早川倉庫へ。今日から、早川倉庫社長から直々に使用を許してもらった、早川倉庫にある隠し書斎で執筆。書きやすいかもしれない。珈琲と苺をだしてもらった。なんだか不思議な執筆が始まっている。しかし、原稿は苦しい。面白くなってはいるが、もっと潜りたい。しかし、鬱から転じての躁状態もあって、なかなか手元が定まらず文字の中の世界に入り込めない。そして、電話がかかってくる。電話先はアオだ。どうやら遊び足りないので、また自転車に乗りたいという。自転車の日だからと執筆を午後3時ごろ諦め、家に戻り、アオを後ろに乗せて、シャワー通りへ。
パーマネントモダンの有田さんに会う。有田さんから、誕生日プレゼントをもらう。ベルリンのPROSPEKTの欲しかったやばいくらいかっちょいいバック。嬉しい。誕生日って素敵だなと思った。今年の誕生日は本当に苦しかったけれど、それでも良い日だった。昨年は4月12日に浮気がバレてフーが気を失った。今年はシズクの件でフーにも衝撃を与えてしまった。僕は本当にどうしようもない人間だと思う。フーにとっては。なぜフーはいなくならないのだろうか。そのことを少しよく理解して感謝すべきだと思う。フーはよく耐えていると思う。24時間10日間寝込んで死にたくなったり、躁状態になり、祭り騒ぎになったり、それを抑制しながら洗濯しながら、子育てしながら、僕の世話までしながら、それで文句一つ言わない。なんなのだろう。フーとは。一体、何者なのだ。
フーから産まれてきたアオを自転車に乗せ、白川沿いの遊歩道を走る。野良猫がいたので、一緒に遊ぶ。すると、目の前に手作りの木製のベンチがある。公共の場所の寝れないベンチが嫌いな僕は、その手作りの麦酒箱二つと二枚の板で作ったベンチに座っていた。すると、おじさんが一人やってきた。ベンチの僕にちょいとすまんと言って、ベンチの下にキャットフードを置く。下を見ると、そこは野良猫の食事処になっていたのだ。カラスよけのために、釣り糸に錆び鉄がくっついたカーテンのようなものまでかかっている、そこはメザシや鶏肉まである。おじさんが作ったとのこと。すると、おばさんまで餌をもってきてやってきた。野良猫の名は「ふろく」というのだという。ふろくは白い猫。もう一匹野良猫がいて、その子が黒色で黒猫にいつも引っ付いて歩いているから、付録みたいな猫だということでその名になったという。近所のみんなで育てているという。最近車に轢かれた野良猫タンポポの死に目に出会った僕は、なんだかこのキャットコミュニティに興味を持つ。そして、それはやはりベンチという建築によって広がっていた。素晴らしい場所を見つけた。アオと二人でハイタッチして、よかったねと言い合う。おっちゃんたちと僕の仕事について話をする。すると、彼らは昔、川沿いにあった屋台村をもう一度復活させたいから、あんたやってくれよ、と言われた。モバイルハウスと屋台村。頭の中に入れておこう。
向かいの河岸も走る。シロツメクサを発見したアオが、冠を作ってくれというので、iPhoneで「冠シロツメクサ」と検索し、編み方を学びながら、冠を作る僕を、本当にこのつまらん現代人と思いながら、それでも作り上げたときには嬉しかった。産まれて初めてシロツメクサで冠を作った。アオは嬉しがった。ここにも野良猫がいて、そして、また別の夫婦が育てていた。なんと心の温まる川辺なんだろうと思った。船鼠を思う。ただの野生ではなく、船という人工物の中でそだった野生の動物の毛を矧ぎ、絵筆ができあがる。自然と人工、仕事と労働を考えあぐねている僕は、今日は素敵な自転車の日だなと思った。さすがはホフマン博士である。
夜、帰ってくる。フーと僕の執筆に集中するための方策を考える。自転車でそんなに遠いところまで行かなくていいのよ。体が疲れるからやめなさいと言われた。ついつい子どもが悦ぶと無理して、突っ走ってしまうところがある。そのほどほどの感覚を覚える必要があるのだろう。でも、冠は作って良かったと思ったし、編み方がやっぱり僕は適当でぎゅっと結ばなかったので、不思議な形になっていて、フーに斬新だねと言われた。フーは作ったことがあるし、この人は器用なジュエリーデザイナーなので、うまそうだ。今度はフーも川辺に連れて行こうと思った。自転車、最近楽しそうね。今は、まだ股が痛いけど、あたしも乗りたいわとフーは言った。いつか四人で自転車に乗ろう。
