坂口 恭平 エッセイ

ホワイトアルバムのプリーズプリーズミー

昔は珈琲はインスタントが珈琲だと思っていた。紅茶だってティーバックが紅茶だと思っていた。ビートルズというのは赤盤・青盤しか無いと思っていた。それで少しずつ世界を知るようになって、珈琲は豆によっても、煎れ方によっても、立てかたによっても変化する飲み物だと気づき、紅茶はセイロンもダージリン、アッサムなど地方によっても違い、さらにファーストフラッシュとセカンドフラッシュという時期によっても違い、ビートルズにはリボルバーもホワイトアルバムもアビーロードもある事に少しずつ気づいていく。

それで僕は一筋縄ではいかない複雑さを体験して、一瞬気が遠くなりながらも快感が襲ってきてさらに「新しいもの」を知ることに力を注いでいく。

「新しいもの」というものが一体なんであるのか?ボクにとってはそれは分からない。というかどうでもいいものだ。ひとたび「新しいもの」に触れるとそれは感じてしまうものだからだ。意味はない。ただ感じてしまうのだ。

そうすることで人はどんどん複雑な方、より入り組んでいる方を目指していってしまう。いつしかそれはビートルズで言えば、サージャントペッパーズのアウトテイク集の中のポールのベースラインを見つけて、かっこいいと唸ったりするようになる。

そうこうするうちに情報が自分が枠を作っていた、この例なら「ビートルズ」を凌駕してしまう。その時自分が当初抱いていたビートルズのイメージというものが破裂してしまう。そして、次に違う新しいイメージが登場してくるかと思ったらそうはならないのである。イメージが分裂したまま宙に浮いているような状態になる。形作っていない木星のワッカみたいになる。

ボクはその状態が非常に重要に感じている。つまり自分ではなく、他人のアイデンティティが定まっていない状態。その時に自分の耳や目は今までとは違うやり方で対象物に接する。
「いつものあれか。これはこうなっているもんな。」
といういつも通りのお決まりパターンができなくなる状態。

その時に対象そのものをもう一度知覚することができる。

ホワイトアルバムを聴き続けた後に、ベイビーイッツユーを聴いた時にもう一度色んなことに気づくことができる。

しかし、それにはまだ続きがある。

それはその時にもう一度何も知らないでビートルズの一枚目のアルバム「プリーズプリーズミー」を聴いた時の自分を振り返る。そして、その当時その中のベイビーイッツユーという曲に衝撃を受けたことがとても不思議になる。

いろんな新しいことを感じてきて、ビートルズのイメージも様々に変化したにもかかわらず、あの時のファーストインスピレースションは確かに今の気持ちと同じ感覚だと思えるからだ。

知ることは理解することだと思ってきたが、知ることは「前の無意識での衝撃をもう一度意識を持って気づく」ことでもある。むしろそれかもしれない。

中学校二年生の時にビートルズをレンタルショップで借りてきた時と今のこの自分はどっちが未来なのかははっきりしない。

なんとなく、中学校二年生の直感の方が宇宙的で、もしかしたら今は時間を遡っているのではないか?と、ふと思ってしまうのである。

0円ハウス -Kyohei Sakaguchi-