坂口 恭平 エッセイ

図版エロス

本の中でよく挿入されている説明用の写真。特にどこかの場所であるらしい写真に異常に惹かれる。「どこの誰それがよく通ったカフェ」とか「アトリエの横の中庭」とか。ああいう類いの写真に僕は猛烈に入りたくなる。中に入って空気を吸いたくなる。印刷も大抵悪いし、写真の大きさも小さいし細かいところなんか全然分かりにくいのにそんなことどうでもよくなって中に入ってしまいたくなる。そんな写真ばっかり集めて写真集でも作りたくなる。さらにそんな場所を近所に作りたくなる。でもそんな写真達はいつの間にか僕の記憶からはなくなり、また本を読んでいる時に新しく見つけて戻ってきたような、いつも行きたいけどいけないぼんやりとした街に着いたようなそんな不思議な気持ちになる。

今見ている写真は、ロシアの芸術家ロトチェンコの作品集の中に入っているロトチェンコがデザインした舞台の写真だ。こじんまりとした舞台の床には芝生が全面に生えていて、向かって左には7、8人のオーケストラ。右にはハリボテの巨大な象。それがイレイザーヘッドよろしくのようなカーテンが掛かった舞台の上にポツンと置かれている。もちろんモノクロ写真で図版もいつものように異常に小さいのでそれが本当の芝生なのかとか細かいところはまたまた分かりませんが、そんなことド返しにしても興奮してしまう写真です。図版です。もう、図版命って感じです。

もう一つはレーモンルーセルという作家が書いた「アフリカの印象」という小説を舞台化した時の写真。これは彼が小説を書いたのに全く世間から無視されたのでそれをもっと視覚的に表現すればどうにかなるのではないという考えを元に多額の金額をつぎ込んで作った舞台である。その写真にはおそらくミミズがチタールを弾くというその小説のなかの1シーンのもので、背景は手描きで書いたような密林の絵、そして男二人、真ん中にチタールという楽器。

これらの写真はそれが単体で存在していたらまた感じ方は変わるのかもしれない。それが本の隅っこに資料用としてこそっと載せられている。そこがさらに僕に空間を感じさせる。そこに行きたくさせる。

それはよく細部が見えないという事が作用させていることは明白であろう。さらにモノクロという事が加わっている。モノクロでなくちゃダメだ。カラーじゃダメだ。画像は荒いほどいい。もうほとんど見えないぐらいでもいい。しかし、それは自分がいつも触れている目の前の世界でも一緒のような気がした。空間を感じるには、昼より夜がいい。人がいっぱいいたり、煙草で煙っていたり、コンタクトレンズつけ忘れたりして見えにくかったりしていたほうがいい。近くで見るより、遠目で見た方がいい。寧ろ手が触れられないところの方がいい。絶対行けないところの方がいい。それはまるで音楽のようでもある。誰の曲か知らない方が感じる。全体像を把握していない方が音の想像は無限大に膨らむ。そしてそれはさらに女性に対する性的な感覚に対しても言い表せる。触れられないからいいんだ。服着てるからいいんだ。モザイクだからこそいいんだ。

話がそれてしまいそうだが、要は図版の写真たちには、所謂作品として存在するような写真にはないエロさがあるのではないかと思う。見えにくいし、分かりにくいし、誰が撮ったかなんか定かではないのに、それだからこそいいと感じてしまう何か。

色んなものが分かりやす過ぎて、くっきりしていて、総カラー天然色で、明るくて、度がしっかりあってて、ピントもあっててしまう中で、これらの古本屋で妙な期待をもって買った本に最高の図版を見つけたときにゃあ、生肌に触れた思いをしてしまうわけです。

0円ハウス -Kyohei Sakaguchi-