テレビ局RKKに年内の番組制作は中止するとの電話をする。森本の話で盛り上がる。宇川さんにも金を返したいと言ったが、0円生活圏に使いなさいと言ってもらった。今のところ一件も金を返せとのメールは来ていない。テレビ局はやらない。でも、0円生活圏を作るまでの番組をDOMMUNEではいつか絶対に実現するつもりではいる。ここらへんはまだどうなるか分からない。でも、僕なりにではあるが、真摯に行動するつもりだ。
とにかく今は、執筆に専念したい。しかし、完全に文字の世界に入り込めていないのが辛い。4月中には絶対に完成させるつもりではいる。とにかく心を落ち着かせたい。焦点を合わせたい。でも、日々、何か信号がこちらに襲いかかってくる。まだ先へは行かずに、目の前の仕事をしよう。静かに狂気の世界を覗こう。覗けるのか。そこが面白いところだ。今日、今回のこれが態度経済としての坂口恭平日記であることを伝えます。興味がある人は、この頁の「態度経済」をクリックしてみてね。
夜12時に寝る。明日は幼稚園にてお見知りレクレーションだ。9時から3時間もあるという。フーは行けないので、僕がアオと行くことになっている。毎日、毎日、静かに何かが起こっている。何かの前兆に感じる。何かはよく分からないが、そんなに悪いことではないように思える。
朝から自転車でアオと幼稚園へ。今日は市役所の方から向った。熊本城の楠が本当に綺麗で、風も気持ちよく、二人で全く別々の歌をそれぞれ歌っていた。零亭で原稿執筆。午前11時まで。まぼろしの詳細も詰める。本決定した。5月5日の子どもの日に、東京・代官山UNITで祭りに参加することに。しかも「坂口恭平と新しい花」で初めて歌うことに。フーは、横で「歌は消耗するからもうやらなくていいのではないか」と言っている。まぼろしもやめてほしいし、ライブに出るのもどうかと言っている。7月のまぼろしが終わったら、今年は何も企画しないでねとのこと。耳に入れておく。僕のイベントはたくさんお客さんが来てくれるので、結構金が入ってくるのであるが、大盤振る舞いしてしまい、全部使ってしまう。まあ、僕はそれでいいのであるが、フーからしたら、それで、お前の体が消耗するのは見てて嫌だという。宇川さんと電話する。お互い、無茶苦茶になっても、息を細くしても、それでもぶっとばして、行動していこうぜーと励まし合い、まじで気合い入る。静かにいくぞ。今度は。
七尾旅人くんと話し、今度4月25日に博多で友部正人さんとライブやるらしく、遊びにおいでよと誘ってくれたので、行ってみることに。久々に会って話したいな。創造することで人生を作っていくという道の仲間だ。やっていることは違うし、知り合って3年くらいだけど、なんか旧友な感じがする。なんだろ、このずっと昔から知っている感覚は。
11時にアオを迎えに行き、家に連れて帰る。アオは自転車に乗り始めてからというもの、本当に心から楽しそうで、見ているだけでこちらがうるうるしてくる。ちゃんと一緒にいるときに、しっかりと向き合えば、執筆をしてくると言っても「うん、いいよ」と返してくれる。おれは今まで何やってたのだろうかと思った。フーアオとようやく向き合おうとしているのかもしれない。今までは僕は外ばかり見ていた。家族はとてつもなく安定しており、力強いから、放っておいても大丈夫だと思い込んでいた。これからは違うことをやろうと思う。一緒にいようと思う。twitterを止めてよかったと実感する。見えない他者は見なくてもいいのだ。ちゃんと本を出せば、静かに作品を発表すれば、見てくれる人は静かに感応してくれる。それこそが本当の対話なのだと思う。もうインターネットでは一切人と交わらないでいようと思った。それよりも、自分の娘を妻を弟子を、近所の信頼できるおじさんや仲間、作品を作り続けているライバルたちと触れればいいのだ。それでとんでもないものを作ればいい。それだけでいいのだ。近所からは暇そうな狂人のおっちゃんと思われているところもあるが、それでいいじゃないか。気にせず、僕は自転車に乗り、アオと遊び、原稿を書く。そのことにちゃんと集中できるような環境を作っていく。次のテーマはそれだ。本は、絵は、僕が死んでも残る。だから僕は作品を作りたい。
アオを家に戻して、フーとバトンタッチする。弦の初節句のために購入した、張り子作家平野明さんの鯉の張り子が届く。まじかっこよすぎです。仲介してくれたのは、僕にとっての千利休、鹿児島Gallery Koenのタビト。ありがたいことだ。ニュースカイホテルで原稿を開始。10万字書いて、梅山が6万字まで削りやがって、凹んで諦めそうになったが、7万字に戻してきた。あと30枚くらいの勝負になるのではないか。8万字を目処にして、もう少し書き進めてみることにする。
