今日は朝からフーが鍼治療に行くので、弦を連れて町へ繰り出す。熊本市現代美術館の子どもコーナーでずっと遊ぶ。昼過ぎに焼き肉屋彩炉へ。家族四人で焼き肉ランチ。その後、アオと弦の二人の乗せて自転車でゲームセンターへ。エアホッケーに勤しむ。つまり、今日は家族サービスデー。夜はゆっくり。10時頃、モデルの山下翔平が友人の洋平を連れてきたので、みんなで馬刺を食べに、菅乃屋へ。その後、やけのはらがDJをするというのでNAVAROで少しだけ踊って家に帰って来た。明日は卒園式。ポパイの絵を仕上げる。新連載「ポパイ大学」は4月10日売りのポパイ新刊号から。お楽しみに。また毎月人に出会う日々が始まる。
ホテルフランスをチェックアウトして、コジュヨンと一緒にまた別の市場へ。しばらく市場の路地を抜けた後、市場場内の食堂に入って、プルコギを注文。最後の晩餐を食べて、川沿いを歩いて、タクシーで空港。福岡空港へ。今度は六月に空き家調査のために再び光州へ行くことになった。これから忙しくなってくる。しかも、いくつもの案件が同時進行している。僕の場合はこうやって仕事がいくつか同時進行しているほうが精神の安定には繋がるのだが、どれも緊張感のある仕事なので、うまく気を抜きながら進めていきたい。博多駅で梅ヶ枝餅をお土産に。帰宅し、家族とハグし、寝る。疲れた。でも、これからの自分の未来が少し感じられた充実した二泊三日の韓国の旅であった。
ゆっくり起きて、ホテルフランスの朝食をコジュヨンと食べながら、どうするか考える。その後、現地視察。僕の作品の舞台になるのは、アジア芸術劇場も入っている、アジア創造センターという巨大な施設(1980年に光州革命が起きた都庁の地下)にある広大な屋上庭園になった。かなり目立つところである。僕はギリギリに選考メンバーに選ばれたのだが、どうやらとんでもない仕事に関わることになりそうだ。武者震いした。今は不安はない。どうにかなるさ、やってみようじゃないかと思えている。それは数年前からコジュヨンと取り組んできた韓国での仕事が基盤になっている。こうやって少しずつ進めてきたのだな、と僕は自分を振り返った。現地視察が済んだあとはBJの案内で近くの市場へ。そこで光州革命を体験した市場のおばちゃんと話をして心を打たれる。僕にできることは公式に、行政的に対応するのではなく、こうやって直接人々と触れ、とにかく時間を過ごすことかもしれないと思った。光州の芸術家ともコンタクトをとってみたい。その後、なぜか一軒だけ室内で煙草が吸えるカフェを見つけて(韓国では法律違反)、そこでチャイラテを飲みながら、プレゼン資料を作る。午後5時から昨日の五人で会議。僕とコジュヨンの二人でモバイルハウスヴィレッジのプレゼンテーションをする。審査するキムソンヒとマックスの顔色がぐっと変わり、素晴らしいと感嘆してくれた。企画は気が抜けるほど速攻で通過した。僕の作品は劇場から飛び出て、都市、社会と直接関わらないといけないプロジェクトだったので、どうかなと思ったが、逆にその大変なものを一緒に協力して乗り越えていこうとアツくなってくれた。帰りに、芸術家であり、今回アジア芸術劇場のスタッフとして働くことになっていたボピョンという若者が僕の韓国語版独立国家のつくりかたを持って来てサインしてくれと言って来た。こうやって僕のテキストが広がっていっていることを実感するのはとても励みになる。今日は打ち上げ。僕とコジュヨンとBJとマックスの四人で焼き肉屋へ。予算もかなり大幅な額になりそうで、少し緊張するが、ちゃんとこの大仕事を成し遂げてみたい。自分の力を見くびることなく、もっと大きく育てていきたい。今は素直にそう思う。僕の可能性は僕ではなく、他者がいつも見つけてくれる。コジュヨン、BJ、マックスという大きなパートナーがいるので今回も絶対に成功すると確信している。挑戦すれば、最高の知性を持った仲間が集まってくる。恐れずにやるのみである。夢を持ち、大きく足を踏み入れる。それこそが、人を集め、勇気づける大きな動力になるのだ。それは恐怖心を捨てた僕の仕事なのだろう。僕は人々と一緒に働くために、生きていきたい。
朝八時熊本駅へ。福岡空港まで。ソウル経由で韓国・光州市へ。今年の9月4日に開館するアジア最大の劇場である、国立アジア芸術劇場グランドオープンを記念して開催されるフェスティバルへの参加を打診されており、そのための現地視察&企画プレゼンテーション。まだ参加することが確定したわけではないが、もしも参加したならば、僕がこれまでやってきたどの仕事よりも大きな仕事になりそうだ。光州市は、1980年5月18日に学生による民主化運動「光州革命」が起き、多数の学生が軍事政権による銃弾で殺された事件の場である。その後、光州市は韓国政府から完全に放置され、経済的制裁を受け、今は薄暗い町になっていた。希望があまり見えにくいところである。そこに世界中の芸術が集結するためのアジア最大の劇場ができるのである。これは自殺した前大統領(民主化運動を行っていた)の夢でもあった。しかし、今は政党が変わり、この芸術劇場への予算もカットされはじめているという。