坂口 恭平 エッセイ

ガムの惑星

 人には趣味趣向志向嗜好模索仕事様々だ。ヴェルベットアンダーグラウンドとダンスミュージックの共通点を探っていく人がいるかと思えば、フォークミュージックからの流れで考える人もいる。ボクはそのどちらもだと思っている。

 そういう小さく細かくミクロな趣味の違いなどを目にするとボクはいつも興奮してしまう。その人間の多様性に目がチカチカするのだ。そして同時進行的に僕はいつもそれを細胞レベルで考えてしまう。自分の体の中の細胞たちも、血液たちも、器官たちも、神経たち一本一本にもそういう趣味というか趣向というか好みのようなものがあるのだろうと勝手に思ってしまうのだ。

 おそらく地球にも月とは違う趣味があり、太陽も、違う次元にある別の太陽とはおそらく持っているレコードや本が人それぞれに違うような微々たる違いがあるはずだ、と。その時、僕の頭はスーッとしてケンタッキーミントの薫りがするのだ。僕がいくつかのSF映画で感じることもそうだ。これは未来の姿を映像化しているだけではなく、人間の頭の中で蠢きあっている神経体の中で日々現れては消えている直観の具像化も同時に行っているのだ。と、僕は感じる。そういう時に、大小の感覚でものを考えてしまう。

 つまり、太陽系は果てしなく大きく、人間の体は2メートルを越えるものなんかほとんどないと。しかし、その目で見える差異を無視することにしている。友人の本棚を見えているのと、太陽の表面をサーモグラフィ-で見ているのは全く一緒のことなんだと。そうすると、その本棚がいきなり複雑な物質に見える。いや、物質じゃないな。0と1だけで並んだデジタル記号のように見える。それは暗号ではない。もっとシンプルに僕に何かの法則を教えようとしている。そしてその法則とは、何らかの方程式に当てはめれば計算できるものではない。それは、一瞬で全てを全体を感じるものなのである。考えるな、感じろ。どこかで裸の筋肉質の男が言っていたような台詞だが、これはまた真実なのかもしれない。

 パタと無意識で開いた本の中の言葉に、気付かされることがある。そういうことなのだろう。宇宙は、身近な本棚の中に隠されているのだ。そうやってみると、自分の周辺、歩いている街並、飛行機から眺める都市の姿が複雑で単純な記号に見えてくる。

 路上に落ちているガムを見ても、嫌だなと思うことが無くなる。路上のガムを見かけるとルーペで覗き込みたくなる。そして8×10などの巨大高性能カメラで拡大撮影したくなる。ガムのなかにも本棚があるはずだ。本棚を探してみたくなる。そうやってガムを見ていたらピンク色の惑星に見えてきた。アスファルトは星が散りばめられた宇宙空間に。向こうには真っ黒いデカイ惑星があると思ったらそれはマンホールの蓋だった。その世界を横に踏みながら歩いている僕たちは何次元の生物なのだろうか?

2007年10月24日(水)

0円ハウス -Kyohei Sakaguchi-