独立国家のつくりかたを翻訳してくれている若者と電話で話す。彼が言うには僕が著書で使った「layer」と同音異語で「lair」という単語が英語にはあり、それが「動物の巣」という意味らしい。レイヤーは、僕が言語化しようと試みている、三次元の世界上に実はいくつもの複雑に折り重なっている、もう既にそこに存在している見えない空間でありながら、それは巣という意味も持っている。面白いことを教えてもらった。7月下旬からサンフランシスコで映画「モバイルハウスのつくりかた」が上映されることが決まり、そこに僕が行き、モバイルハウスを実際に建てることになったので、その時に、CITY LIGHTS BOOK STOREに持っていきたいという妄想がある。だから7月までに翻訳を仕上げてくれ、とお願いをしてみた。サンフランシスコは20歳の時に、弟とコーエン兄弟の「ビッグリボウスキ」を観て感動した瞬間にエアチケットを買って、二人で行った。もちろん二人でボーリング場に通った。その時に行った書店がCITY LIGHTS BOOK STOREである。ロングビーチにある。ジャックケルアックの路上を出した出版社だ。そこで出版したいと思っている。できるかどうかは分からないけど、試さないのは嫌なのだ。それが僕の信条。
原稿は半分を越えてきた。しかし、しんどい。午後7時まで書いて、早川倉庫へ。ここで6月24日、今度はクラムボンがライブをする。楽しみ。西南戦争直後に建てられた130年以上も歴史のある僕にとって熊本市で唐人町の森本と並び、一番重要な建造物である。
オーナーのレイゾウと息子のユウゾウと三人で倉庫で酒を飲む。早川倉庫の二階にデザイナー志望だったレイゾウがセルフビルドした書斎があるのだが、そこを執筆に使ってもいいよと言ってくれた。泣ける。僕が一番重要だと思っている建築の中で、執筆に集中できるのは幸福だ。こうやって時々、周囲の人々からの愛情をもらう瞬間がある。そのときのために、絶望していても死なないほうがいいと思えた。僕はもう死なないだろう。そして、永遠に残るだろう文字を書き連ねてみたいと思った。そんなこと僕にできるのだろうか。そんなにたいしたやつなのだろうか。そうじゃないような気もするが、試さないのは性に合わない。やるだけやってみればいいのだ。それで野垂れ死ねばいいのだ。一度やって無理なら二度やればいい。二度やって無理なら三度やればいい。日本で駄目なら中国へコスタリカへバンクーバーへブラジルへ行けば良い。永遠に試せばいいのだ。それでしかない。それが生だ。好きな人間とずっと一緒にいて、恐ろしいくらいに試せばいいのだ。
結局12時まで飲んでしまった。途中でなぜかビデオ屋へより、ゴッドファーザーを借りる。目の前にあったピーナッツチョコも買って家に帰る。玄関にはまたアオの手紙が。
「パパはあけちゃだめ。ママはあけていい」と書いてあるパン屋ポンパドールの袋の中には苺味のチョコボールが入っている。
同じこと考えている僕とアオ。僕はアオの枕元にピーナッツチョコを置いた。
アオは本当に心の優しい動物だなと思った。酒で酔っぱらいすぎている。明日からは酒も飲まずに三日間くらい完全に集中しよう。調子に乗ってはいけない。静かにじとじとと内奥の光速で飛び回る僕の狂気と付き合おう。フーから、明日は早く帰ってきてくださいと言われた。
朝、雨で自転車に乗って幼稚園におくれないので、親父に電話して、親父のミニクーパーで幼稚園へ。アオは不服そうだ。アオは自転車に乗れることで、弦という新しい生命の誕生に悦ぶ、両親への少しだけ変化したベクトルを調整しようとしているのかしら。いや、そんなことは考えなくてもいいのかもしれない。アオは三歳のときから、自転車の後ろに乗って走りたかったと自転車に乗りながら僕に言う。その希望が実現した。それで興奮してくれている。それが僕は嬉しい。そして、ずっとアオと一緒にいようと思った。アオが「パパはもう仕事なんかしなけりゃいいのに。ずっとアオと遊んでいればいいのに」と言った。それじゃ御飯が食べれなくかもね、なんて言えなかった。そして、そうだよね。おれなんか仕事なんかしなくてアオと遊んでいればいいのにね、と言った。それでいくことにした。