韓国の矛盾の縮図が凝縮されている町と言ってもいいだろう。そこに世界の名だたる映画監督、舞台監督、劇作家たちが招聘されフェスティバルが開催されるのだ。そこになぜか僕が選ばれている。それには昨年EUのノーベル賞と呼ばれるとんでもない賞を受賞した芸術監督フリーライセンの影響がある。僕は2012年、当時ベルリンフェストシュピーレ劇場の芸術監督だったフリーライセンから奇跡的に仕事ぶりを発見され、80平米のこれまで作った中でも最大のモバイルハウスを作った。それがきっかけで僕のパフォーマンス関係の欧州での活動がはじまったのだ。今の雑誌スミソニアンもその流れが静かに伝わっていったような感覚がある。日本では自分がどんなに動いてもなかなか伝わっていかないというジレンマが少なくともあるが、世界中を視野に入れれば、ちゃんと行動をしたら、それだけ伝わっていく。局地的に見ずに、全体で判断すべきだと励まされた。僕は着いて早々、今回のモバイルハウスヴィレッジのプロデューサーであるコジュヨン(独立国家のつくりかた韓国語版の翻訳者)とアジア芸術劇場スタッフでありコジュヨンの長年の親友であるBJと三人で町を散策。光州にはまだ古い路地が残っていて、なんだかほっとした。そこでいろんなインスピレ—ションを得た。夕方、フリーライセンの右腕的存在であり、多摩川文明にも案内した盟友マックスと、アジア芸術劇場芸術監督キムソンヒと五人でディナー。作品について議論する。明日、プレゼンテーションをすることに。しっかりと企画を通したい。また新しい仕事がはじまった。
昨日、新政府内閣総理大臣である僕と熊本県副知事小野泰輔との対談が長崎次郎書店の二階喫茶室にて開催された。小野さんとは2011年6月頃からの付き合いだが、公の場で対談するのは初めて。いつも、料亭Kazokuで酒を吞む仲間であるのでいつも通りに好き勝手喋らせてもらった。このように熊本では、文学と政治と書店がなんの隔たりもなく連なっている。荒尾市長山下慶一郎氏からも0円生活圏を依頼されているし、これからもっと面白くなるのではないか。僕は東京ではただのキチガイ扱いであるが、熊本では「幻年時代」が熊日出版文化賞を受賞し、「徘徊タクシー」が熊日文学賞の候補にあがるなど、僕のことを文の人として認めてくれている。かつ、小野さんとはじめた福島0円キャンプスクールもちゃんと認知されており、社会思想家としても認識されていると自覚している。町を歩いているとそのような敬意を感じるのだ。それは大変重要なことだと思う。僕はまず熊本を変えていくつもりだ。その小さな点の変質が実現したとき、世界中のあらゆる場所での変革が可能になるはずだ。明日からは韓国光州市に行く。これも0円生活圏、モバイルハウスヴィレッジの依頼。こうやって、今年は精神も落ち着いて来たことだし、ようやく現行の政治の中でも少しずつ実践することができるようになってきている。大きな変化だ。僕が躁鬱とより上手に付き合うようになってこれたことが理由の一つであると思っている。創造することよりも、治療する、ケアするということに最近の僕の関心は向かっている。族長になる、つまり首長という社会の長というよりも、家長に近いのかもしれない。僕は家族思想家なのではないかとふと思った。社会は変えようとするが、なぜか人は家族とは不変のものだと思い込んでいる。しかし、家族こそ変えなくてならないのだ。新しい家族の在り方。それを示すのが僕の仕事である。お昼に、フーとゲンを車に乗せて、渡辺京二さんのところへ。そして四人で加納鍼灸院に。先生に心臓の動きが落ち着いてきたとの好評価。躁鬱病とは病ではなく、心臓の動きによる体の変化であると先生は言う。言われてみると、確かにそうだと僕は自分の体と照らし合わせて考えた。今は薬も完全にやめて実験してみている。調子はいい。とにかく落ち着いている。今日からフーも針治療を受けることに。彼女の場合はアトピー。京二さんの体調もよくなってきている。その後、また京二さんの家へ行き、娘さんのリサさんが出してくれたお昼御飯を食べる。渡辺京二さんとリサさんも僕にとっては坂口家の家族の一員のような気がしている。家族の拡張とはいかなるものか。僕はずっと考えている。夜はポパイの連載原稿と絵を描く。明日から韓国。仕事はとにかくどんどん生まれる。大変だが、やりがいのある人生だ。気楽に体を休めながら、それでも着実に毎日突き進めていこうと思う。
気付いたら、十日ほど日記を書くのを忘れていた。鬱になるともちろん書けないのだが、むしろ躁な状態といってもいいはずなのに、完全に忘れているのはとても珍しいこと。というか、こんなこと初めてなのではないか。変な気分だ。なんでも書き残したい、書き残さなくてはと思っていたのに、今は、むしろ、目の前の日々をじっくり味わおうという感覚になっている。それで味わっていると、書くことなんかすっかりと忘れてしまっている。ああ、躁鬱が穏やかになったら、僕は作品を作らなくなるのだろうなと思った。そして、それなら、それでもいいのかもしれないと思うようになった。僕の本当の仕事は書くことではないのかもしれない。とも時々思うようになった。不思議な体験である。最近の僕のこの心境の変化は、自分でもびっくりしている。心がざわつかなくなった。大人になったということなのか。よく分からん。
