零塾

第3章 ナジャ

 2011年1月24日(月)。ようやく絵を描く気になって徹夜で描き上げた。酒飲んで徹夜ばかりしてたけど、仕事で徹夜ってやったことない超朝方人間なので新鮮だった。これもこれでいいかもしれん。で、眠るわけにも行かず次の築地原稿に取り組む。完成し、送信。
 昨日のラジオ番組のおかげでまた零塾希望者からのメールが来ているので、一つずつ返信する。一人の方とは電話で話した。
 午後5時から国立駅南口改札にて石川と待ち合わせ。彼女は東京芸大の学生なのだが、以前、自ら作っていた雑誌にてインタビューを掲載してくれたことがあり、しかもその後も色んなトークショーにも顔を出してくれていた。で、零塾に入りたいとのことで、面接を受ける。
 就職も無事に決まっているのだが、それでも自分のやりたいことがあると言うので聞いてみる。彼女は自分のプロジェクトを見せてくれた。そして、それは一部公開もしており、かなり反響があったらしい。それで本を作りたいというので、それを協力してくれということだった。
 しかし、僕にはそれを本にするにはまだ早いと思い、一体なぜその本を作ろうとしたのかを聞いた。すると、やはり直接には違うことをやりたくて、その皮肉として作品を作っていることが分かった。ならば、その本当に言いたいことである、建築コンペ批判というものとしっかりと向き合わないといけないと僕は伝える。しかし、それを書くのは本当に難しいと思うので、まずは都市計画というものについて勉強するところから始まるのではないかと判断し、とりあえず読書から始めてもらうことに。
 よく本を作りたいんですという人に会うが、僕が自己実現のことをやっても意味が無い、という真意があまり伝わっていないというなんだろう。残念だが、それは自分の落ち度でもあるので、もうちょっと言葉で分かるようにしなくてはいけないと思う。
 その後、石川の話を聞いていると、色々と正直な心境を吐露してくれて、その言葉がしっかりとこちらに伝わった。皮肉ばかり言っていても始まらないのだ。まずは問題と真っ正面向き合うこと。そこからしか何も始まらない。
 今日はルノアールではなく、違う喫茶店を選んだ。ナジャというちょっと前にたまに行っていたところを選んだ。でも、お客さんが少ないし、静かなところなので、零塾面接で僕が熱く話していたら、変に見られるだろうと不安でもあったが、まっいっかと思い。面接した。最終的に二時間話し、お客さんは誰もいなくなった。マスターであるおばちゃんは、コーヒーと一緒に手作りのりんご煮をくれてそれが美味しくてほっこりしていい人だなあとはおもったが、さすがに熱く話しているので、端から見ると、僕がいじめているようにか見えないのではと思い心配をしていた。
 帰ろうとして、領収書を切ってもらうと、領収書の判子が無茶苦茶かわいい手彫りだったので、話かけてみる。
「おばちゃん、この判子かわいいね」
「でしょ。自分でやったのよ。しかも40年前。しかも、カマボコ板で」
 やばい。いつもフィールドワーク的直感が働く。この人何か持っている。僕は話しすぎたことを謝ろうとした。
「おばちゃん、うるさくて熱すぎてごめんなさいね。迷惑ですよね」
 すると、おばちゃんはにこっと笑い、
「いや、あなたみたいな人、昔は一杯いたんだから。40年前の一番盛り上がっていたときなんて、今みたいにお客もまばらではなくて、満杯で、みんなが熱く議論していて、喧嘩して<、でも本当に楽しかったのよ。だから、いいよ、もっとやりなさいよ」
 この瞬間、零塾の拠点が決まった。これからはナジャでやる。徹底的に議論する。そして、喫茶店も盛り上げる。それは貢献できるかわからないが。
 そんな場所が現代でもちゃんとあるのである。動いていれば考えていれば見つけることができる。むしろ向こうから向かってくる。感銘を受けた。
