今日は、姪っ子とアオと一緒に午前10時から徒歩5分のところにある子ども文化会館へ。そこで夕方まで過ごす。夜、弟子パーマ、タイガース、ポアンカレ書店社長ウッシー、植木からフクちゃん、おくちゃん、かのが集まってくれて、フーの誕生会。素敵な会合だった。生まれ変わって、鬱明けすれば、大体のことは取り返せる。その反復運動を続けている。
今回、本当に幻年時代書いて、ビビったんだろうなあと思う。本当に怖くなったのだ。これから僕はどうすればいいのかと当たり前の問題と向き合ったのだ。なぜ、今回そのようなことを考えていたかというと、これまでの自分の著作は、自分の思考と同一平面上の移動であったからである。もちろん、それでも移動なので、見たこともない世界を探検する、つまり新作を作るときは恐ろしいのであるが、なんとなくの予想がつく。それがこれまでの著作だった。しかし、今回の幻年時代は明らかに違った。自分がもうすでに変化していることを見ぬフリをして過ごしている自分自身を改め、変化しているのであれば、それにちゃんと乗り切ろうと試みたのである。それは僕にとって人生初の試みのようなものだった。だから、僕は幻年時代はこれまでの読者からすると、びっくりするところもあるのかもしれないが、僕が本当に書きたいと思っているところへ、さらに一歩近づいた、つまり自分としては進化した作品なのだ。それで、到達してみたら、そこはまた断崖絶壁であった。で、僕はもちろんそこで落ちてしまった。で、コンクリートと化した海面に自分の体が着地して破裂する寸前、鳥人間コンテストのように風に乗り、紙飛行機としての坂口恭平はまた羽ばたいて、今、原稿を書いている。そして、ちゃんと僕は書くんだ。書く命と書いて、かくめい、を突き進めるのだと確信した。もちろん、この確信もまた裏切られる。しかし、それでも僕は確信したい。今を自覚したい。それが生きているということなのだ。いつか、僕は何を血迷ったのか、死んだりしてしまうのかもしれない、しかし、今は僕は永遠に生き残る言葉を構成したいと願っていて、それが実現できるのではないかと確信している。その高速回転で揺れ動く確信を、僕はしっかりと知覚したい。それが生の塊なのではないかと思うのだ。なんだよ、あのとき言っていたのに、今はなんだ、とかそういうことではなく、今の確信。それを僕は嫌悪していたが、今回知覚して、はじめて好きになった。もちろん、さらに、遠くの時間まで飛んでいく、空間の深みをつくりださないと、時間の摩擦にやられ破られ、作品は強度を失い消えてしまう。その「変化」という実は己の中に常に高速回転で起きている事象に対して、ちゃんと知覚判断検査するための装置としての技術を僕はさらに身につけなければいけない。それは今回の執筆を終えることで生まれて初めて体感した技術の片鱗の可能性を感じたからでもある。だから、幻年時代を書いてよかった、よくがんばった、と今回の鬱明けで初めて思えた。僕にとってそれはとても大きな違いなのである。自分を知る、という行為を、方法を、工夫を、感じたのである。
昨日、鬱が抜けたので、爽快な朝明けを味わう。これが躁鬱野郎の鬱明けて一番始めの楽しみなのだ。朝日を見ると、涙が出てくる。おれはまた今回も生き延びたのだ、と。その自覚の強さは人には言えないけど、自分が何かとんでもない冒険から帰ってきた勇者にさえ思える。でも、それは言わない。嫁には言わない。フーには。だから書けばいいのだ。どうせこれはフィクションとしての日記なのだから。書くという行為自体がそもそもフィクションなのだ。隅田川のエジソンを、出版後4年経ってようやく読み終えたフーが僕に言ったことは、これ、わたしたちの物語じゃん、であった。彼女は泣いていた。しかし、それは鈴木さんという実在するらしい隅田川沿岸の路上生活者をフィールドワークしたあとの僕がその熱で、実在の人物をもとに書いた小説ってことになっている。でもフーには違う側面の存在が感じられたらしい。面白い。全部フィクションなのだ。書くという行為はそもそも。
