坂口 恭平 エッセイ

ファンカ利休

千利休が見つけた美は誰もが半分は気づいていたのではないか、と思っている。しかしそれを「美」であると呼べたものは一人もいなかった。

古びた農家の家の土壁のひび割れを、

「なかなかいいなぁ」

とは言えても、

「美である」

とは言えないのである。ピントを合わせる作業はとても難しい。

そんなことを考えながら、今気になってしょうがないファンクミュージックについて考えている。

ファンクミュージックとはジェイムスブラウンが産み出したといわれている音楽のジャンルの一つである。その後、幾つかの黒人のバンドなどが後に続き、一つの音楽として定着した。

そしてそれに続いて今度は白人のミュージシャンにも影響を与えていく。80年代のロンドンとニューヨークで起こったニューウェーブというムーブメントにも絶大な影響を与えた。

しかし、彼らはとても演奏が下手だった。そのため黒人の高度のリズム感と演奏技術から産み出されるファンクとはすこし具合の違うニューウェーブファンクミュージックが産まれた。

その演奏の下手さがまた新しい音楽を気づかせた。

というかファンクミュージックが実は本来持っていた違う側面に光が当たることになったのだ。そのことでこのファンクミュージックというのは他の音楽ジャンルとは異なった、一言で言えそうだが、それだけではないというような複雑さをもったものとなった。その後、このジャンルからハウスやテクノなどのダンスミュージックが産み出されることになったのは、この白人による下手クソの物真似が重要な鍵となったのだ。

その下手クソは黒人のファンクミュージックを

「自分たちは技術も無いし真似できないけどなかなかいいなぁ」

とは言わず、

「黒人音楽だとか、演奏技術とか、どうでもいいけど、これは美である」

と感じたはずだ。表層の意味にとらわれず、ただ単に自分の体が直接反応したことに素直に従ったのだろう。

ここがさっきの利休と繋がる。

ごくたまに思考の向きがクルッと変わる時がある。その時はこのことが特に気になる。

0円ハウス -Kyohei Sakaguchi-