アオを送ったあと零亭へ。SlyのSMALL TALKというアルバムに入っているMother Beautifulを聴きながら、原稿。しかし、幻年時代、佳境に入っているものの、やはり強敵で、一筋縄ではいかない。書きながら、迷い込む。迷い込めばいいのだ。簡単に納得するよりも数段よい。と思えてきている。ということで、ほとんど進まず。
午前11時に幼稚園にアオを迎えにいく。自転車じゃないので嫌そうなアオが、家に帰ったら、また自転車に乗って緑をみたいというので、家に帰ったら熊本城にいくことを約束しながら、二人でPAVAOへ。途中で、同じ幼稚園のアオよりも僕と仲の良い男の子と会ったので、鞄に入っていたイームズのPOWER OF TENのハードカバーの単行本を読み聞かせた。おれは何をやっているのだろう。でも、アオもその子も楽しそうなので、よしとする。
PAVAOは今、隣の部屋にギャラリーを作ろうとしていて、弟子のヨネが設計することになっており、僕はその手伝いに。1969年製のホールアースカタログを貸してあげた。ディテールを詰める。ついつい口を出すおれはあんまり良い親ではないのかもしれない。もう少し黙っていればいいのに。でも、僕は楽しくなってついつい口を出す。それはいいのか悪いのか分からない。ただ楽しいことは確かだが。
アオが早く帰ろうというので、タクシーで帰宅。すぐに自転車に乗り、シャワー通りを走る。4月のシャワー通りは緑が美しく、最高だ。はじめは町の真ん中を走ろうとしている僕に懐疑的だったアオもその緑を見て、納得し、感動してくれた。通りのパーマネントモダンへ。ここは坂口家御用達の服屋である。世界中のどこにもこんな服屋ないぞってくらい、ファンキーな服しか置いていない。ここのオーナー有田さんがいなかったら、日本にポールスミスもなければ、ドリスヴァンノッテンもなかっただろうと僕は思っている。熊本で、一人でぶっとぶことを知っている僕の師の一人である。
有田さんはいなかったので、スタッフの親友カズちゃんと話す。チョコラスクとエビアンをもらったので、それを持って、またアオと二人で自転車で熊本城へ。二の丸公園で二人でラスクを食べる。旨い。楠を二人で静かに見る。僕は楠の春の緑色が大好きだ。この緑が鬱状態のときには灰色に見える。今は灰色ではなく緑色に見える。だから僕は感動している。アオも同時に感動している。緑と風にアオは興味をもっている。僕が20歳のときに住んでいた下北沢のアパートの名は緑風苑という。ま、別に関係はない。人は緑と風が好きなのだ。
その後、またパーマネントモダンに二人で遊びにいき、置いてあるピアノを弾かせてもらう。僕は、くるりの「ハイウェイ」を歌った。コードはG,C,サビがAm C Gでやった。アオは自転車のキーホルダーにかわいい紐をカズちゃんにつけてもらっている。八朔までもらった。魚よしの大将の奥さんとの会う。
帰りに文林堂へ。この文具屋の先代の名前が丹邊恭平さんという名前で、僕はこの恭平をもらい坂口恭平という名前になった。ここで、筆と青墨と硯を購入した。恭平さんの娘さんと、恭平という名前について話す。この恭平と言う名前は、日本の麦酒王である馬越恭平からきている。名前って面白いなあ。弦は、はだしのゲンから来ている。本当は幻と書いて、ゲンにしたかった。でもフーにやめなさいといわれた。源氏物語には「まぼろし」という名前が出てくる。それは妄想としての幻ではなく、幻を作り出すことのできる「幻術士」という意味で「まぼろし」という言葉が使われており、そう説得したが、駄目だった。でもギターも好きだから、弦という名前は気に入っている。弦は元気にすくすくと育っている。
午後3時にようやく遊びを終え、アオを家に戻り、僕は一人でMacbookairを持って全日空ホテルへ。ラウンジで執筆。午後7時まで四時間書く。なんか、また新しい方向性が見えてきたような気がするが、無事に終えることができるのかまだ不安である。担当編集の梅山としばし、話す。ま、とりあえず最後まで行ってみよう。