熊本のオジキからメール。
新政府内閣総理大臣
坂口 恭平 様
約束の1週間が、流水の如く過ぎ、自分なりに熊楠妖怪について
調べたものの今だ正体が分からず、迷宮に留まっています。
確かに希代の天才をたかが私の脳力で理解しようと思うこと自体無謀です。
ただ、中途半端なまま論ずるわけにはいきませんので、この脆弱な脳しかもたぬ
私に今しばらく時間をください。
とにかく熊楠は迷宮だ。しかし、だからこそやりがいがあるわけで、諦めなければいつか実現する。そう思っている。オンサンデーズから熊楠の関連本が送られて来たので、これをオジキのところに持って行こうと思っている。
今日は、朝、家で一人で原稿を書き、午後からはゲンと遊んでいた。その後、鶴屋の花会に顔を出したら、荒尾市長の山下慶一郎氏がたまたまいて「四月から0円生活圏、よろしくおねがいします!」と言われた。これはとても楽しみになる。いよいよ現政府の政治の中でも僕が仕事が実現する。0円生活圏を実際に作ることができたら、それだけで奇跡なので、10戸でもいいから作りたいと思う。実例を作ること。人に伝えるにはこれこそが一番重要なのである。プランではなく、実例。僕にできるのはそれだ。
朝起きて、アオを幼稚園バスに乗せて、大地で原稿。新作「家族の哲学」。今日は15枚書いて、これで201枚。その後、橙書店で他の原稿も書く。オジキに電話。映画「熊楠」の件について。三年前、福島〜熊本間のスカイマークの航路を就航させつつ、0円フライトにしたいので3億円くださいと言いにいったときは、ふざけるな、と叱責されたが、今回はちゃんと話を聞いてもらえそうだ。僕の原稿をその後、読んでくれたらしい。翼の王国は毎回読んでくれているらしい。言葉によって少しずつ、伝わったのかもしれない。そろそろお前にお願いしたい仕事があると僕の師匠であるサンワ工務店の山野さんを通じて、聞いていたのだが、それが今回の映画「熊楠」に変身しそうだ。楽しみである。リトルモアの孫家邦社長にも電話する。今回の初映画プロデュース業をやるにあたって、相談役を引き受けてもらうことにした。孫さんは僕の第一作目の作品集「0円ハウス」の出版を決めてくれた恩人である。後にお前はすごいやつになる。だから出版する。この本はそんなに今は売れないだろうが、いつかお前がすごいやつになったら売れるだろう。だから初期投資だ、と言ってくれたのだ。今回の映画「熊楠」に関しても、直接的には関わらないが、なんでも相談に乗ると言ってくれた。孫さんも映画「熊楠」には特別な思い入れがある。「熊楠が完成したら、みんなハッピーになるよ。頑張れ」と孫さんは言った。さて、がんばろう。夜は家でたこ焼きパーティー。その後、家で福島0円キャンプスクールの資金集めのための絵を描きはじめたら、完成する前に一枚売れた。十万円で。十枚売って百万円を集める予定なので、幸先良いスタート。みんながお金を大事に回してくれようとしている。こちらも精一杯がんばってみたい。その後、ヨネがプリントしてくれた熊楠の脚本を持って帰る。オジキと明日会うことになったので、今日は早く寝る。なんだかすごいことがどんどん起きている。楽しみじゃないか。
朝起きて、大地で原稿。新作「家族の哲学」の執筆。186枚まで伸ばす。その後、加納鍼灸院へ。「恭平ちゃん、絶好調だねー」と加納さんに言われて嬉しい。躁鬱の調子を鍼で調整するという新しい動き。フーも連れていこうと思った。渡辺京二さんはぎっくり腰で行けなかった。加納さんが言うには、ぎっくり腰は心臓に負担がかかっている証拠とのこと。医術について教えてを乞う。漢方よりも和漢薬を調べなさいとお告げ。PAVAOに行き、地獄温泉のおっちゃんと飲み、マッサージ師のゆきちゃんのクローブのアロマのプレゼントをあげ、またカリガリの磯さんとデート。物件を見る。そして、家に帰ってくる。いろんな仕事がまた舞い込んでくる。小学館から来月缶詰にするので原稿をまとめて書いてくださいとの依頼。夜九時に寝て深夜起きたら、たくさんのいのちの電話がかかっていたので折り返す。昨年の自殺者数は25000人にまで減っていた。まだまだやるぞいのちの電話。僕はいつか自殺者0にしたいという夢がまだ諦めきれないようだ。
朝起きて、大地で原稿。新作「家族の哲学」の執筆を再開。十枚をすぐに書き終わる。その後、橙書店へ行き、書き続けて176枚を突破。第一章がようやく終わった。一体、何章まで行くのだろうか。不思議な小説のような、自伝のような、家族物語のような変なものが進行している。その後、カリガリの元オーナー磯さんとデート。物件をいろいろと眺める。喫茶店啄木鳥へ。啄木鳥のオーナーと話をする。山本監督とまたメールでやり取り。四月に中国杭州に僕一人で行くことにした。深夜、月刊スピリッツの連載原稿。書き終わり送信。
