坂口 恭平 エッセイ

四次元的命名

熊本に住んでいた頃、歩いて5分ほどのところに白川という川があった。中学生の僕は、チャリンコで国道をまっすぐ行けば学校に着くのにその川べりの道をよく走っていた。何かがあったわけではない。ただその道に行くまでの細い路地が好きだったし、川べりの道からみる白川の姿はパノラマで、さらに水と植物という不確定な世界にほっとしていたのかもしれない。僕の家は「国道」と「市道」に挟まれていて、「市道」は昔はメインストリートだったらしい。家族で遠出をしたり、中心地(僕たちは「マチ」と呼んでいた。)に買い物にいったりするときはよく「国道」を使い、友達の家にいったり、近所にご飯を食べにいく時には「市道」を使っていた。「市道」は僕の頭のなかで「私道」でもあって、なんかプライベートな路地というイメージがあった。そうだから「国道」も普通の「国道」ではなくて、「国」というイメージが強くやたら公的な道という印象だった。国道から入っていく道には新しくできたモールのようなもの、警察署、工場、流通の中継地点もあり少し殺風景な気がしてあまり好きでなかった。しかし、その国道沿いの道でも、国道の下を走っている裏道から入ると同じ場所なのに田んぼが残っていたり、古い木工所があったりと違う風景を見せてくれるので僕はそっちからいく国道沿いの道は好きだった。

「私道」のほうは日吉神社、細い裏路地、地元に昔から住んでいる友人の古い家、ドブ(これも当時は「かわ」と呼んでいた)などがあり隙間がたくさんあり、よく遊び場になっていた。そして、白川はこの裏にあった。そしてこの白川沿いの道のことを僕たちは「トモ」と呼んでいた。

どうして「トモ」というのか全く知らない。しかし、僕のなかでは「友」という字をあてていた。ここに行く習慣は小学校から高校生まで続いた。遊び場でもあり、一人で歩く場所でもあり、便所でもあった。

こうやって勝手に決められたまま何も不思議に思わず使っている言葉に凄く興味を感じる。そこにはその言葉によって作られた空間が生じている。そういえば、国道と市道の間の路地のことを「中道」と呼んでいた。ここからは、いくつもの駄菓子屋、各小学校、ヴィデオ屋さん、ゲームセンターに繋がっている。そこはある意味多様な運動体だった。なんか変なことをしてふざけていると、市道沿いにある精神科の「○病院」に入れるぞ!というのがコドモときの口癖だった。

そういう言葉にはいつも多少の勘違いが存在しているように思える。その勘違いや聞き間違いをなんの躊躇も無く受け入れている状態なのではないか。しかし、それは決してわるいことではなく、人に都市の中の隙間を生じさせる。それは共有している人間同士の中で特有の空間になっている。目に見える世界とは別に、言葉で語られるにつれて成長していく目には見えないが「感じる」ことのできる世界というのもまたこの世には存在するのだと思った。

0円ハウス -Kyohei Sakaguchi-