坂口 恭平 エッセイ

ラスコーのアーケード

西荻の駅前に高架下のアーケードがある。
イマイチ盛り上がりに欠ける、そのアーケードは夜は早く閉まる。
で、商店街が寝静まったあと、一人の青年が毎日やってくる。
毎日かは知らんが、とにかく僕が横切ったときは毎回いた。
で、なにをするのかと思えば、ギターを持って歌っている。
おっ、今ではあんまりいなくなったストリートミュージシャンではありませんか。
どんな歌を歌っているかと思えば、ギターをかき鳴らし自作の曲を歌っているようだ。
でも、なんか変だ。様子がおかしい。
よーく見てみると、なんとその青年はシャッターに向かって歌っている。
シャッターから10cmも離れていないのではないか?それぐらい近い。
これではこっちが見るとか、そういう問題ではない。
とにかく、僕たちは仕方なく去っていくしかないのであった。
くる日もくる日も、彼はシャッターに向かって歌っている。
歌が終わると、すぐにまた次の歌が始まる。練習なんだろうか。
いや、練習であってほしい。
でも、その一貫したやり方は、練習を超えたものを感じさせてしまう。コンセプチュアル・アート?
いつかは人前で歌うのを夢見ているのだろうか、
それとも路上で歌うなんて考えられない、いつか大劇場のステージの上で歌うのを想像しながら、
歌っているのだろうか。
青年とシャッターの間の10cmが気になる。
聞くことのできないストリートミュージシャン。矛盾だらけのミュージシャン。
しかし、逆にそんな路上は人目を気にせずに練習できる場所なのかもしれない。

池袋の芸術劇場のガラスの壁を利用して、
深夜に発生するダンス練習の円陣も似たようなところがある。
あの至る所で発生するダンス練習場の生まれ具合もすごく気になるのだ。
ラジカセを持っていき、再生ボタンを押した瞬間に空間が広がる。
中野の区民センターでもやっていたなぁ。
公共のホールは、昼は内側が舞台で、夜は外側が舞台である。
これは宇宙の缶詰的発想で想像するととても楽しい。
昼間はガラスの壁だが、光がなくなったときそのガラスの壁は鏡の壁に変身する。
このことは、夜が昼よりなぜ広く感じられるかということにも答えているような気がする。
夜は、窓が鏡になるのだ。反射した映像は人に広大な空間を創造させる。

僕は20代前半ごろ、よく日本の各地にいっては野宿するという、
よくわからない癖に突き動かされていた。そのとき野宿する場所というのは、
決まって、地方のそこそこに大きなアーケードの下である。
全ての店のシャッターが閉まり、誰もいなくなったとき、そこは一瞬にして、
僕の寝床と化す。よく寝ながら、上を見ながら、でかいアーケードの屋根を見ながら、
アーケード全体が自分の家になったような、「おぼっちゃま」的巨大屋敷感覚が襲ってきた。
そして、よく路上で歌う音楽が聞こえてきた。
その音ははとても反響する。アーケードという場所はまるで洞窟のような気がしてきた。
シャッターはすべて閉まっていて、しかも、閉まったシャッターには各々何者かによって、
落書きがされている。
そこで、思ったのはここは、まるでラスコーの洞窟のようだということだ。
現代のラスコー。
店が閉まるまでは、きらきら光っていたアーケードも、閉店後はいきなり暗くなる。

シャッターが閉まってから浮かび上がってくるのは、現代の洞窟壁画。
つまり、シャッターに無断で書き込まれた落書き。そのグラフィティにはサインがついている。
そして、音楽が残響音とともに鳴り響く。
これはラスコーで行っていた、宗教儀式と似たところがあるのかもしれない。
ラスコーでは、壁画が描かれ、(しかもサイン付でだ。グラフィティのように)
音楽が鳴り響いていたようだ。

喫茶店「それいゆ」に深夜の珈琲タイムをした帰りに、シャッターに向かっている青年を見たら、
夜の話が広がったわけである。

2006年11月17日

0円ハウス -Kyohei Sakaguchi-