夜、福島のいわき市から家族で熊本に移住しようとしている男性と会う。伊太利屋台で一杯ごちそうすることに。無事に仕事も決まり、アパートも三ヶ月は無料で借りられることになったという。数ヶ月前に僕に電話があり、そこからの付き合いで、初めて今日会った。僕は初めて、福島で暮らす人々の移住の手助けができた。しかし、彼の周りは除染の仕事をしていたりで、移住には全く理解してくれないとのこと。道は険しい。でも、熊本に来ても、何の心配もないことが分かったと言ってくれて少しほっとした。こうやって少しずつやるしかない。でも水をよそから注文して飲まなくてはいけないところでは、人間は住めないのだ。本来は。熊本は湧き水がすごい。水と塩と野菜と魚。熊本にはこの0円に近い贅沢がある。僕は水を飲める場所へと思って、熊本に移住した。そして、それは正解だったと二年経った今も思えている。そんなことを伝えた。
カクバリズムの角張ちゃんと電話。夏に行われる三回目の「まぼろし」も無事に開催されることになりそうだ。発表はまた後日。楽しみにしていてくださいね。とんでもない祭りになるよ。きっと。
僕にはとても強い仲間がいる。だから何事があっても気にせずに、とにかくひたすらに自分の仕事を創造を続けるんだと思えた。作ることをやめてはならない。おさめてはならない。自分の知らないほうへ、怖いほうへ、できないかもしれないがやらなくてはいけないほうへ。とにかくひたすらに突き進むのだ。それしか道はない。おれの生はそれでしかないのだ。アオは仕事しなくていいのにと言ったのに。僕は仕事をするよ。やっぱり。そのかわり、ちゃんと時間を決めて仕事をしよう。そして、昼間のアオが空いている時間は、ちゃんと自転車に乗り続けよう。ずっとダサいと思っていた、子ども用椅子がついた自転車を、今はしゃかりきになって漕いでいる。それでいこう。他者の目なんか気にしないで、やりたいことをやりたいように、自由の塊として、生きればいいんだ。駄目になったら、またそのとき考えよう。フーは、僕に「一度も駄目なことなんかないじゃん、死ななきゃなんでもいいよ、あんたは」と言った。それでいいと少しずつ思えるようになってきた。
深夜家に帰ってきたら、玄関にアオからの手紙が置いてあった。
「パパへ あそんでもくれてありがとう」と書いてあって、まじ、泣きそうになった。
よし、もうずっと遊ぼう。遊びと仕事を区分けしているおれが馬鹿なのだ。遊ぼう。
朝から、アオを自転車に乗っけて幼稚園へ。今日から、自転車で僕がアオを幼稚園に連れて行くことになった。アオは自転車に乗るのが夢で、僕はタクシーに乗ってばかりいたが、久しぶりに自転車に乗り、気持ちよくなり興奮する。熊本の春の朝の緑の緑色はやっぱり溜まらない。楠が、すごい緑色をしていた。アオも興奮している。アオは「自転車は風があるから気持ちよい、車は風がないから嫌だ。自転車は空が見えるから気持ちいい。幸せだなあ」と言っていた。詩人かと思った。
今日から、こうやって毎日のルーティンを続けていこうと決める。毎日送り迎えを僕がやって、空いている時間は狂気に戻って執筆と作品制作を行う。twitterなんかやめて作品を作った方が金になるよたぶん、と友達に言われ、なんかその言葉をただ素直にそうだねとも思った。面白い精神状態になりつつある。
朝、新しく弟子になったタイガースと話をする。タイガースは貼り絵をしたいのだそうだ。じゃあ毎日貼り絵をしてみたらいい。こうやって弟子も作品を作り、おれも負けじと作品を作るというような感じでいいのかもしれない。
伝えなくてはいけないことがある。新しく坂口家に入ることになったはずのシズクは、東京に帰ることになった。だからもう熊本にはいない。どこまで経緯を説明していいものかまだ分からないので、詳細はいつか話そうと思っている。でも、僕はとんでもない過ちをしたのかもしれない。それでも彼女は一瞬だけでも「幸福だった」と言ってくれた。今は地獄なのかもしれないが。彼女の病を治せると過信した僕は馬鹿だった。しかし、この件に関してはなかなか説明が難しい。児童養護施設の人が引き取りに熊本へ来た。人を救えると一瞬でも思った僕は間違いであることを自覚した。人なんか救えるわけがないのだ。草餅の電話をやめることにしたのは、このシズクの一件ももちろん原因である。人は救うことはできないことを知覚することができたので、僕はある意味では清々しい気持ちになった。生まれて初めて諦めたのだ。そのことが興味深い。彼女自身はこれから大変かもしれないが、それぞれ頑張って生きていこうと伝えた。いつか、シズクが自分で家族を作り、子どもができたりした時、会えたらと思う。そして、僕はもう二度と人を救おうなんか思ってはいけないし、そんなことは不可能なのであることをちゃんと理解しようと思っている。
