坂口 恭平 エッセイ

ドラムカンに住む花子さん

愛知県豊橋に大きなドラムカンが横たわっている。僕は高校生の時にこのドラムカンの家を見て、デジャ・ヴにおそわれた。設計は川合健二。そしてこの家は彼の自邸である。3年前、最寄り駅だけを知っていた僕は電車を降りて電話帳を調べた。そして、そこに川合氏の名前を見つけた。電話をかけると女性の声がした。今は川合氏は亡くなっており、彼の妻である花子さんだけがたった一人でこのドラムカンに住んでいる。花子さんは初めて話す僕に対して、とても丁寧に落ち着いて話してくれた。今駅にいることを告げるといらっしゃいと言ってくれた。たいそう山の中にあると思っていたドラムカンは国道から入るとすぐの丘を少し登った所にあった。

見たことも無いものが今目の前にあるという興奮と、そうだよなこういうものが家ってもんだよなぁという不思議な安堵感が入り混じってその錆び付いたドラムカンは僕に姿を見せた。

家とまわりの環境が混じりあってどこが境か分からなくなっている。今まで知っている家の佇まいは微塵も感じさせない。それでいて、もう30年以上そこにいるという存在感が何にも知らない僕にも感じることができる。

木製の宇宙船のような玄関を入ると花子さんは、
「そこらへんに靴を脱ぎ捨ててください」
と言った。つまり境目が無い。でも靴は脱いでくださいなのだ。床は鉄板の直貼りである。それと花子さんのやさしい顔が未だ繋がらない。天井はとても低い。いったのは冬だった。ふと見ると鉄板の上に火鉢が置いてある。そして鉄板の上に畳が敷かれ、炬燵がセットされている。ははん、なんとなくつかめてきましたぞ。というかこっちは勝手に感覚的には共鳴している。炬燵に入れてもらって上を見ると見たことも無いようなランプシェード。聞くと、北欧にいって買ってきたそうだ。僕が家に行く前に想像していた、かなりハードな生活というイメージがボロボロと崩れ落ちてくる。目の前には川合氏の書斎がある。椅子はイームスだ。進むと、おおきな吹き抜けが。そうである、ここは巨大な一室空間なのである。トイレも風呂も壁が無い。布で仕切られているだけだ。それぞれの部品は彼が様々な国に旅行に行った際にかってきたもの。洗い場の水色のシンクはアメリカンスタンダードだ。

家の内部を印象づけるもの、、。それは鉄ではなくて木なのだ。階段や床は栗や桜の木でできている。それもそのはず、川合氏は木材屋の息子だったのだ。と花子さんは全てを筒み隠さず、解放されたように語ってくれる。鉄、中を彩る木材、様々な家具、備品、そこに混じって畳、火鉢、みかん。
「いいでしょ、この組み合わせが」
花子さんはそれらをすべて受け入れてうまく生活している。僕の中で今まで色々と衝突していたモノたちが溶解していくのを感じる。
スタイルでもなく、デザインでもなく、ただ住むということ。
しかし、きちんとすべてをできるだけ受け入れていくこと。

花子さんと炬燵に入って喋りまくったが、本当に様々なことに意見を持ってかなり生き生きしていた。80歳を超えていらっしゃるというのに。

世紀の前衛建築「ドラムカンの家」を見に行ったはずが、結局花子さん自身と感覚に会いにきていたらしい。むしろそこにこのドラムカンの真骨頂があるような気がしてきた。その後、いろんな人とドラムカンに遊びに行った。そこで、建築とか関係ない人ほどその家に入り込み、花子さんに入り込んだ。僕はそれらを見て、自分が今漠然と考えている空間に対する考え方に何の後ろ盾も無いかもしれないが確固たる自信を持った。
「これは裏の庭でとれた蜜柑だよ」
といって帰りにもらった不思議な形した蜜柑はその象徴のように見えた。

0円ハウス -Kyohei Sakaguchi-