今日は、鹿児島に行く日なのだった。鹿児島の伊敷病院というところに神田橋篠治さんという躁鬱病の名医がいる。いるのをなぜ知っているかというと、彼の語録集みたいなPDFがネット上にあって、それだけが唯一僕の鬱状態の揺れる心を落ち着かせてくれるのだ。ちゃんと、きっちり、この道一筋では躁鬱病はいけない。他者のために生き、そして、その行為自体が重要なのではなく、その行為を他者によって賞賛されること、それこそが躁鬱者の幸福なのだ、だから、徹底してそれをやればいい。あっちふらふらこっちふらふら、何も一貫性なく、ただ個人の好みに従い、生きていく。他者を喜ばせることが最上の喜びであり、それはちょっとやりすぎだろうとか他者から縛られることを全く快いと思えない、つまり言ってみれば、ただの自己中心人間、それが躁鬱なのだと書いてあり、それを読むと、なるほど、それはまさに僕が生きたいと思っている意味であり、また日本社会からは結構煙たがられることであり、かっこわるいことであり、それを気にして一貫性を持たせようとすると大抵いつも落ちる僕の精神性をかなり的確に言い当てられており、ネット上では神田橋先生は結構呪術師的でカルトっぽいなどという懸念の声もあるのだが、カルトって言えば現政府イズジャストカルトであるため、ほとんど世界中に広まっているカルトを全般的に肯定している僕からしたら当然のごとく意に介するわけなく、もちろん新幹線さくらに飛び乗り、一路、鹿児島中央駅へと中島らもさんの小説でも気軽に読みながら、向かったのである。らもさんの小説は、重複であるところも多々有るのだが、それにも増して、僕に読める。それが本を読む一つの理由になっている。かと言って読めない本が悪いと言っているのではない。僕はヴァージニアウルフの灯台へが好きだと言っているのだが、一行も読めた試しがない。つまり本にも様々な巣の在り方、つまりレイヤーがあるのだ。
中央駅に到着し、気持ちが少し上向きな僕はもちろんタクシーに乗って15分くらいかけて病院へ。神田橋先生はもちろん人気ナンバーワンで僕は二時間ほど待った。今回は僕は40番であった。しかし、二時間後、ドアを開いた神田橋先生が放った言葉は、
「あのー、熊本からわざわざ来ている、坂口恭平さああーーーーーん」
であった。僕の40番という匿名化された暗号化された存在が、かつーんと木製バットによって飛ばされていく。おれの40番という人間はどこへ行ったのか。僕は伊敷病院で、匿名化から脱却され、坂口恭平として、堂々と歩くしか道は残されていなかった。かつ、それは先生による、僕へのフックなのかと訝しがっている自分自身が、そもそも精神病なんてものに汚染されていると勘違いしているいわゆる放射脳と揶揄される人間なのだと感じた。いや、とは言っても、数年後チェルノブイリ周辺で放射能心配病などという言葉は消滅したらしいのだが、その理由が五年後から実際に症状が出始めたからだというのは、なんだか小説に書けそうな理由だなと思っている僕は、はっきり言ってはじめから放射能などどうでもいいのだろう。何か熱中することが好きなだけのただの躁鬱だったんだよ、と今や、何も気にせず、でもフーが熊本のこと超気に入っていて、幼稚園でのママ友とも交流の楽しさなどを見ると、まあ、東京ではこれは無理だったから、完全に良かったなと違う理由で熊本に来たことを喜んでいる自分自身を感じたりしていると、気付くと、神田橋先生がいない。しかも、僕は油断して、というか、鬱のときは基本的にコンタクトレンズをしていない。この一見、目が良さそうで実は目が悪い、という、大胆そうで実は繊細の代名詞みたいな方法論で生きている僕の目は悪い。つまり、先生が何号の診察室に消えたか分からない。僕は坂口恭平という名前をその病院内で唯一持ちながら、しかも迷子になった。これはやばいと思って、昨日まで毎日24時間背中にピタリとついていた焦りみたいな感情が蘇ってきて、おいおいそりゃないだろとなった。すると、目の前のベンチに座っている優しさそうな、つまり、一体あなたは何のためにこのキチガイたちを受け入れる、いや違う精神病なんて今や誰でも受診するものだとネットに書いてあったからたぶんこの人も別に重症じゃないく、気休め程度な気持ちで来ているのだろう、いやそうでないと、おかしいと思えるような女性が、無言で2号室を指差している。なぜ、僕が迷子であることが分かったのだろうか。僕は突然の木の上のシャム猫に道筋を与えられる不思議な国のキョウヘイになっていた。丁重にお辞儀をその患者なのか、ただの天使なのか分からぬ、シャム猫に深々と贈り、僕は2号室のドアを開けた。
「うーーー、んーーーーー、」
先生は何か唸っている。僕は椅子に座り、問診に応える。
「躁鬱なんだね?」
「はい」
「薬は?」
「朝夜二回、リチウム400mg、つまり合計800mg、眠れないときはサイレース一錠です。それで大抵寝れます」