朝起きて、福山ニューキャッスルの朝食を食べて、尾道へ。えっちゃんとテンドウと待ち合わせ。車で尾道の向かいにある向島へ。まずはUSHIO CHOCOLATLへ。ここは手作りのショコラが売ってるお店。フーにお土産を購入。その後、さっちゃんの家へ。みんなで砂浜へ。子どもたちと漂流物を拾っていたら、気持ちよすぎて、幸せすぎて、僕は砂浜を見ているふりをしながら、感動して泣いてしまっていた。テンドウとうーたん、えっちゃんと僕の四人で。さっちゃんの家に帰ると、夫のドリさんも来ていて、みんなで御飯を食べる。竃で炊いた御飯が美味しい。その後、もう一度、テンドウと二人で海へ行く。その後、尾道へ戻って来て、いっとく大将の山根こうきとつるけんたろうと会う。白ワイン飲みながら、どうでもいいことを延々と話していた。その後、大将の新しい店「YAMANEKO MILL」を覗いて、尾道ラーメン「たに」へ行き、夕食を食べて、新幹線の中でこれを書き記す。尾道の面々と出会ったのは、僕が十九歳のとき。あれから十八年が経とうとしている。今でも当時のみんなと仲良くできているのは凄いことだなあと思う。僕はただの旅人であって、台風にぶつかってしまって、尾道で足止めを喰らっていた。そのときに大将に出会い、居候させてもらった。それだけの出会いなのだが、僕はなぜ人と人が出会うのか、今はそのことが不思議で夢中である。
朝十時に家を出て、熊本駅から新幹線で福山駅へ。鞆の津ミュージアムのクシノくんと久々に再会し、まずは鞆の浦へ。お好み焼きの野村へ行くと、おばちゃんたちで大賑わい。おばちゃん三人組と話が盛り上がっていると、その一人からお好み焼きを半分わけてもらった。びっくりして、いろいろと話し込む。これこそ交易の瞬間である。すると、おばちゃんたちが家に来なさいと言うので、三人のうちの一人塩出さんのお宅へ。築八十年の町家。熊本の家の構造ともよく似ていた。蜜柑、ヨックモックのクッキーなどを食べながら、コーヒー飲みながら、馬鹿笑いをして話してたら、ああ、これでもう死んでもいいなとわけのわからない多幸感に包まれる。みんなが小学校の同級生になっていた。僕はバンクーバーの仲間を紹介した。不思議な縁である。その後、平賀源内の生祀と、朝鮮連絡使の対潮楼と、宮崎駿さんがポニョの発想を得るために、宿泊していた宿を遠目に見たりする。写真家の齋藤陽道とパートナーのまなみちゃんと久々の再会。午後5時からトーク。のっけからギターでライブもした。130人ほど入ってぱんぱんの満席。楽しいトークができた。二時間。その後、サイン会も。打ち上げを夜11時まで。鞆の浦は楽しかった。今度は家族で行きたい。
今日は仕事を休む。お昼は水俣フォーラムの実川さんと魚よしで特上にぎりを食べながら、4月25日に福岡で開催される水俣フォーラム主催の講演会の打ち合わせ。僕なんかが水俣フォーラムで話していいものかと思ったのだが、渡辺京二さんからの紹介であるし、断るという選択肢はない。最近、僕は断るという選択肢がない仕事が実はちょっと増えている。それだけ僕は人と関わるようになったということなのかもしれない。熊本での仲間が増えているということでもある。面白いと思えているので、その波に乗っている。自分で何も決めつけず、楽しいなら、面白いなら、好奇心が持てるならやってみる。そんな超単純な方法論でここ最近、体を動かしている。それで何のひっかかりもない。その後、家に帰り、僕とフーとアオと弦の四人で伝統工芸館へ。天草の陶芸家、金沢弥和さんの白磁展が開催されていたので、覗きにいく。フーがかわいい角皿を買った。器は知り合いの人のものを買うのが一番楽しい。一緒にいるという感覚がある。裏庭でアオとバトミントン。疲れて家に帰ってくる。映画「熊楠」の台詞起こし原稿を送られて来たので、中国語翻訳担当の桐田さんに転送。プロットは英語版のみで行くことに。中央公論新社から仕事の依頼のようなメール。文藝春秋とモンゴル行きについてやり取り。前向きな展開。さらに詳細を詰めて行くことに。仕事がすごいことになっているが、今のところ、体はセーブしながらできているような気がする。でも勘違いも多々あるので、フーに聞きながら。チェルフィッチュは観たかったけど、宮崎行はやめときなさいと言われた。フーには従うことにする。福岡での講演会の依頼がまた。
今日も朝からアオを送って、喫茶店「大地」へ。新作「家族の哲学」10枚二時間で書き終わる。これで160枚突破。その後、ドライブする。Sonarへ行き、髪を切る。切り終わったあと、渡辺京二さんのお宅へ。車に乗せて、僕が生まれ育った十禅寺周辺を案内する。一緒に日吉神社へお参りして宮司の話に耳を傾ける。裏の白川河川敷の椋の並木道を眺める。久々に来て涙が出そうになった。僕と京二さん二人で、ゆっくりと時間を過ごす。その後、加納鍼灸院へ。僕はカルテを見たら平成九年以来だったので十八年ぶりの加納さんによる鍼灸治療。躁鬱は腰と首の凝りから来ていることが多いと新しい情報を聞く。超気持ちいい。その後、京二さんを家に送ったあと、実家へ。祖母、叔父のあきちゃん、両親、僕、フー、アオ、弦の八人で夕食を食べる。夜9時からはPAVAOへ。熊大の文化人類学者ケイちゃんと飲み会。ケニアに行かないかとのお誘い。さらにショージさんから捕鯨船に乗らないかとにお誘い。いろんなことが動いている。楽しみだ。今年は日本だけでなく、世界中へ行くことになりそうだ。
