坂口 恭平 エッセイ

工事中的記憶街

記憶というものは曖昧なものであるはずだ。
しかし、僕はいつも思う。
記憶の中の空間は至極鮮明である。
曖昧なものだと断定するのはそれが現実の実在の事物とは違うこともあり得るからである。

ちょっと意味が分かりにくかったか。
僕は懐かしがりやなのでよく昔通っていた空間に戻るという作業を行う。
その時にいつも思うのは僕が記憶していたらしい空間とは大分違うなということなのである。
自分の頭の中の空間にはあったものが現実にはなかったことなどたくさんあり、でも自分の中では捏造した気など毛頭ないのである。
ここにあったはずの文房具屋が実は向かいの通りにあったり、多摩川に船の形をした、いつ氾濫して家が流されてもいいハウスボートがあると思い込んでいたのであるが実はなかったとか。
とにかく自分としては嘘付いているわけでもないし、話を妄想で膨らませているわけでもないのだが。
しかし、僕が頭の中にストックしてある記憶の空間は自分で様々な記憶の要素を組み合わせて自分独自の実際にはありもしない空間を作り上げているらしいのである。
そして、それらの記憶は他のどれよりもなぜか鮮明で、終いにはまさに現実味を帯びて本当にある空間として再認識されるのである。

それは僕だけじゃなくて誰にもあると思う。
その最たるものが、小さい時に大きいと思っていたジャングルジムが実際に大人になって背が高くなって行ってみたところ全然大きくなかったという体験だと思う。
おそらくこれはほとんどの人間が体験していることだと思う。
僕に限って言えば、その体験は本当に何度も体験した。
しかし、その度ごとにいつも「つまらなさ」を感じた。なんだよって思うのだ。
むしろ実際の空間のほうが嘘っぽいなと思ってしまう。
自分の頭の中の空間の方が、空間的好奇心を満たしてくれたわけである。
頭に残っている作り上げた記憶の方がリアルな体験ができる。

そう思うようになって、むしろ頭の中の方の空間を実際の空間であるのかもしれないと考えるようになった。
つまり、あの小さい時の記憶は視点も、自分の頭の中の知識も、空間認識も、今の自分とは要素が違いすぎる。
それは凄く大事な点で、今の目で見た空間は「あの時」の空間とは違う。
そこには「時間」軸も含まれているが、それだけではなくもっと人間の空間に対する知覚軸もしっかりと大事な要素となっているのではないか。

あの時の鮮明な風景と、同じ場所の懐かしい今見る風景は明らかに同じ空間ではない。
さらに面白いことにそこまで印象的だった風景、空間は色褪せることなく、しかもそのまま残っているのではなくだんだんと自分の知覚が変化すると共に頭の中で育っているのではないか。
頭の中で記憶の空間が広がっている。
自分で少しずつ頭の中で工事をしている。
それはもう懐かしさではないのだろう。
新しい、常に自分にとって斬新で生き生きとした現実の風景なのだろう。

そんなことを考えながら、今バンクーバーの夜の町の灯りを見ながら、これらの風景も空間も頭の中で培養し始めているのだろう。
本格的な工事はいつ頃からやるのかななどと頭の中の建設会社に脳長の僕は聞こうとしている。

2006年9月18日

0円ハウス -Kyohei Sakaguchi-