「800mg!?やけに多いね」
「そうなんすか。でも、最近は一ヶ月に一度鬱が襲ってきて、しかもきっかり日本にいるときは1週間で収まります」
「とは?」
「サンフランシスコにいたんですが、そのときはそこまで酷くなかったです。今回の鬱はあの、昨日明けたんですけど、日本で1週間、サンフランシスコで1週間、計2週間かかりました。3月くらいから、もう五度ほどこの状態です」
すると、先生は右手の腕を肘から上だけ、上下に反復運動した。まるで細い棒をさするように。僕はその棒が見えていないのは、近眼状態の僕だけなのかと思うと、先生の後ろにいてはならない人影が見えた。おれはやばい、幻覚来たかと焦った。しかし、その焦りは瞬時に、40番であった時点での坂口恭平からの助言で、受付の段階で、今日は研修医が診察を見学に来ますがそれでもいいですか?と了解を確認されそれを即断で、了承したことを知らされた。僕は了承していた。絶対、嫌なはずなのに。このグーグル社会、なんでもすぐ人命をググるやつが多い。だから、このキチガイいや精神病院へ受診しているのを、何度も「あれっ!坂口さん!」とデリカシーのない人間たちにやられた経験を持つ繊細さをもつ坂口恭平の部分は、後ろに人影があってはならぬのである。しかし、40番の坂口恭平が遠くにバットによって飛ばされていなかったことにほっとした。匿名のおれもまだそこにはいた。研修医は置物のように視線すら動かさず、そこにいた。すると、突然、先生はくるりと回転椅子を使って、体ごと研修医のほうへ回り、研修医の面と向き合った。腕はまだ上下運動を繰り返している。これは何かの合図なのか、訝しがる僕をよそに、ではなく、おそらく僕と同じく、彼女は固まっていた。何も棒を持っていないはずのその透明の棒をずっと上下にさするその運動は一体、何かと思うと、次の瞬間、また半回転し、僕の方を、向き、机の上に置いてあった、ツムラの漢方薬の袋を手にとると、同じ間隔で動作で、その銀色の袋を振った。あ、どの漢方薬をこの僕に飲ませようかを、思案、というか体の動きによって、つまり動物的な生命力で決定しようとしていたのかもしれないと思った僕はカスタネダみたいになっていた。
とか、なんとか、書きたいのだが、面白くなってきたので、この先は短編小説にしようと思いとどまったので、ここで、問診の経過文を書くのをやめる。
診察後、タビトに電話。タビトが働いているデンマークじこみのキチガイ花屋に遊びに行くために、中央駅へ戻り、電車で5駅「慈眼寺」へ。花屋でタビト、順ちゃん、ちょうど展覧会をはじめようとしていたマキちゃん、ジュエリー作っているキラボンとずっと喋る。鹿児島は僕の波長に合っているらしい。ここにくると落ち着くのだ。気持ちよいことをするといい、先生は言った。そして、躁状態はいかに止めればいいのですか?と聞いてきてとフーからの伝言を伝えると「何も止めなくていい、あまりにも飛びすぎたらリチウムを一錠増して飲めばいい」と言われた。そっか、何も止めずにいいんだ。このまま創造だけやってりゃいいのか、とほっとしたのであった。
その後、もちろん鹿児島に来たら湯の山温泉へ。ゼンから教えてもらった、地元の人間もほとんど知らない最高の温泉。鹿児島行ったら、みんなも絶対行った方がいい。僕は古里のような感覚になる。タビト連れて行ったら、タビトは鹿児島のあらゆることを知っているような人間なのだが、彼も知らず、そしてやはりぶっとんだ。
夜は、タビト、順ちゃん、まきちゃん、薬局社長のカーコ、アートディレクターのこうたろうさんと飲む。六伯豚のしゃぶしゃぶ、金目鯛の炙りなんかを食べて、幸福になった。やはり躁状態の僕は気持ちがよい。草原のようだと思った。孫悟空でも出てくるんじゃないかって。
夜12時に帰ってきた。フーと久しぶりにゆっくり話をした。
久しぶりに会ったような気がした。ずっと一緒にいるのに。
よくこんな人間と一緒にいるなお前と鬱のときに言っていた僕は、やはり今は、僕とフーは最高のカップルだとなぜか、やはり確信を持っていうのである。躁鬱とさらにハーフの存在の必要性を知った僕は人種のるつぼ状態になっているために、当然だが、人間の確信というものはかくも脆く、なのに真実なのである、と思うのであった。
短編のアイデアが溢れ出てきている。それを無印良品のB5のノートに刻み込む。
狂えばいいのだ。どうせ、その先にしか道はない。