 僕はこういう瞬間に場所に人に出会うことだけこそが、自分の才能なのではないかとふと思った。それを与えられているのだ、と。
 石川と別れる時に一応心配して、今、結構実はきついんじゃないのかと聞いてみた。すると、石川は「はい」と言う。本当は休みたい。しかし、卒業制作が29日にあるので休めない。作業するのも億劫になっているのかと尋ねると、それも「はい」と言う。
 困った時はおたがいさま。これが零塾の基本的な考え方なので、とにかくそういう時はちゃんと正直に面接の時に言ってくれとお願いした。で、卒業制作を一人でやるのはおそらく苦しいだろうから、ちゃんと応援団を投入しようと言った。誰か後輩でやってくれそうな人はいないのか、と。「いない」というので、それなら零塾メンバーと投入することに。昨日面接した東大生寺田くんは鬱病の友人のためにスペースを作りたいと言っているし、二年生で卒業制作の手伝いをするというのはとても貴重な体験、しかも他の大学であればなおさらと思い。電話すると、即答で「ぜひやりたい」と言ってくれた。さすが零塾生。テストが26日まであるので、27日、28日、しっかりと手伝ってもらうことに。そして、もう一人、国家公務員の神部くんもやってくれそうな気がしたので電話してみると、年休をとって来ますと言ってくれた。ありがたい。明日は僕と神部くんで手伝うことに。
 何で人は困っていることを人に伝えることができないのか。とはいいつつも、年に一度は創作中にとんでもないことになり、病院に送り込まれてしまう僕も、人に言えない。フーの前では泣いているけど。なかなか難しいのは分かる。しかし、零塾はそういうお互い助け合う共同体であってほしい。これは何か零塾の新しい方向性のきっかけになるかもしれない。石川に聞くと、零塾日記で書いてもいいと言ってくれたので公開することにした。駄目な時は駄目でもいいじゃないか。しかし、だからなんでも諦めていいわけではなく、駄目な時は人の助けを借りながら、絶対に自分がやるべきことは達成しなくてはならない。零塾は目的をそこに置いている。ただゆっくりしろ、諦めて、楽に生きろとは言わない。それは楽では無い方法だから。フーはいつも僕に言う。「苦しい時は止めてはいけない、諦めてはいけない。元気になって、それでも止めたかったり、諦めたかったり、するのではあれば、その時に判断しろ」と。苦しい時は、やっぱりやるしかないのだ。おそらく石川も自分の創作の根源的なところで躓いているのだと思う。分からんけど。だからこそ、やり切るために零塾メンバーを無償で投入することにした。僕はそれは可能性を秘めたことだと思っている。石川に明日は僕の家で、フーの美味しい御飯でも食べればと誘うと、来るという。なんだか動き出しているな。
 夜、築地本の編集を担当している井出くんと電話で話し、意見を貰い、もうちょっと修正することに。次は路上力と立体読書もかなり遅れている。今月は本当に仕事が遅い。
 2月1日午後1時から鎌倉の一花屋というお店でデザイングループ「生意気」とトーク&ライブをすることになった。

 2011年1月25日(火)。午前中、築地原稿の手直しをして送信。編集の井出さんはやはりいいなあ。僕がここ突っ込まれるかなあというところにちゃんと突っ込んでくれる。そうでないと。結構、そのまま放っとかれることもあるので、気付いて嬉しい。良い原稿とドローイングになりそうで、出来上がりが楽しみだ。
 午後1時に国立駅にて尾崎くんと待ち合わせ。零塾面接。今日から、零塾の拠点がナジャという喫茶店になった。ナジャへ行くと、マスターのケイコさんが笑顔で迎えてくれた。いやいやここは本当に落ち着ける場所だ。しかも40年前からあるのだ。しかもお客さんが少ない。。。どうにか貢献したい。国立へ行ったら、ロージナ茶房もいいけど、ナジャもいいですよ。