今日も「大地」へ行き、朝から新作「家族の哲学」の原稿10枚。150枚突破。順調に進んでいる。店内ではクリスマスローズが咲いていた。文藝春秋に提出していたモンゴル旅行の企画案の反応が良い。もしかしたらモンゴルに行けるかもしれない。こりゃあ楽しみだ。今年はモンゴルの遊牧民との対話からはじめる「土地所有論」を書きたいと思っている。年内脱稿を目指しているが、うまくいくか。さらに東京書籍からツイートから抜粋したアフォリズム集「発光」が出版されることになった。今年11月出版予定で進んでいる。こちらも3年越しの実現へ向かっている。僕はどれも時間がかかるが、それでも絶対に諦めないので、いつか実現することになる。その後、橙書店へ行き、原稿をしばらく書いたあと、「めだかや」でユキちゃんにタイマッサージを受ける。超気持ちいい。西荻の「のらぼう」まきおちゃんと久々にメールでやり取りし、3月11日に御飯を食べにいくことに。もう何年ぶりだろう。楽しみだ。映画「熊楠」の中国訳と英語訳の件、うまくいくことになった。トントン拍子で進んでいる。四月頃に中国杭州へ行くことに。橙書店でクートラスのポストカードブックを購入していたので、それをフーにプレゼント。本を贈るのにはまっている。熊本県知事蒲島さんより「ズームイン、服!」献本のお礼の手紙がマガジンハウスに届いた。夜は、いのちの電話を少し。
今日も朝からアオを幼稚園に送ってそのまま珈琲散歩路「大地」へ。新作「家族の哲学」執筆。二時間半で十枚書き上げる。これで140枚突破。3月いっぱいで初稿脱稿の計画だが、今のところ順調なペース。躁になっても自分の得意なことができているのであれば、実は穏やかに仕事を進めることができる。躁転してみな暴れ始めるのは、自分にあった仕事を見つけようとしているからである。見つかればこっちのもんだ。あとは一生やり続けるだけだ。飽きたら次を見つける。躁鬱人は一貫性など気にしない方がいい。一貫性という言葉は、健常者が作り出した矛盾に蓋をする便利な言葉だ。躁鬱人は使わない方がいい。韓国の光州広域市Gwangjuで仕事をしている親友Maxから、今年の9月にGwangjuに0円生活圏を作ってほしいとの依頼を受ける。何度も来ていたこの韓国からのこの依頼がいよいよ実現しそうだ。日本よりも先に韓国で0円生活圏を。快諾した。急遽、3月16日から二泊三日でリサーチに行くことに。いろんなことが動き始めて来た。昨年、EU圏のノーベル賞と言われているエラスムス賞を受賞したフリーライセンの受賞のお祝いとして僕が書いた原稿も気に入ったらしく、追筆の依頼。少しずつ英語圏で僕のテキストを求められるようになってきた。これはすごいことである。6月の「独立国家のつくりかた英語版」出版、そして秋の雑誌「スミソニアン」での僕の特集が発表されたら、今までの著作の翻訳も進むだろう。
その後、橙書店へ。そこで原稿40枚書く。その後、家に帰る。今日は弟子、坂口亭タイガースの壮行会。一度、京都に戻るとのこと。金貯めて熊本戻ってきますということに。僕とよね、ウッシーとタイガース夫婦、フー、アオ、弦の八人でフーの料理を食べる。Maxに「Utopia and Wikogenia」というタイトルの原稿も送る。その後、すぐに眠くなる。
朝六時に起床。朝から読書。その後、家族を音楽かけて起こし、アオを幼稚園送迎バスにのっけて、僕は歩いて珈琲散歩路「大地」へ。珈琲飲みながら新作「家族の哲学」を。二時間で10枚書き終わり、これで累計130枚。その後、一度、家に帰り、今度は自転車に乗って橙書店へ。途中で渡辺京二さんがやってきた。僕は雑誌「ろびんそん」の判型のアイデアがあったので、それを見せる。ムツゴロウさんの本(朝日新聞社)の正方形に近い判型で文字は三段組。かわいい。これでいってみようかなと思った。京二さんから「石牟礼道子さんの歌に曲をつけて演奏会をやってみらんか?」ととんでもない依頼を受ける。しかもその祭典の企画をやってほしいとのこと。しかと快諾。五月にやろうと決まった。僕と伊藤比呂美さんと高谷秀志さんの三人でそれぞれ石牟礼道子文学を音楽に昇華させるという試み。京二さんもどんどんアイデアが湧いて出て来ているようだ。僕はそれに全て付いて行ってみようと思っている。京二さんと話している間にマガジンハウスポパイ編集長の木下さんからメールが。「重版やっと決まりました!」とのこと。新作「ズームイン、服!」発売から二週間で8000部をしっかりと売り切った。すごいことだ。さらに3000部増刷で累計11000部。幸先良いスタート。現実脱出論よりも実売初速はいいかもしれない。この新作は実のところ、編集部自体そこまで期待していなかったっぽいから、してやったりである。すぐに3刷へ向かいたい。新作はうまくやれば3万部は売れるのではないかと思っている。