ひらめきだけの人生よ、と言うと、僕の実の妹が三人子ども連れて今帰省していて、それを全く馬鹿にせず、それで家族育ててるんだから、すごいじゃん!と言ってくれた。妹は、昔から、なぜかいつもフーと似たリアクションをするなと思った。弟は梅山みたいなのだ。弟も今は編集者として生きている。なにか、不思議な気持ちになる。妹がフーで、弟が梅山。おれには躁鬱とハーフと三人いる。ベルリンで、日本の尾道で僕と付き合ってくれている最高の部族がいるのだが、その尾道を感じたように、妹はフーなのであった。
今日は、午前中、少しだけ調子が良かったものの、結局はずっとベッドの上で寝ていて、携帯でネットしながら躁鬱患者の手記を読んだりしていた。で、もちろん、それをすればさらに下降していった。
しかし、今日はなんとなく体が動くようになってはいたので、フーアオ弦は外出中だったから一人で昼飯を食べようと食事を作る気にすらなっていた。普段であれば、ここで絶対に食べない。冷蔵庫にあるものか、食器棚の上の笊に入っている亀の子せんべいを食べる程度。しかし、今日は食事を作ろうという意欲があった。と言っても、玉葱とひき肉と卵の炒飯と豆の煮物だけだが。それでも大進歩。もしや、これは行けるかも!と思い、シンクに溜まっている食器を洗うと(これは前日の深夜、溜まっていたものを洗うという実験を始めており、それがうまくいっていたので、取りかかるのは至って簡単であった)、これまたクリア!なんとなく炊事場周辺を拭いたりもした。このように、当たり前のことを別に何も考えずにできるようになると、それは兆しになる。書きながら、悲しくなってくるが、僕の場合、鬱になると本当に何もできなくなる。おそらく躁鬱で苦しむ人はみなそうかもとは思うが、僕の周辺にそういえば躁鬱の友達が一人もいないので(カミングアウトしていずに、実は躁鬱であるという人はいるかもしれないが)、分からないのが本当だが。ネットで見る限り、みんなそんな感じだ。
今日、フーが興味深いことを言っていた。僕はよく、自分の症状に対して、これは性格なのか、それとも心の病とかいうものなのか、それとも脳の電気信号の誤作動によるものなのか分からないとか言うのだが、そもそも性格と脳の動きとかって分けられるものなのか?ってのがフーの疑問だった。全部含めて「あなた」なのではないかと言われ、当たり前のことを地に足つけて生きているフーの安定感を見ていると、まさに「日常生活界の横綱」の風格さえ感じた。僕は時々、力士にすらなれずに、奥の方で恥ずかしながら眺めている観客になったりしてしまう。とか思うと、やたら五月蝿い行司になったり、横綱であるフーに猫だましで奇襲大作戦を結構する前頭筆頭の小振りの奇抜な力士になったりするのだが。
しかし、それにしても、今年は本当に大変な年だあ。と言っていたら、2011年も8月から年内一杯そうだったし、昨年も1月から8月まではぶっとばしていたけど、8月下旬から年内一杯大変だったじゃん。と言われたので、まあ、毎年変わらぬのかもしれない。今年は1月から8月まで、ほぼ一ヶ月周期で、深い山と谷を繰り返している。しかし、その過程で「思考都市」は生まれたし、書き下ろしの「幻年時代」は生まれたのである。大変だろうが、なんだろうが、そうやって生まれることが面白いじゃないか!と自分をとりあえず勇気づけてみる。僕からしたら大変な毎日なのだが、フーには全くそう映らないそうだ。面白いよ、と言っている。しかも、何も悪いことなんて起きてないと。
家族が家に帰ってきた。僕は調子を崩すと、子どもと一緒にいれなくなるので、自分の書斎に籠りきりになるのだが、トライしてみると、アオと普通に一緒にいれる。アオはプール教室に行ってきて疲れているので、一緒に寝ながら絵本を読む。
「みずたまのチワワ」
「いってらっしゃい、いってきます」林明子
「こんなおみせしってる?」藤原マキ
アオの本棚は僕の本棚よりも充実している。僕は本当に本なんか書いてていいのだろうかと一瞬焦る。僕には本当に読書体験での衝撃みたいなものがほとんどない。で、作家という職業にはそういうものが必要であるはずだと鬱状態になると焦る。それをみて、フーがいつも「お−い、そんな関係ないっしょ!書きたいから書く。それでいいんだよ!」と鬱で固くなっている僕の頭を叩く。それでも気付けないのが、面白いところである。「坂口は鬱になると、すぐにHOW TO本へ向かう」とは梅山の談。なんせベッドの上でよく読むのはクーンツの「ベストセラー小説の書き方」だからね。。小説書いたことがない人がですよ。今回はスティーヴキングの「書くことについて」まで読んじゃった。しかも、サンフランシスコに行く時の空港の小さな本棚から見つけて買った。