それでも本は直接ではないが、人の心、生き方を揺さぶるものであるはずだ。直接やりとりをする意味もあったとは思う。2011年の避難計画以降、僕はとにかく人と直接触れ合い、金なんか度返しで、というかほとんど持ち出しで、とにかく困っている人を見たら、落ち着かず、放置できずかかわってきた。そして、そのことに意味があることも感じていた。しかし、それにも限度があることを知った。助けられることと無理なこともある。そのことを知覚しなくてはいけない。
フーとの約束
ということになった。僕は今まで自分の変化を恐れていたのかもしれない。表に出て、なんだかわーわー言っているほうが安心できていたのかもしれない。でも、ようやく本道を進めるような気がしてきた。力は漲っている。それを外に他者に使うのではなく、作品を作るということだけに集中してみる。
昼も、アオが遊びたいというので、執筆したいところを我慢して、自転車に乗って、白川沿いを疾走する。花が綺麗だったので、花を摘んで、花束をフーに作るアオを見ながら、なんかアオって興味深い人だなあと思った。ぱぱ、うつ病、なんでしょ?とか四歳に言われて、すみません、娘よ、と思いながら、なぜか幼稚園の先生には、ぱぱはお腹が痛い、とこちらはお願いもしてないのに、気を使ってもらっていて、僕は本当に駄目な父親だなと思った。でも、僕はその駄目さ、破綻自体を見せた方がいいと思ってやっている。隠しても仕方ないし、冷静、平静さを繕うほうが僕にはできない。一般的な子育てとしては駄目なのかもしれない。でも、僕はアオを見ながら、本当にこの心の優しい女の子を見ながら、やっぱり僕は自分自身をできるだけアオには開示して生きてもいいのではないかと思えた。フーはもっと全てを見ている。よく僕から離れないなと思う。そして、離れないで守ってくれてありがとうと思う。これからは約束を守って、これからは家族のこともちゃんと考えてやってみようと思ったのだ。
帰りに、僕が気になっていた和紙屋「森本」へ寄ってみる。その親父さんとはすごく仲が良く、もうかなりの高齢で耳も遠いため、会話もなかなか難しいのだが、それでも共感しあっていると僕は思っている素晴らしいおじいちゃんがやっている和紙屋。ケント紙じゃなく、和紙に書いてみようと思ったので、それが「残る」からだ。白隠の展覧会をみて思った。侘び寂びなんか全く興味ないし、日本伝統風の水墨画を描く現代美術家みたいなものが全く好きではない僕が、和紙に向っているので、自分でも不思議なのだが、残るために道具を選ぶことにしたのだ。
森本のおっちゃんに毘沙門天の絵を見せた。興味を持ってくれた。そして、こんな絵を描きたいのなら「雁皮がんぴ」じゃないといかんと言って、雁皮という紙の種類を見せてくれた。もう販売していないという。もちろん手で漉いたもの。四国産という。そして、細かい描写をするのだから鼠の筆をとれと言われた。鼠の筆なんかあるんですね。そして、青墨を使えとも。ということで、僕はインクとケント紙だった、ドローイングを、今度は雁皮に鼠筆で青墨を使って描いてみようと思っている。うまくいくかはわからない。でも、僕は今集中することができているような気がする。先に、誰も気にせず、自分が興味を持っている、その先へ行け。と声が聴こえる。森本みたいな和紙屋がある町に住めて僕は幸福だと感じた。近くには米山堂という表装屋もある。まるで江戸時代みたいな町なのだ。僕にとってはとてつもなく新しいことが始まろうとしているように感じる。ニュースカイホテルへ向かい執筆を始める。もちろん「幻年時代」。
午後7時に帰宅。フーアオ、弦、フー母、フー叔母のすみこさん、みちこさん、僕と、親父と母ちゃんの大所帯で夕食、そして、お茶。子どもが産まれると、そこに人が集まる。つまり、建築化していく。母ちゃんから、僕が高校時代に吉阪隆正の本を渡してくれた母の友人からのメールをみせてもらう。母ちゃんは偶然と言うが、僕には思い込みと言われようが、これは必然なのだ。僕は読むべくして、あの本を読んだ。そして、僕はあの本を読んだとき、これは僕が読むべき本で、吉阪隆正の意志はなかなか受け継がれそうもないから、僕はしっかりと彼を忘れずに大人になっても軽やかで自由な人間でいたいと誓ったのだ。18歳のときである。