こうやって自分で自腹切ってちゃんと書店回りなどの営業をやれば、大抵の本はちゃんと売れるのである。売れないってことは愛情込めて売っていないからである。それだけだ。それなのに人は出版不況などと分かっていないのに口にする。編集部と営業部と著者が三位一体となって闊歩すれば全てうまくいく。もちろん面白い本を書いていることが前提だが。広告費0円でやっている一人電通作業。今回も無事に版元に損をさせること一切なく、儲けに転じさせることができた。素晴らしいことだ。その後、原稿を90枚も書いた。本日合計100枚である。ここまで書いたのは久しぶりだ。毎日、相当量の原稿を書いているので、基礎体力がついてきた。50枚くらい朝飯前だ。繊細に10枚だけ小説に集中し、あとは観念の赴くままに原稿を推敲もせず書いていく。この二つの路線でいいかもしれない。このまま突き進んでみよう。その後、文藝春秋CREAに旅行企画案を提出。担当の山本さんとは実は書き下ろし単行本として「土地は誰のものでもない」を年内に刊行しようと目論んでいる。そのためのまずきっかけとしてモンゴルに旅行に行きたい。経費が出るようにいろんな別企画を立ち上げているわけだ。モンゴルは温泉もスパもあって楽しそうだ。セレブのための旅行案まで提出してみた。どうなるか。モンゴル人のモルンにも連絡。彼からの電話で僕の土地所有論が進展した。冒頭は彼との対話からはじめようと思っている。こうやって少しずつ本の形が見えてくる。10月か11月刊行の目標を立て、今、少しずつ構成を立てている。11月に開催する予定の石牟礼大学に関しても議論。河出書房から執筆依頼。中央公論社から執筆依頼。筑摩書房から原稿バッチリとの連絡。来年の執筆計画も同時に立てなければ。しかし、今年はすごい出版ラッシュになりそうだ。2月「ズームイン、服!」(マガジンハウス)、4月2ndアルバム「新しい花」(土曜社)、6月「独立国家のつくりかた英語版」(土曜社)、7月「躁鬱日記2(仮題)」(講談社)まで決まっている。さらに書き下ろしで「家族の哲学」(編集・九龍ジョー、現在130枚)、短編集「異色住」(筑摩書房、現在50枚)その後「舟鼠」「土地は誰のものでもない」と続く。さらには東京書籍からはtwitterから抜き出したアフォリズム集「発光」が出版される予定。これだけで9冊。この9冊で今年は限界だろう。ちゃんと完成させたい。僕はただただ書きたい。書き続けたい。あとは版元と編集者に任せるのみだ。僕の仕事はただ書くこと。できるだけ無償で放出したい。3月下旬に行く、オーストリアとドイツの旅行調査。4月は中国遠征、5月は石牟礼道子と音楽、6月モンゴル取材、10月雑誌「ろびんそん」刊行開始、と今年もしっかりクレイジーになってきた。でもこれくらいの混沌が僕にとっては平穏なのである。
朝六時に起床。朝から原稿。朝九時に精神病院へ。毎月恒例の定期診断。主治医に、デパケンを半分にして、その代わり、クローブを摂取してみたいと伝える。主治医としては反対、でも友人としては賛成という不思議な日本人的感覚によって、結論は薬が半分に減った笑。主治医も「結局、躁鬱病になぜリチウムやデパケンが効くのか、自分も分からない」と告白してくれて、それだったら、クローブがどれくらい効くのか一度、試してみましょうということに。躁鬱病患者はこうして西洋薬によって、頭が撹乱されている事実もある。でもそれ以外に対処のしようがない。だから先生たちも仕方なく処方しているらしい、、、が、これはだいぶ怪しい。というわけで、僕は自分の医師となることを決めた。自分で生薬をもとに試してみる。完全に我流だが、それでいってみようと思った。家に帰って来て、橙書店へ。原稿は午後3時までで50枚書き終わる。最近のペース狂ってる。フーとゲンが橙書店に遊びにきたので、一緒にスイーツを食べる。その後、また一人で原稿仕事に戻る。新作「家族の哲学」10枚。これで120枚突破。家に帰ってくる。その後、珈琲散歩路「大地」へ行き、筑摩書房「異色住」収録予定の短編小説「(株)躁鬱」を10枚。今日は合計70枚書いた。帰って来たら、山本政志監督からプロットの原稿が贈られてくる。すぐに英語訳をベルリンに住むアキちゃんに転送し依頼、さらに中国に住む、桐ちゃんに中国語訳を依頼。とにかく三月中に全ての資料を揃えて、中国行の予定を作りたい。韓国にいるMaxという演劇ディレクターから0円生活圏をガンジュに作らないかとの依頼。なんだか世界各地でいろんなことが巻き起こってる。すごいことだ。夜は石牟礼大学のための打ち合わせ。
昼からブリュッセルからやってきた中国とインドネシアの混血ガール、シンタと家族で魚よりへ。美味しい寿司を食べて幸せ。その後、シンタと辰頭温泉いって幸せ。その後、ゆきちゃんのタイマッサージを三時間近く受けて、もう絶頂。その後、シンタと再会し、PAVAOでおいしい御飯たべて、体の力がぬけきって、至福すぎて死にそうになる。素晴らしい場所、人びと、御飯、そして愛。なんだか頭がおかしくなってきた。その後、シュマンダンフィニで美味しすぎるクレームブリュレを食べて、シンタと別れた。素敵な夜。