みずたまのチワワもすごい世界だが、林明子さんが絵を描いている「いってらっしゃいいってきます」は格別だ。これは僕が欲しくて、この前長崎書店で買った。藤原マキさんはつげ義春さんの奥さん。この絵本は京都で買った。
しばらくすると、アオが寝て、フーも弦も寝たので、図書館へ行った。なんか普段読んだことないような本を借りようと思って、伊坂幸太郎氏の「死神と精度」(これしか置いてなかった)、桐野夏生「グロテスク」、中島らも「バンドオブザナイト」を借りてみた。とにかく鬱だし、ベッドで寝てるだけなので、読みやすそうなものを。そう思ってみると、僕は本当に小説なんて読んだことないな。でも、何かそちらのほうへ行くわけじゃないんだけど「存在」を今回、初めて知った。もちろん僕は「隅田川のエジソン」という小説を2008年に、勢いで書いたのだけど、あの時は、まだよく分からなかった。というか、僕の技術も全くだめだったし。まあ、なんでも試してみなければわからない。いろいろ見てみて、試してみて、自分に一番合った方法をやればいいのだ。とは分かっているけど、僕は肩書きすら定まっていないにもかかわらず、いやむしろそれだからこそなのか、なかなか変化できない。
そういう意味では今回の「幻年時代」は、本当に読者の大半は去ってしまうんじゃないかと思われるほどの変化だったかもしれない。もちろん、僕としてはしっかりと繋がりを持った仕事の一つだが、それにしても大丈夫か?と書いた本人が迷ってしまっている。書いた本についてはむしろ迷いはないが、一体、おれ、これからどこへ行くのだろうかという、全く先の読めない展開で、小説の主人であれば、楽しめるだろうが、僕は完全に見失っている。それと、躁鬱の波はもちろんいつも通り同期してくる。なんらかの窮屈な精神を感じ取ると、いつも鬱の霧がじわじわやってくる。やっぱり変化するのって怖いもんなあ。でもそこに留まり続けるのも気持ち悪い。そんな中出した一手が「幻年時代」のはずだ。
深夜、伊坂幸太郎氏の「死神の精度」を読んでいたら、何かぐいっと上がってくるものがあった。おっ、と思って、静かに布団の上で空想すると、いろいろと浮かんできた。いいぞ、いいぞ、と思いながら、また本を開き、読んでいると、またちょこっと浮かんでくる。おっ、とか言っているもんだから、弦の授乳中のフーが、こちらを見て「もしや?」と。「うん、なんか、来てるかも、もぞもぞが、、」とそこで、書くべきという次のイメージが三つ集まってきた。ということで、そこでメモ。しかし、今回は二週間かかった。そのうち1週間はサンフランシスコでそれなりに普通に仕事はしていたので、実質は1週間といえばそうか。。しかし、このサイクルは確実に寿命を縮めている感がある。仕方ないけど。自然に従うしかない。
今回、躁の坂口恭平から、鬱の坂口恭平へ手紙を書いていたが(朝吹真理子さんがDOMMUNEで読んでくれて、僕マジ泣きしてました。。しかも、僕の親父まで涙が出てきたよ、、と電話があった。ありがと涙)、これが全く効かなかった。朝吹真理子さんが読んだら効いたけど笑、それを無音の文字で僕が読んでも全く効果がなかった。。焦った。ここまで二人は人格が違う。というか、人間そのものが違う。同じ人間と思って油断していたら、やけどする。ということで、また躁の坂口恭平と、鬱の坂口恭平の間に、躁と鬱のハーフみたいな存在を作らないと、いや、作るんじゃなく、もうすでにその人も存在している(今は、結構それ近いはず)(多分)駄目で、そのハーフに書いてもらわないといけないことが分かってきた。。。。ということで、今度は躁鬱ハーフの坂口恭平から、躁の坂口恭平と、鬱の坂口恭平それぞれに手紙を書いてもらおう。もう自分自身の中でクレオール言語みたいなものが発生してきそうなほど、躁の坂口恭平と鬱の坂口恭平では複雑な意思疎通が不可能であることが分かってきた。もっと、その二つを渡すものは橋なんかではなく、虹なんかではなく、そんな二つの言語圏には存在しない新しい複雑な微妙な塩梅などをきちんと説明できるはずの、ハーフであるあなたが、いや、僕が、やらなくてはいけないのだ。そして、それをまた朝吹真理子さんに読んでもらうのだ!