坂口 恭平 エッセイ

貯水タンクに棲む

1999年10月、僕は貯水タンクに棲んだ。
これは20歳の時の学校の課題として提出したものである。
僕が早稲田大学建築学科にいた頃だ。
小学校の卒業文集からの夢であった、建築家になるための
一歩を踏み始めたつもりでいたが、
だんだん僕は学校の授業に魅力を失い、
どうにか自分なりの表現を模索していた頃である。
そのころ設計演習という授業があり、
これは建築学科生徒180人が参加する、
設計天下一武道会みたいなもので、
選ばれると発表の機会が与えられる。
これだけは授業というよりは、パフォーマンス大会のようだったので、
僕は唯一面白がってやっていた。
とは、いっても建築学科でのこと。
当然,課題は設計図面と模型といういつも通りのお決まりの世界。
それが不自由でたまらなかった。
その当時、僕は一昔の建築、
1960年代から、70年頃の日本と海外の建築に異常に興味を持ち、
現代建築などまったく知ろうともせず、図書館ばっかり行っていた。
そこで出会ったのが、アーキグラムと毛綱モン太だった。
アーキグラムは今はもうみんな知っていると思うが,
彼らは学生を卒業したばかりの1960年代、
徒党を組んで、手作りで手描きの自費出版雑誌、
「ARCHIGRAM」を発行していた。
それは実際には建っていないプロジェクトばかりが、
素晴らしいアートワークで掲載されていた。
ビートルズとボブデュランでしっかり60年に目覚め、
当時完全にヒッピー状態であった僕が、その後、
ホールアースという60年代雑誌に興味を持ち、
その後,哲学者であり、数学者であり、建築家であった
バックミンスター・フラーを知り,その原点で、作家の
ソローを知り、その流れで、アーキグラムを知った。
学校では、創造とはかけ離れた職業としての建築を
見ていたので、僕にとっては、こちらの60年代コースの方が、
自然だったのだ。音楽と小説と、建築は一まとまりだった。
そこで、きちんと絵に書いて、表現する事で、
建築を建てるより、もっと壮大なことが、
人々に伝えられる可能性を感じた。
もう一人、毛綱モン太は、
70年代から,80年にかけて、
「野武士」と呼ばれた前衛建築家だ。
彼の「給水塔の家」プロジェクトを見たときは、
僕はまさにこれだと思った。
それはとある廃墟化した給水塔をアトリエとして設計するという
プロジェクト。
これも、実現はしていない。しかし、その既存の建物を
住宅に改造するという行為を、
彼は古代ギリシャの樽の中に棲んでいたディオニソスなどを
引用し、熱く語っていた。
それは僕がやりたいと常日頃ガキの頃から思っていた事であり,
僕はとにもかくにも「よかった」と思った。
そういうことをもっと壮大に考えていいんだと、
不思議と安心したのを覚えている。
それらの二つを僕の中で昇華させて表現したのが、
「貯水タンクに棲む」というビデオ作品だと思っている。
それは「都市の再生」という課題だった。
新しい都市の建築の在り方を提案するというものだ。
僕はここで、全く設計しないで既存のものだけで、
やりたいと思っていた。そして、貯水タンクに目がついた。
題材に東京のアパートなどに乗っかっている
貯水タンクを選んだいいが、
どうすればいいか全く見当がつかない。
僕は提出10日前まで手がつけられなかった。
そして、ぎりぎりで街を歩き回って、
青山の公団住宅の貯水タンクを見つけた。
そして、こうなったら棲んでしまえ!と
半ば、やけくそ気味で、屋上まで行って、
扉を開けた。ら、水が入ってなかった。
これは神の啓示とばかりに、
寝袋もって、発電機もって5日間棲んだ。
そして、その時のドキュメンタリーをビデオ作品として、
提出するというアヴァンギャルドな事を見つけ出した。
この作品は当初受け入れられるか議論された。
なぜなら、僕は模型も図面も提出しなかったからだ。
新しく設計しているわけではなく、
既存の貯水タンクに棲むという行為だけだから、
僕としては当然なわけである。
でも、学校としては、駄目かなーと思って出したら、
案の定、受付で駄目だと言われた。
でも、きちんと説明して受け取ってもらえた。
僕の中ではキチンと伝えなければと若さも入って熱くなっていたのだ。
でから結果はどうでもいいと思っていた。
そしたら、なんとその天下一武道会の決勝トーナメントに
エントリーされたのだ。
そして、僕だけなぜか模型と図面がなく、
ビデオデッキとテレビが置かれていた。
そして、ビデオを流し説明した。
その時に、先生から
「こういう考えは60年代に一度起こって、消えたが、
また蘇ってくる。これはこれからの建築の考えである。
お前は建築とは何ぞやなど、勉強などせずに、この道を
ひたすらススメ!」
と言われた。
僕はこのときの評価がいまだに僕を支えている事を知っている。
それは学校とか成績とかそういうものを超えた瞬間でもあった。
いいものはいい。
ただし、それを持っているのなら、キチンと正々堂々説明しよう。
僕はそれを肝に銘じた。
そして、今に至るわけである。
いまだにこのときの興奮が忘れられない。
バンクーバーのときもしきりにこのことが蘇って来た。
今少しづつ自分が考えている事が形になってはきている。
僕にとっては長ーい旅であるわけである。

2006年11月23日

0円ハウス -Kyohei Sakaguchi-