今日は一日、家でぼうっとしてた。中沢新一さんに電話して「熊楠をどうにかやっぱり復活させたいので、映画プロデューサーになることにしました」と伝えた。すると「なかなか難しいぞー」としっかりと怪しまれたので、燃えた。石川直樹から「今月号のすばる読め、お前が最近興味をもっている倭人のこと中沢新一さんが講演してるぞ」とのこと。動きはじめると、いろんなことがリンクしてくる。関係妄想坂口恭平。今日はとにかくゆっくり休みなさい。といいつつ、結局、ずっと家でネットしてた。王様のブランチで文芸書ランキング第2位の快挙!というわけで、新作「ズームイン、服!」がすごい感じで売れている。ありがたいかぎり。連載ものだから、あんまり期待していなかったのだけど、逆に三年間も注ぎ込んだ情熱がカプセルに圧縮されているので、熱が伝わっている感じである。嬉しい。家族は外出してったので、一人で家でさびしい思い。肌恋しくなる。誰でもいいから、肌をこすりたくなる。ああいかん、これはいつものあれだ。躁の春だ。フーに電話して帰って来てもらって、肌をすりすりする。危ない危ない。もう、寂しくなったりプロデューサーになったり忙しい。なにをやっているのか我は。イソップのマラケシュのフレグランスをもらった。この匂い、なにこれ超きもちいいーと思ってたら、やっぱりクローブ入ってて、びびった。もう夜は何も考えず、ただひたすらフーと子どもらと肌をすりすりしてた。ずっとこうしてたいと思った。まるで夏休みみたいだった。
朝から原稿。昼から橙書店で原稿。新作「家族の哲学」をば。110枚。ようやく再出発。しばらく書かないと、なかなか戻れない。でもそれでも焦らなくなった。そんなに急いで書かなくていいじゃないかと思えるようになった。それくらいがちょうどいい。それでなくても、書きまくっているのだから。それにしても僕の死にたい衝動は、後に今のようなとんでもない「生きたい」エネルギーに変わるのだから、興味ぶかい。生きすぎて逝っちゃいそうである。坂口恭平ったらおかしな子。夕方まで書いて家に帰ってくる。アオが早く帰ってこいって言うもんだから。家に帰って来たら、風邪っぽい。体がだるい。何年ぶりかの風邪。フーは「おーだいぶんフツーの人間になってきたね、いいよいいよ、たまには風邪ひかないと。あなたは馬鹿は風邪ひかないを地でいってたからねえ。おめでと!」と吞気な様子。というわけで御飯を食べたら、そのまま書斎に布団を敷いて寝てた。すると、中国で日本文学を教えている大学教授であるキリちゃんという方から電話が。もしもアリババのボスに会うために杭州へいくときは、杭州近くに住む、日本語通訳ができる中国人の友人がたくさんいるので、すぐに紹介しますとのこと。
なんだか周囲の温かい励ましを日々受け続けている坂口恭平。ほんと、お前は幸せもんやなあ。鬱のときだけはほんとお前さんいつ死ぬんかねえ、不幸なやっちゃなあと思うんやけど、鬱以外のときは基本的にお前さん幸せものやなあ。やっぱり、鬱がないと罰当りやと思う。鬱はお前さんのバランスとっとるんよ。現実の人間としてのバランスを。そうでないと、躁のときはなんでもうまくいって、回りの人もどんどん助けてくれて、すごいことにばっかりなって、お金にも困らんと、それじゃ人生幸せすぎて、たぶん退屈するよ。あんたの状態がどんだけ素晴らしいかを、鬱は教えてくれとるんよ。だから感謝しいよ。鬱さんに。鬱のおかげやぞ、お前さんが現実の日々の粒を味わって、涙が流れるんは。鬱があっての、人びとや。感謝しいや。
はい。わたくしも今はそう思えます。私は鬱があるからこそ、躁になったとき、ただの日常生活のその一秒一秒の躍動した時間を体験することができます。そして、人と握手をしたときのその熱を、ほんとうにぽかぽかしたものとして受信することができます。赤ちゃんの視点や触感に立てるのです。それもこれも鬱さんのおかげです。私たちは鬱さんに感謝しなければいけない。しかし、鬱さんは今、どこかへ隠れてしまってます。感謝しようと思っても、言葉で伝えることができません。だから僕はその返礼を、鬱さんではなく、人びとへ贈りたいと思うのです。だから僕は常に人びとに「僕を使ってください」と伝えたいのです。
「もー、あなた、風邪引いてるんだから、一人芝居はいいよ。ゆっくり寝ときな」
フーは僕の頭をなでなでしながらそう言った。化粧をしてないフーの顔は風邪でぼんやりした僕にはとても美しく見えた。農村にいる若い娘のような健気な女であるフーには僕が世界で一番だと自負している美が備わっている。フーの美しさは美貌ではないかもしれないが、その健気な美しさは僕にとって桃源郷である。フーは自分では自分のことを美しいとは言わない。だから僕はついフーに対して「お前はなんて美しいんだ。器量がいいというわけではない、心が美しいんだ!」と叫ぶと、「器量がいいというわけではない、って言われるのはいや」と怒りだした。すれ違う坂口家。でも、いいんだ、僕は今日、風邪を引いていて、熱が出て、風邪による昂揚でただでさえ気持ちよくなっているのだから。もうなんでもいいんだ。僕はフーといちゃいちゃした。いちゃいちゃってなんでこんなに気持ちがいいのだろう。僕はいちゃいちゃしていると、弦が嫌がって、おもむろにフーのタンクトップを引っぱり、乳房に食いついた。僕もまけじと、フーのもう一方の乳房に吸い付こうと飛びついた。しかし、その瞬間、弦が左手でその乳房をつまみ、やわらかく揉み解しはじめた。やるな、お主。僕はそれでも気にしていないそぶりを見せて、口で、少しずつ弦の指をはねのけ、フーの乳房に目一杯口をくっつけ、思いきり吸い込んだ。