 尾崎くんは現在東京大学農学部の4年生。東京大学の大学院にいくことも決まっているという。いわゆるエリートである。そんな人が零塾で学ばなくてもいいのではと思いながら、話を聞く。始めは品種改良などの研究系の仕事をやろうと思っていたのだが、変化してきたのだという。最近では、地方へ行き、そこでの農業の在り方などに興味を持っているとのこと。限界集落にも興味がある。農業に関するフィールドワークをやりたいのかもしれない、と。話を聞いていると、なかなか自分がどこに進もうとしているのか定まっていないような気がしたので、そもそもなぜ農学部を目指すようになったのかを一つ一つ聞いてみることにした。
 環境問題に興味を持ったのが、小学生の頃。ドラえもんが出てきて環境問題について書いてある漫画を読んだのがきっかけだったとのこと。そこから理系に進もうと思う。高校に入り、東大の工学系に進もうとしたが、最終的には農学部にした。環境のことをやるなら、環境問題のそもそもの根源である農業や生物などを知る必要があると思ったから。池田清彦さんの影響も強いらしい。
 そこまで考えているのであれば、別に僕が関わる必要もなさそうだが、なんだか尾崎くんは悩んでいる。本をたくさん読んでいるというのだが、ではどんな本があなたの心に突き刺さったのかと聞いても、なかなか出てこない。それは本をたくさん見てはいるが、読んでいるんじゃないように感じられると伝える。最終的に、大学時代に一番影響を受けた本は、と聞くと、彼は、
「内田樹さんです」
 と答えた。僕はちょっと愕然とした。それはないのではと思った。もちろん、内田樹さんは素晴らしい書き手である。僕もたまには読むし、それにより、考え方を整体してもらったかのような気持ち良さはある。しかし、である。氏は独自の理論でものを書いているというよりは、先人の素晴らしい考え方をもう一度、みんなが忘れているから、思い出させるように、素晴らしいことは何度でも言う必要があるので、書いている側面が強い。つまり、内田樹さんに興味を持ったならば、まず次に取り組まないといけないのは、では内田樹さんの書いてあることの元は何なのか、誰なのか、ということだ。そこまで辿らないと、彼の書いてあることがきちんと伝わったとは言えないのではないか。しかし、人は本を読むと、それは氏の考え方だと勘違いしてしまうのだろう。僕は、尾崎くんにそこまで興味をもったのなら、ぜひもっと遡ってみたらと提案してみた。
 しかし、もっといないのか。僕の師である石山修武さんは、
「生きている人間の書いてあることは信用してはならない。後で修正する可能性があるし、全く違う考え方になるかもしれない。だから、死んだ人の本こそ読むべきである。それは歴史的に評価できるからだ」
 と教えてくれた。もちろん僕だって、生きながら本を書いている人間なので、もちろん生きている間に本を読んでは欲しい。しかし、やはり自分の指針となる本はやはり死んだ人から選んでいる。そういう人いない?と聞くと、しばし悩んだ後で、彼は突然閃いたように、
「そういえば宮沢賢治はずっと前から読み続けています」
 と言う。宮沢賢治。ようやくでてきた。それですそれです。しかも、彼は創作者であり、教育者であり、農業家でもあった。ここに、何か彼のこれからの仕事に必要なきっかけがあるかもしれない。そこで、宮沢賢治の全ての創作を読んでもらうことにした。そして、宮沢賢治の農との関わり方について評論している論文や本を10本見つけて、その中で一番自分が興味を持てた本を見つけなさいと伝える。しかし、最後に出てきてよかった。ナジャのケイコさんとも話し、尾崎くんと別れる。
