坂口 恭平 エッセイ

僕の家

最近引っ越しをした。場所は中央線西荻駅から徒歩1分。商店街沿いに建つ築30年ほどの古い鉄筋コンクリートのマンションである。入口は一風変わっていて、まず開きっぱなしの鉄製のドアを抜けると二つの木製のドアが見える。この木製ドアが、二戸の住居のそれぞれの玄関である。つまり、もとはデカイ一室空間だったところを二つに分けて使っているのだ。ドアの表面は木製と言っても、いつものように木目のフェイクのシールが貼りつけてある。施錠は便所式。鍵を回すのではなく、取っ手についている「ポチ」を押してガチャンと閉めるのだ。

玄関脇に取り付けてあるブザーを押すと、剥き出しになっていて丸見えのコードを伝っておもちゃのようなチャイムが「ポーン」と鳴る。「ピンポーン」の「ピン」が鳴らないのだ。しかも、「○○ポーン」と鳴る。なんか妙だ。

部屋は6畳間が二つ、6畳の板張りが一つ、4畳半の台所、4畳ほどの廊下。風呂と便所が別々について9万円。これを同居人とシェアしている。ひとり4万5千円。これはとても安いと思う。部屋はうなぎの寝床のように縦長に連なっている。襖も障子も取り払っているので25畳ほどのワンルームのように見える。見かけはボロいが、これがなかなか住み心地は良い。

玄関の上で灯っている電気の傘は古いが、古くさくなくて、装飾もなくて良い。洗面所の小物を載せる棚はガラス製で、ガラスを支える洒落た鉄製の金具はとても今では見つけられないだろう。窓はたくさんあり、北向きだが、朝の光はしっかり入る。各窓のところは、一段あがって肘がかけられるようになっていて、物が飾れる。押入は襖を取って、ステレオ置きになっている。

6畳の板張りの作業部屋と廊下の間に無意味な窓があるのだが、この前同居人の姪っこが遊びに来たときは、この窓に夢中になっていた。部屋の中に窓があるのだ。レコーディングスタジオのように。何の意味もないのだが、これは夢中になるんだろうなあとおもった。

鉄筋の建物だが、なぜか部屋の中は木造のようになっている。しかも、ちょっと無理をして木造にしているので、どこかしらズレが生じている。さらに、その柱をよく見ると、なんとペンキで茶色に塗りたくられている。茶色というか木色に。しかし、それが功を奏して(?)フランクロイドライトのような重厚感を醸し出している(笑)。いくつものズレがリズムを生み出している。さらに、仕事は下手なりに一生懸命やっているようで、変な心地よさがある。ヘタウマといったところか?

電気は裸電球を使用している。傘はフランスで買ってきたボロボロの深緑のホーローと地元で買った、昭和初期の日本のガラスの白電気傘のホーローによるコピー。ホーローは和室にぴったりだ。これがガラスだと雰囲気が出過ぎて、「日本風」になってしまう。

台所もお気に入りだ。L字になっている。しかも、手作り感抜群。棚も何もない。70年代のナショナルの電化製品のようなシンプルさと昔の日本の土間のまわりの匂いが合体したような場所。決してプロには作れない。

家具はほとんどない。使っているのは和室の上に置いている。低いベッド。そして技術工作室にあった椅子、前の家の隣の住民にもらったこれまた古い机。シンプルすぎてたまらない。

間違いなく最高級の空間ではない。でもどのスタイルにも寄りかかろうとしない、技術工作室の椅子のように、古いが「いつまでも通用する」部屋だ。このまえ古美術屋を覗いたらそこは昭和初期の家具ばかりを扱う店だったが、その時、今の家と同じような感情を抱いた。昭和初期の家具はどれも斬新でシンプルで、一目では日本製かなにか分からないぐらいデザインが洗練されている。さらに加えて、ヘタウマである。もうヘタウマは終わったと思っていたが、それは絵の世界。空間の世界ではまだ残っている。

この感覚は前にも一度味わったときがある。それはユニテだ。ル・コルビュジェ設計のあの建物だ。あのときは、巨匠の作品を直に見るというので気合いを入れてみた。しかし、見た物はシンプルとヘタウマと手触り抜群の可愛気のある場所だった。

そんな空間がなかなかない。それを我々は半分諦めながら、不動産が出してくる図面のコピーの冊子を眺めながら、どうにか反抗しようとしている。

不動産の中でもシンプル、ヘタウマ、手触りなどに注目しすぎた物件ばかりを持っているところなど出てきたら人々は喜ぶんではないかなあ。

2005年10月20日

0円ハウス -Kyohei Sakaguchi-