坂口 恭平 エッセイ

無償の肉体スペクタクル

二十歳になるかならない頃。今から7、8年前、僕は何がやりたいのかなどは全く興味を持っていなかった。いや、むしろ人一倍持っていたのかもしれない。ハチ切れんばかりのエネルギーだけがあった。本当にエネルギーだけだった。何にも使い道が無かったのではない。わからなかっただけだ。それは、まるで用途がない巨大な無用な機械のように立っていた。でもとにかく体だけは常に回転しておいて、光らせとかないといけないとばかり思っていた。そのままそのエネルギーは、熊本の廃車工場まで辿り着き、一台のボロボロの灰色の原付バイクと出会わせる。ホンダカブの完全コピーである、そのスズキバーディーは1960年製と書いてあった。おっちゃんに値段を聞くと5千円。それを買って、修理して走れるようにした。そして、直ちに東京までの1500キロの旅を思いつく。荷台が無かったので、鉄工所のズベさんの所に訪ねると、その鉄のゲージュツ家はハート型のさびさびの荷台を作ってくれた。とにかく人と違えばなんでもよかったので僕は多いに喜んだ。ヘルメットもない。軍モノ専門家のシンヤさんはベトナム戦争で使っていたという無線付きのアメリカ軍軍用機用ヘルメットを貸してくれた。おかげで何回も捕まった。でも、その度にシンヤさんからいわれていた通り、
「戦争で使ってたんですから公道で使えないはずが無い」
と言い続け、結局使えた。格好はオランダ軍のパラシュート部隊のユニフォームを着た。どう考えても馬鹿野郎である。でもこのときは本当に本気だった。そのバイクの旅ははじまったが、重要なことに気づいた。このバイクは40キロが最高速度だということ。さらに、トロトロバイクで行くのはいいが、僕はどこか見たい所など一つもなかったのだ。結局、途中時速30キロで後ろから追いかけていた台風に捕まったときに広島の尾道に4日間ほど滞在した以外は何も見ずただひたすら遅いバイクで走り続けた。2週間かかって無事ついた時は充実感もなかったのだが、ただ一つなんというか絶対無理と思ったことをやり続けるのは僕にとってはかなりやりがいのある仕事なんだなと判ったのは非常に重要だった。

それが終わっても僕の肉体はまだ暴れようとし続ける。そのまま、今度はインドへ飛んで行く。初めての海外旅行。持参金は4万円。初めて降り立ったカルカッタで楽器屋さんにいって、シタールを3万円で買った。今考えても馬鹿野郎である。しかも、帰りの飛行機はデリー発だった。とにかく、節約旅行を続けたが、途中のベナレスで一文無しになる。オリンパスのペンを売って500ルピーをゲットできた時は驚いた。僕はペンを熊本で2000円で買ったからだ。500ルピーは当時で1500円くらいだった。しかし、ベナレスで芸術大学の学生と出会い、そこに居候させてもらうことになり助かった。そのかわり、毎晩30人ぐらいが僕の部屋に集まってきて、これからのナントカとかを語らなくてはいけなくて大変だった。完全にエセヒッピーと化した僕は、今度はケルアックの路上を読んで感銘し、なんのヒネリもなくヒッチハイクをやりだした。しかも、ギターを持って路上の弾き語りもしていた。思い出しても、もう恥ずかしがっていられない。歌はボブディランなのだが、英語はとんちんかんで音だけ似せて歌っていた。このおかげでいまだにハナモゲラ語で永遠に歌い続けることができるが、、。これで、また熊本から今度は札幌まで一円も持たず、ギターとヒッチハイクだけで到着した。ハナモゲラ・ディランがかなりいい稼ぎだったことは驚きである。

そんな肉体放蕩は大学が終了するまで続いて行くことになる。最後まで何かをやろうとはしなかった。どこまでも消費するだけだった。でもそれでもいいじゃあないかとも思っていた。そして、少しだけ不安だった。

しかし、あれがあるからどこでも野宿できるようになった。それだけはよかったと思っている。建築についていいたいことがあるなら、それはまず屋根も壁もない、フキッさらしの世界を知らなイカン。と勝手に思っている僕は、あのカルカッタのハウラー駅で野宿したときを決して忘れること勿れと何かふとした時に思い出す。「富士山の日の出を見る」と一人勝手に騒いで行って野宿した11月の河口湖のほとりも忘れちゃいけねぇ。あのときは、本当に死ぬと思った。

常に目的が生じてきてしまうと人は先を考え、自分で帳尻あわせようとする。そんな時、僕はあのあまりにも無目的で無償で金も使わない、さらには道具も何にも使わない、肉体アクションのことをただ感じる。

0円ハウス -Kyohei Sakaguchi-