坂口 恭平 エッセイ

ドブと海と社宅

小学校3年生までは熊本ではなくて福岡の新宮というところに住んでいた。そこはいわゆる何にもない田舎というわけでもなくて、典型的な郊外といったところだ。しかし、そこで味わった様々な場所の体験はその後もなにかと思い出される不思議なものだった。

住んでいたのは親父の勤めていた会社の社宅だった。それも一棟だけではなく、20棟以上社宅が建ち並んでいた。真ん中に大きな公園と集会場があり、ほとんどの生活をこの中で過ごした。小学校から帰ってくるときここの社宅の入り口の松に囲まれた門を抜けると家に帰ってきた気になっていた。社宅全部が家という感触でいた。

社宅から下界へは3つの道があった。一つは国道へ抜ける道。一つはおそらく昔からあったと思われる路地に続く道。そしてもう一つが海に続く道。この三つの道はそれぞれ僕にとって用途も違い、住んでいる友人も違っていて今考えるとかなり興味深い。国道はやはり遠出というイメージを連想させ、また小学校は一緒だがそんなに近くない友人に会いにいくときも利用していた。

路地の道は、まずは僕たちの住んでいた比較的新しい社宅を抜けると、今度は古い社宅が出てきて、次に長崎屋酒店という当時の僕たちのランドマーク的存在の酒屋を目印にはじまる。そこでよく酒蓋を盗んでいた。酒蓋にもいろいろあってプラスティックのものは低俗とみなされ、金属製で素朴なデザインのものが好まれた。そしてその周辺にはあまり大きくはない一軒家が建ち並んでいた。そこにはファミコンではなくディスクをもっていた友人が住んでいて、そのファミコンとは違う世界に惹かれよく通っていたがよく考えるとディスクのゲームにはさほど興味をもっていなかったようだ。それよりもディスクそのものの形に惹かれていた。そこの周辺の街はぼくの中ではディスクと切っても切れない関係になっている。

海に続く道は道自体は砂利道で社宅の補足的役割をもっていた。そこから会社が作ったグラウンドやプールに行けた。ラジオ体操にはいつもそこを通っていた。しかし、そこの道はなにかとおかしかった。道にそって鉄格子が張ってあり中は松林だった。当然中に入るのだが中は松林であるばかりでなく、砂漠だった。何のためにあったのかはよくわからない。でもそこの砂漠は僕にとって異世界だった。しかもそこには蟻地獄がいた。蟻地獄というのは当時の僕のシンボルだった。何のシンボルか知らんが、とにかくたまに見つかると夢心地だったのを思い出す。

またその道は変な人がよく通っていた大声をあげて走り去る大人を良く見た。でもなにも怖くはなかった。なんでも受け入れていたのだ。そこは社宅だったので年の違う人間たちが集まってきていた。先輩も後輩もあんまりなかった。そのなかでもタカちゃんは一番よくあそんだ。

彼とはとにかく新しい遊びを見つけることだけに集中していた。だからファミコンとかはあんまり熱入れてない。それより花札の新しいゲームや、ホッピングで旅をしたり、ビー玉を転がしてまた旅をしたり、とにかく尽きなかった。タカちゃんはサッカーのスパイクを通学に使っていた。小学校一年生の時にだ。さらに、うちでトカゲを無くしてしまい家族全員でなぜか必死でみつけた。トカゲが心配なのか、家にトカゲが棲まれてもと思ったのかは忘れた。

そんな中、僕たち二人はいつも通っている海に続く道の下にドブ川が流れているのを再認識した。それは重い鉄の網で閉じられていた。二人はそこを探検することを決めた。タカちゃんが言うにはそのドブにはガガンボという蚊の数十倍ぐらいの大きな怪虫がいて、ほんとに刺すんだそうだ。僕は本当は凄く恐がりなのでやめたかったが、グーニーズとか色々出てきて盛り上がっていたところだったのでやめられず、長靴はいてきて鉄網を開けた。

何も路地の匂いもしない社宅の下にこんなに闇の世界があったのかと歩きながらとにかく興奮していったのをおぼえている。しかも、道はどこまでも続いていた。途中、トンネルを抜け、空が見えてきた。そこで小学校の同級生にあった。なんか距離があったのだけ覚えている。あんまり話していないはずだ。また、トンネルに入って、とにかく黙々歩き続ける。そしたら先に光が見えた。やったーゴールだ。と思ったがゴールってどこ?と思いながらついに到着すると、目の前には海が見えた。玄界灘が見えた。社宅から闇を抜けて、海にでた。この事実は僕とタカちゃんをやたらと盛り上げた。なんか自分らは泥っぽいぞ!と思ったのだ。いまだに消えずに色濃くのこるこのシーンは時に自分を鼓舞してくれるのだ。

0円ハウス -Kyohei Sakaguchi-