坂口 恭平 エッセイ

ゴミ直感

学生のころから僕はゴミを拾ってばかりいた。勿論、生ゴミではない。使えそうな電化製品や変なもの。最近はだいぶ減ったがそれでも常に拾おうとする姿勢は持ち続けているつもりである。しかし、ゴミを拾うからといって「ケチ」をしているという自覚はない。むしろその逆のほうが多いからだ。

「道端には普通の店では到底買えないイイものが転がっている。」 そういう体験の方が多いからだ。僕の家のステレオ関係のものはほとんどが広いものだ。スピーカーとアンプセットは巨大な70年代のナショナルのものでこれは普通に中古ステレオ屋で買ったらかなりの値がする。レコードプレイヤーも拾い物。ミキサーは1000円で道端でオジさんが売っていた。ソニーのオープンリールレコーダーも公団が改装される時にみんなが引っ越しているのを見ながら歩いていたら落ちていた。波の音や小川の音がする周波数ボックスみたいなマニアなものも道端には落ちていた。新品で買ったものはほとんどない。でも彼らは今だに現役である。毎日いい音鳴らしてくれている。

そのうちに拾いたいものは拾えるような気までしてきた。実際にそのようなことも起こったからである。ここにはとても面白いことが二つ含まれていると自分で分かってきた。

一つはそれらは0円にも関わらず、拾う人にとってはとても価値のあるもので、お金を払っても得られない満足がある。これは当たり前の話ではあるが、いつもこのことを考えると不思議になる。金銭的なものは価値には関係ないのだ。僕にはいつも落ちているものからインスピレーションを得ている。

もう一つは自分が欲しいと願っているものは道端で見つけやすいということ。これも当然といえば当然ではある。しかし、僕はこれを偶然の法則のような気がしてならない。求めている、出会いたいと願っている。そのエネルギーが満タンになった時に「確変状態」に突入し、全ての事柄を「偶然」の世界によびおこすことができるのではないか?

こういう風に考えていくと、
「道端の中の全てのゴミから、自分にとって宝物となるようなものを拾う」という作業は何かに似ていると思うようになった。金銭的価値から逸脱し、日常の中で見つかり、そしてそれは常に「偶然」自分の目の前に訪れる。狙って見つけることも出来ない。でも考えていないと見つからない。  まさにそれは、直感的に訪れる「次に自分がやろうとするもの」が見つかった時に似ているのだ。直感は全て無意識内のことなので目に見えない現象であるが、このゴミを拾うという瞬間はまさにそのときの「具体的に見ることのできるモデル」のようだ。まるで、水の分子モデルを見るようだ。

それを考えていくと、あの直感が発生しやすい瞬間を具体的にどういう時かというモデルを示すことができるのではないか?

自分が探している感覚を「自分が欲しいと思っているスピーカー」に例える。その時に人は勿論電気屋さんに行く。そこではいろんな値段のスピーカーが並んでいる。しかし、新品だけだ。新型の商品が多いだろう。昔の形は大分なくなってきているだろう。まぁその中から予算にあったスピーカーを買おうとする。でも、スピーカーは自分の家の中のインテリアとしてはかなり重要な要素なはずだ。慎重に選ぶ。ううーん、こういう電気量販店ではなかなか自分にフィットするものは見つからない。それで今度は凄くこだわっている店に行ってみる。うん、今度はなかなかいい。しかし、値段が予算を遥かに超えている。こういうものはいいものは必然的に高いのだ。それで悩む。そのうちにどれがいいかわからなくなる。それでちょっと今日のところは考えようとなる。しかし、買おうという気持ちは帰ると変化していてそのうち忘れてしまう。

そうこうしていて何ヶ月か経った後に、僕は路上で見つけてしまうのだ。70年代のナショナルを!そこは路上だ。電気屋さんではない。電化製品なんてひとつも落ちていない。しかし、たまたま電気屋さんがつぶれてそこから昔の眠っていたスピーカーが顔を出したのだ。(あっでも結局電気屋さんだったのだ!ツブレタ電気屋が僕には必要だったのだ。)

欲しいものを買いたいからスピーカーだけが並んでいる場所にいくよりもスピーカーのことを「こういうのが欲しいな」と頭の奥の方で記憶して、思考したまんま電気製品なんか並んでいるはずもない路上を歩くことが創造の瞬間を呼び起こすのだと思う。もちろんそんなことをしていたら時間がかかってしょうがない。だから短期で手に入れたいものにとってはこの方法はただ骨が折れるだけである。

しかし、本当に妥協なく手に入れたい感覚がある場合。この方法しかないと思う。何にもないところから見つかると頭の片隅で信じれるということが見つかる方法なんだとも思う。

ゴミというのはだから面白い。さらに興味深いのが、ゴミというのは、「一度誰かが不要と感じて捨てたもの」である。そこが面白すぎるわけである。新しい感覚とは新しいものから発生するのではない。一度は誰からもいらないと捨てられたものからも発生する可能性がある。むしろそっちのほうが高いだろう。

今日も僕は直感の訓練で町を歩きながら、ゴミを見つけている。(人はただの暇人としか思わんだろうね。)

2006年9月12日

0円ハウス -Kyohei Sakaguchi-