いろんな仕事が入ってきている。で、それを梅山に任せている。結構これはやりやすいかも。彼が大変にならなければいいが。とにかく本を書こう。まずは。今週中に完成させる。ゲラの前に三稿目なんて、今まで体験したことがない。今まで使ってきた技術をできるだけ排除して、自分が恐れて避けてきたことばかりを使って書こうとしている。それは怖い。でも、それをやれるだけの自力がついてきたのではないかとも思っている。二人目の子どもが産まれたのだから、ここで収まって生きるのはかっこわるいし、食っていけなそうだ。そうだ、そうだ。もっと自分も怯えちゃいそうな、自分の知らない世界をちゃんと覗け。それを自分の仕事の最先端のところで実現しろ。生活のために生きるな。そうしないと、腐るぞ。作品を作れないくらいなら、死んだ方がましだよ、と自分は苦しくて死にたかった自分を反転した。病気で苦しんでいるから死にたいと思うよりも、つまらん仕事しているくらいなら死ね。それが怖ければ、がんばって、ぎりぎりのところで、やっぱり自分に挑戦して、やばいことやれ、半端無いことやれ、子どもができたからこそ、アオが躁鬱病のおれに気付いてきた今だからこそ、そこで隠さずに、己を見せて生きよう。怖いけど、やるしかないっしょ。と思った。
本日、twitterと草餅の電話をやめた。もう自分がソーシャルネットワークでできることは十分やったのではないかと思えたからだ。同時に、人を直接救うことなんて不可能であるとおそらく生まれて初めて認識できたからでもある。それでも、僕はあきらめなすぎの性格であるので、何か藻掻いて動いてきた。はっきりいって、本業であるはずの本を書いたり、絵を描いたり、つまり創作をすることよりも、途中からは何か他者に向って行動することのほうへと力が移っていっていた。それはそれで悔いは全くないし、それは僕は自分でやるべきだと判断したし、事実、それでうまくいったこともあり、それなりに感触も掴めた気もした。いのちの電話から訴えられ、草餅の電話と改名したが、この希死念慮に苦しむ人のホットラインは、僕はなんの深い意味もなく、ただ淡々と必要だと思い、行動した。そして、僕と電話して死んだ人がいるのかもしれないが、僕の耳には届いていない。むしろ、死にたくなくなったと手紙やメールや涙の電話をしてくれた人々がいたことは逆に僕にとって力になった。それでも、これらは僕の本業ではない。それは確かなことだ。二年間、鬱の時以外は休まず、twitterと草餅の電話をやってきた。でも、そろそろお前はちゃんと自分がやるべきだと思うことをしたらどうだと、ようやく自分に対して言えるようになった。フーからも言われたし、担当編集の梅山からも言われた。そして、4月13日、熊本にわざわざ来てくれた梅山と僕とフーの三人で話し、今後の仕事のやりかたを相談した。そして、決めた。
もっと僕は書きたい、描きたいのだ。僕の狂気は社会と触れると、ちょいとヒヤヒヤものである。もちろん、それによる熱狂も興味深いことは確かだ。しかし、それは一瞬の感動であり、僕は本を書いてきた人間であり、絵を描いてきた人間であり、建築に対して、建てもしないのに思考してきた人間だ。その自分の道にちゃんと戻ろうと思えた。むしろ、今まで疎かになり、他者と戯れることにばかり、メディアに出ることばかりに熱狂していた自分が恥ずかしくもなった。そろそろ戻ろう。静かに、己の中の狂気を、真空パックしたようなやばいやつを書こう、描こう、建てずに思考しよう。そんなことを思い、結構、前向きにやめました。むしろ、清々しいくらいだ。
とは言っても、僕は元々、ここのHPで日記を書き続けるということが日課となっており、そちらのほうは昔から、ありがたいことに熱心な読者の方達がいた。正直、twitterのフォロワーたちよりも沈黙で、ほとんどリアクションはない。しかし、静かに読んでくれていた人がいた。そこに立ち返ろう。今ではなく、この先もずっと残るものを作りたい。ちょいと本腰入れて、毎日、自分の創作にちゃんと没頭してみよう。それで何ができるのか。試してみたい。
4月13日の誕生日には吉阪隆正賞の発表もあった。僕がとっちゃっていいのだろうかと思っているが、もちろん嬉しくもある。唯一、欲しいと思えた賞でもある。僕の初期衝動と直結しているからでもある。6月には基調講演みたいなことをするみたいだ。楽しみだ。0円生活圏について話したいと思う。
ま、これから、ここの日記で、たぶん、ずっと日課のように毎日の動向は書き続けると思うので、昔からの日記の読者の人には、お久しぶり!、twitterのフォロワーからやってきた人は、まったくインターフェイスできませんが、ただただ読んでください!
