坂口 恭平 エッセイ

ハイヴィジョン網膜紀行

混沌の中に飛び込む。
そこは僕の家の中だ。
本棚には本がランダムに並べられ、高さも違う。厚さも違う。
筆立てには、鉛筆、色鉛筆、定規、鋏、丸ペン、
そして、隣の部屋に棲んでいた劇作家からもらった机には、
愛用のマック、インク、携帯電話、録音用のMTR,
壁には、カレンダー、ソローの家のポストカード、
大竹伸朗さんから頂いたポストカード。
ノノカの写真。ふうのアクセサリー、押しピンの後が数個。
ナショナルの70年代シリーズ。机のライト、巨大アンプ。
そのスピーカーからは、マックを直接接続し、
Arthur RussellのThat's usが鳴り響いている。
めいの書いたバーバパパ。
三菱エレクトリックラジオ。土鍋とサンプラー。
これら雑然と並ぶモノたちと、空間の関係には
なんらかの法則があるように思える。
“不連続の連続”と吉阪隆正は言ったが、
まさにそういう事だと思う。雑然は自然だ。
自然は法則を持つ。それはとても高い知覚のなせる技。
僕の部屋と鉛筆一本の関連性。
僕の建築の興味とはそういうところだ。
それは何らかの形を見せるとかそういう事ではない。
「ある」ということ。その中に自分も「ある」ということ。
髪の毛一本一本が空間として突出してくる。
ミクロアドヴェンチャー。
押しピンの跡の位置と、星座早見表を見比べる。
小さなベランダの植物園と森を見比べる。
畳の編み目とアフリカ布。
木造の柱にベッタリ塗った、茶色のペンキと、
無垢の木は何が違うのか。
何もかも連続し、関連し、立体化している。
文章の中身も、立体サラウンドのように、
浮き上がって来ている。
すべてが影を持ち、立体物と化す。
そこには直線はない。直線より正確な線。
それは近づけば近づくほど、揺れていて、
終いにはぼこぼこ道になる。
廊下に落ちている埃すらも、
それは空間の一つの要素と見える。
そうすると影すらもそうなる。
元々そうであった事が、分かってくると、
頭の中の空間も具現化している。
しかし、それは自分の外には出て来ない空間だ。
自分の頭の中にしかない。
しかも、それは常時動き続けている。
ムーヴィングシティだ。
柱も揺れている。それは鴨長明も書いていた。
すべては揺れている。そういう事で、安定している。
そもそも地球が揺れている。
地球に行ってしまった視点を、また自分の西荻の部屋に戻す。
グーグルアースのように戻す。
空間とは、ご飯の事を考えながら、散歩している僕の頭の中だ。
空間とは、埃と風だ。
空間とは、鉛筆カスだ。マウスだ。
空間とは、ギターとアンプを繋ぐ、シールドだ。
空間とは、何も書いていなくて、分からなくなっているCD-Rだ。
ドレミファソラシドを使わないで,音楽をしたい。
ふっと匂う香りは、空間を持っている。
遠くに聞こえる、子供の声は立体的である。
タバコの煙は空間である。
息を吸う音はステレオである。
寝る前の布団の中の空間は、何なのだろう。
僕にとってはそれらが、リアルな空間なのである。

2006年11月24日

0円ハウス -Kyohei Sakaguchi-