「痛い!もうあんたたち男二人で何してるのよ!」
フーは弦の分まで僕の頭をぶった。僕は涙が出て来た。なんで、弦に僕のフーをとられないといけないのか。弦には食事としての乳房しか提供しているつもりはない。慰めの乳房はおれのものだ。弦よ、君はレゴとでも戯れていなさい!僕はまるで父親のように弦にそう言った。いや、おれは確か父親であった。
「も、ぱぱ、何言ってるの?ばっかみたい」
アオは呆れてこちらを睨んでいる。
僕は寝たふりをした。
すると、そのまま熟睡してしまっていた。風邪がちゃんと効いていたようだ。
夢の中でフーと自由に二人きりで、好きなだけ戯れている夢を見た。個室が欲しい。僕とフーが一緒に休日とか昼間から夜まで籠ったりできるような個室が欲しい。
「モバイルハウス家で作ればいいじゃん!変な人、恭平!」
アオは呆れてこちらを睨んでいた。
これは夢なのだろうか。と思っていたら、目が醒めた。
乳房戦争が巻き起こっている。
朝9時にニュースカイホテルでトムと待ち合わせ。川沿いの取材。昼十二時まで。その後、橙書店にて渡辺京二さんと熊日の浪床さんと会う。しばらく話をして伊藤比呂美さんの家へ。雑誌「ろびんそん」への寄稿依頼と、比呂美さんからは「石牟礼大学」への参加依頼を受ける。ますます面白くなりそうだ。その後、京二さんと食事をして、橙書店へ。熊本のオジキに電話して「映画の制作費2億円を集めようとしているので協力してください」とお願いすると、「孫文が登場するなら欧州から金を集めるよりもやっぱり中国だろう」と言うので「中国ですか、、、しかし僕には繋がるライン持ってません」と言うと、「おれの親友がアリババの社長やってるから、アリババに行ってこい」とのこと。アリババって言えば、今、中国だけでなく世界で一番急成長している企業である。すごいことになってきた。さっそく山本監督に電話して、DVDを送ってくれと依頼する。リトルモアの社長、孫さんにも相談役で入ってもらうことに。熊楠をやるというと、みんな喜んでくれる。あまりにもやっかいな案件なので、誰も手をつけなかったが、僕がやるなら、応援するぞ、ということである。熊楠は命をかけて取り組む価値のある映画だ。気合い入りすぎていて、原稿も五十枚書いてしまった。なんだかいろいろとことが動いている。ちょうど上京するときにTBSの「オトナの!フェス」が開催されることがわかり、参加することに。さて、事がうごきはじめたぞ。早く中国に行きたい。本社は杭州かあ。。。。僕は大陸的な動きをしたほうが合っている。日本はすべてがちまちましすぎて、どうも落ち着かない。もっとデカいことしたい。
講談社から連絡があり、6月か7月に刊行予定の750枚の日記原稿をもとにした新作の企画が通ったとのこと。嬉しいかぎり。これで2月「ズームイン、服!」、4月新譜「新しい花」、6月「独立国家のつくりかた」(英語翻訳版)と引き続き四作品目の出版が決定。まだ2月である。今年のペースはこれまでと比べても格段に違う。書く態度、書く速度、書く内容、すべてにおいて変化している実感がある。朝から原稿を書く。躁鬱日記も第3巻に刷新する。何か新しいことがはじまるのだろう。お昼、スミソニアン博物館の雑誌「スミソニアン」の記者トムが東京からやってくる。今日と明日、また取材である。さらに二ヶ月後、カメラマンを同行させて再度日本、しかも東京と熊本の二カ所取材をするらしい。僕の取材のために数百万円を使っていることになる。僕のギャラは0円だけど、300万部発行されるわけで影響力は計り知れない。。。6月には英語版「独立国家のつくりかた」も出るわけでこれから僕の思考が世界中に広がっていくのは間違いないだろうと自分事ながらそう感じている。とうとう来るか!って感慨に浸る。これから僕の他の著作の英訳も進むだろう。早川倉庫言ったり、サンワ工務店の山野さんに会ったり、森本行ったり、ホームレスを探したりする。午後6時からは電気館へ。山本政志監督作品「水の声を聞く」(ベルリン映画祭出品作)のトークのため。パイロット版の「熊楠」も上映できた。その後、山本政志監督、僕とじゃがたらのOTOさんと三人でトーク。その後、居酒屋・湯島で打ち上げ。僕が映画「熊楠」の資金面だけのプロデューサーとして動くことを山本監督と約束。その後、ビリーズバーで吞む。新しい動きとはこのことだったのか。僕はこれから雑誌「ろびんそん」発行人、映画「熊楠」プロデューサーとして動きはじめることになる。その記念すべき日であった。また新しい日々がはじまる。