坂口 恭平 エッセイ

立体的な匂い

朝早く外出しようと家のドアを開けた瞬間、ある匂いが鼻の中に飛びこんできた。それは強い匂いではない。しかし、忍び足でさっそうと鼻の中に衝撃的に飛び込んできた。下をみると、アスファルトが濡れている。上を見るともうやんでいる。また来た。この匂い。そして、そのまま僕は小学校三年生の自分に舞い戻る。

アスファルトが濡れて、雨がやんで少し経った匂い。この匂いはそう強い匂いではない。しかし、僕にとっては周期的に必ず訪ねてしまう夢の中のあの風景のように「匂ってしまう」のだ。一瞬、心地よいなんとも言えない時間が過ぎる、そしてまた普通の鼻に戻る。そのような匂いが僕にはいくつかある。おそらく、他の人も持っているのではないか。しかし、このアスファルトの匂いのように記憶している匂いというのは数少ない。というかほとんどない。普段は記憶の片隅に追いやられているある匂いを嗅いだ瞬間にまた舞い降りてくる。それは、とても懐かしいものでもある。さらにそれはもうひとつ新鮮な感情をもたらす。それは、不変の場所とでも呼べばよいだろうか。懐かしさとは似ていそうで全く異なった感情である。そこには時間が流れていない。時間が流れている普段の生活の時には気づくことができない場所である。しかし、そこに気づくと僕は分かるのだ。「何にも変わらない、自分は幼い頃から常にある同じ方向に向かっている」と。しかも、その方向というのもかなり複雑なもののようでいて単純なのであるが、所謂普段自分が考えているような分野では区切られていない。しかし、自分には単純明快に「感じる」ことができる思考なのである。それは物事を知らない幼少の頃と今の自分を結びつけることができるコンピューターのような場所であり、かつ手作りで作った木造住宅のような風貌もしている。

そこは、言葉の世界ではない。説明を自分にすることもできない。しかし、もうすでに分かっていることでもある。そして、ときおり訪れるその匂いによって、また止まっていたゲームが始まるようなゾクゾクとした興奮が動き出す。その時をいつもメモしようと試みる。しかし、いつもメモすることを忘れてしまう。というかメモすることは不可能だろう。掴もうとした途端、その空間はするっと逃げていってしまうだろう。

それはいい匂いではない、かといって臭い匂いでもない。なんの匂いと断定することができない。厳密に調査できたらわかるかもしれないが。蜜柑の匂いとかそういうふうに何とかの匂いではないのだ。いくつかの匂いが混じりあっている。そしてそれはとても季節に関係している。夏の夕暮れ、冬の寒い日、春になったばかりの夜、とか出てくる匂いの時間帯はかなり特徴的だ。

勿論、人は匂いだけで記憶するわけではない。むしろ映像で憶えていることのほうが多いだろう。そして、それはいつでも引き出しを開けると出せることができる。そのかわり深い空間を感じることはできない。しかし、普段は絶対に掴めない匂いの空間がひとたび出てきたらそれは「見える」とかそういう客観的な映像ではなくて、「自分が今そこにいるような」体験的な空間が飛び出してくる。僕はそれがいったい何なのか。それにだけ興味があるのだ。懐かしさとは違う懐かしさ、それはとっても新しく、人を新鮮に再生する。今も自分の意識下ではその道がゆっくり変わらずあるのだ。常に僕たちは空間を「感じれる」状態にいるのだ。

0円ハウス -Kyohei Sakaguchi-