坂口 恭平 エッセイ

緑色について

植物にとくに興味があるわけでもない。自然に満ちたところに行きたいという欲望もない。ごみごみしたところの方が好みである。京都の庭園を見ても綺麗だなとは思うもののイマイチぴんと来ない。壷庭とか、苔とか「はぁ?」という感じである。かといって欧風のガーデンも好きでない。しかし、なにか引っかかってしまう時がある。

それは、京都に行った時に観に行った相国寺承天閣美術館での事だ。僕は長谷川等伯の絵を観にいったつもりだった。勿論等伯もよかったが、そこで一番とびきりだったのは伊藤若冲の水墨画「芭蕉図」だった。伊藤若冲の水墨画というのもぼくは全く見た事がなかったので驚いてみた。その葉っぱの絵を見た時にそれは勿論水墨画だったので真っ黒のはずだが僕には緑色に見えた。緑色といってもよく見る緑色ではなく、僕が心酔する素朴派の(というか彼は派閥なんぞ関係なく孤独であったが)アンリ・ルソーが描くあの熱帯色をしていた。日本庭園にありそうな緑色ではないのだ。もっと濃くて、なおかつすっきりしたおおらかな緑。その緑が見えてから僕は今まで色々気になっていた自分の植物に対する思いに気づいた。そして、東京の熱帯と称するシリーズを撮り始めたわけだ。

東京を歩いていても植物はよく目にする。でもそれぞれ緑色が違う。勿論専門的に見ればどれが何色で、この植物はこの色でと決まっているのだろうが、僕は勝手にあの伊藤若冲を見た時に感じた緑色感を元に追っている。しかし、それは東京でもそんなに多くはないが時折自分が求めているものに出会える事がある。熊楠記念館にいったときもビンビンこの緑色を感じた。大阪の従兄弟の家に行った時にみた川の土手に原生林のように生えていた雑草を見てもそう思ったし、天皇が東京のド真ん中に残しているという原生林を想像する時もその緑色が出てくる。レーモンルーセルが描くアフリカにも同様の色。タルコフスキーの惑星ソラリスのオープニングシーンも、岸田劉生の切り通しの写生もそうだ。あの色は一体なんなのだ。でもあの色を見るとき、なんか「自然を大切に」とか「エコロジー」とか平気で言えている「自然さ」とは全く別物の緑であるような気がする。どんな世界になったとしても姿形を変えてでも残り続ける緑。そんな緑の姿を東京のど真ん中の新宿で庭のない家の壁で見る。そこで緑達は文句ひとつ言わず黙々と生え続けている。いいぞいいぞと思いながらも同時に怖さも感じる。

変わり続けることで変わらずにいる方法。東京のなかでも太古のジャングルだったころの記憶は失われずに形を変えて生き延びる。

0円ハウス -Kyohei Sakaguchi-