先日、白州邸に行ってきた。ここは現在は入場料を払えば自由に邸内に入れるようになっている。場所は鶴川というところで、東京の郊外、町田市にある。白州次郎、正子夫妻が暮らしていた家で、元々は古い農家だったところを二人が購入し改装して暮らしていた。
僕は農家そのままの空間には興味を持つが、それを改装した現代の家にはあまり興味がない。ほとんどの場合が民芸風になるか、変に現代的になっているかのどっちかで何とも言えなくなってしまうからである。この白州邸も始めはそうなのかなと思っていた。しかし、である。白州邸は明らかに違っていた。平屋の茅葺き屋根の家が無垢に建っていたのである。ナントカ風であるとかそんなことが吹き飛んでしまう。ただただそこにある、建っている。日本の歴史からも遠くに行こうとしているようでもあった。そして、そこで僕が感じたのは「南方熊楠」っぽいなぁということだった。雑然としているのだが、その「雑然」なさまと戯れているように感じたからだ。庭もそうだ。何一つきちっと揃えているところはない。しかし、それぞれが実に生き生きしている。縁側には縁のない畳がしかれ、大きなガラス一枚窓がずらっと並んでいる。中に入ると、昔土間だった部分を白いタイルを敷き詰めて、床暖房にしている。そこには黒ずんだ茶色の革張りソファがあり応接間として使われていたようだ。所々に骨董品が置かれている。この骨董の加減もいい。古いものに見えないときもあり、日本のものでないように見えて日本製だったり、その逆だったり、いわゆる使い方で視点を変えている。そうこうしていると農家特有の田の字の空間はゆったりとした大きな一つの空間だとじわりと分かってくる。
そして、その田の字の真ん中を通る廊下を行くと、左に部屋が見える。中を覗くとそこは、正子さんの書斎だった。広い一室空間だった居間とは対照的にそこは、ひっそりとそして天井も低めで小さいスケール感だった。中に入ると、両脇に本棚が見え、少し行くと右に折れ曲がっている。右に入ると大理石の机が掘りごたつの上にあり、前には光が入るように窓が開けられていた。
このL字になっているおかげでこの書斎が小さいスペースにもかかわらず、とてつもなく大きな印象さえ与える。本棚は一段一段が低く、文庫本より少し大きいぐらいのサイズ。それがびっしり天井まで高く並んでいる。僕は本棚の本を一冊一冊覗くように見た。
あったのだ。南方熊楠全集が。それもかなりの数。ここで一番始めに家の佇まいを見て「熊楠」っぽいと感じたことを納得した。そして、さらにこの書斎はまさにあの紀伊田辺の熊楠の書斎と同じものも感じることができる。本棚はまっすぐでない。すこし、歪んでいる。本一冊一冊もそれぞれボロボロだけど、丁寧に扱われている。畳の感じ、天井の板の貼り方、そしてそれを合わせた書斎全体の感覚。書斎はまさにその人の脳の顕在した空間だ。ふとそう思った。そして、そこは均一な空間ではなく、平らな空間ではなく、曖昧で、色んなものが拡散していて、でこぼこがあって、襞状になっていて、知識、感覚の歴史が飛びまくっている。そこにはデザインされたものはない。何か特別なものが置いてあるわけでもない。しかし、そこにはその人が吸ってきた空気がある。今まで培ってきた脳内知的空間がある。それが、L字という形にまで影響しているのだろう。そこには誰にもそれぞれあって、ひとつも同じものがない無限大の空間がある。