今日は、朝から気分もよく、アオを幼稚園に送っていったあと、零亭で久々に弟子のパーマと会い、これからは毎日、零亭で執筆、絵画を行うから、家を常に掃除しておいてくれ、それだけですと伝えた。パーマは金がなくなったので、先日、下通アーケードでギターを持っていって、適当に叫んでみたらしい。2500円稼げたという。おー、お前もこれでもう食いっ逸れしないね、さすがだねと思った。22歳のパーマ。僕も21歳の頃、同じことをしてやっていっていた。もうあの頃には戻りたくないけど。
その後、零亭で執筆をしばらく行い、MTRで昔、録った音源を聴き直す。そして、今、僕がはまっているSly&the family stoneの二枚のアルバム「FRESH」と「SMALL TALK」を聴いてた。僕の次のテーマはこの二枚のアルバムからはじまっている。セカンドアルバムも完成した。でも、売る気はあんまりない。0円でみんなに配ろうかと思っている。音楽は売る物じゃないなあ、僕にとって。
夕方から、PAVAOへ行き、弟子のヨネが担当している、PAVAO改装計画を覗きに行く。楽しみだ。5月4日にお披露目パーティー。さらに同じビルの3階では僕の専属マッサージ師でもある可愛いユキちゃんのマッサージ屋「めだかや」の新築工事も行われており、親しいトミーさんが工事を担当しているので、こちらも現場管理へ。一体、おれの仕事はなんなのだろう。無償の現場監督。僕はこういうの好きである。
家に返ってきて、アオと一緒に河島自転車へ。パーマに借りた自転車の後ろに子ども用の椅子を取り付けた。2000円もまけてくれた主人は最高の男。ハーレーダビットソンの子供用の自転車を隠し持っており、僕はそれを弦にあげたいと思い、狙っている。とてもよくしてくれる。
夜、鹿児島の親友タビトに電話し、弦のための節句の飾り物を購入。平野明さんという張り子作家の鯉を買った。65000円。とってもかわいい。タビトは僕にとっての千利休である。彼に食事する場所とか、遊びにいく場所とか聴けば、完璧な答えが返ってくる。メガネ野郎。鹿児島市でgallery koenというギャラリーをやっている。そういえば、今月号のポパイの連載「ズームイン服」ではタビトのことを書いた。
原稿を書いていたのだが、保存するのを忘れて消しちゃって、落ち込む。しかし、次に出る「幻年時代」の第三稿は、またまた狂ってきていて、おれは一体何を書こうとしているのか分からなくなるも、なぜかこれはもしかしたら面白いのではないかという予感のほうが勝っている。
仕事の依頼は舞い込む。吉阪隆正賞を記念して、住宅特集から原稿依頼。大分で、磯崎新さんを迎えて行うトークショーへの参加依頼、サンフランシスコでの映画「モバイルハウスのつくりかた」上演に際してのワークショップ依頼など。家族でサンフランシスコへ行ければ最高だなあ。また行きたい。ビッグリボウスキを観て興奮して20歳のときにサンフランシスコにいって、シティライツブックストアに行き、バークレーの蚤の市でゲーリースナイダーを感じたりしていた。なんか今、サンフランシスコでゆっくりしたいなあと思った。ギャラが結構出たので、家族の足代も行けそうだ、だから行こうぜとフーを落しにかかる。
深夜。久々に日記書き始めたら、こっちのほうがやっぱり断然面白いじゃないか。
明日からも書こう。鬱になればまた止まるが、それも風物詩みたいなものになってきた。僕はもう死なないんじゃないかと思えた。そんな夜。