 その後、上野駅へ。駅前で零塾生の国家公務員小説家の神部くんと待ち合わせして、東京芸大へ。建築学科の棟へ行き、石川と待ち合わせ。今日は、僕と神部くんでちょっと調子の悪い石川の手伝いをすることに。ほとんどやることはなかったのだが、色々と話をして、途中でカフェでビールを飲んで、上野駅を出る。今日は石川のことが心配なので、僕の家に連れて帰ることに。なんだか零塾も不思議な機関になってきている。フーの手料理を家族と石川と食べる。ちょっと話した後、ゆっくり寝かせる。
 僕はその後、部屋で月刊スピリッツの連載「路上力」第19回目に取り組む。2000字完成し、送信する。ずっと終わらなかった仕事たちが終了し始めてきたのでほっとする。あとは立体読書がまだ残っている。しかし、一月中にはなんとかなるかな。
 また零塾の入塾希望者からのメール。一体何人になっているのか。これはやっぱり誰かに零塾を手伝ってもらう必要があるかもしれない。以前、手伝いたいと言ってくれていた方にメールを送ってみる。北陸中日新聞の記者の方から、電話で路上生活についてのコメントを欲しいとの依頼。僕は、よく文化人が新聞に寄せているような電話コメントの必要性を感じないので断る。どうしてもとおっしゃってくれるのなら、ぜひ寄稿したいので原稿依頼をしてくださいと伝えるも、それはしないとのこと。電話で顔も知らないのに仕事をするのはあんまり好きではない。でも、新刊を読んでくれたようで面白かったと言っていただき、それはとてもありがたい。いつかまたちゃんと仕事しましょう!

 2011年1月26日(水)。朝、石川と食事をして、ゆっくりする。フーと石川が外出したので、僕とアオで立川へ行く。もちろん二人で、オリジナルグレーズドドーナツを食べて、ディズニーストアへ行く。高島屋のディズニーストアが閉店するらしく、二人で残念がる。その後、外で遊ぼうとしたが、無茶苦茶寒くて、僕にその勢いがなく、伊勢丹の玩具売り場で無制限で遊ぼうということに。午後2時から午後6時半ごろまで遊んだ。デパートの店員も、なんかこいつらデパートで一日過ごしてんじゃねえか、みたいな視線を送ってくる。ミキハウスのクラス募集するための営業のおねえさんが、入りませんか、こんなことできますよ、といって色々とおもちゃを出しては遊んでくれるので、アオが喜び、ずっと食い付いていたが、一時間ほど遊んだ後、僕たちがクラスには参加しないだろうと判断されると、もう帰って下さいと言われた。とほほ。
 その後、腹が減ったので、地下の食品売り場でおにぎりとコロッケを購入し、外のベンチで食べて、伊勢丹の向かいの古着屋から流れているヒップホップを聞きながら、アオが独自の踊りを開発しているので関心してみていた。自転車にのっていたおばちゃんまで気になったらしく、僕の隣に来て、一緒に見ていた。
 今日は僕は子守りだったが、昨日手伝ってくれた零塾神部くんは今日も石川の手伝いに行っているので、話を聞くと、ばっちり仕事が終わったらしい。人間調子が悪いときは、本当に単純な作業をするのも億劫になるので、神部くんはとてもありがたい。しかも、明日は東大建築生の寺田くんが助っ人で入ってくれるとのこと。持つべきものは零友である。ありがたい限り。なんだか金八みたいになってきたな、こりゃ。

 2011年1月27日(木)。朝起きて、原稿。仕事がようやく乗ってきている。ウェブサイトの整理もする。
 午後1時に国立駅にて間中くんと待ち合わせ。零塾の面接。もちろんナジャへ。コーヒーを飲みながら、話を聞く。間中くんはメールを読む限り、彼も零塾に行く必要がないのではないかというほどの活発な人であった。
 日雇い労働のばかりの10代を過ごし、その後、企業に就職。その間、スリランカ内戦地域での援助活動を始め、その後、企業をやめ、スリランカで起業するために、オーストラリアへ行き英語を学びにいく。企業は諦めたものの、もっと勉強をしたくて28歳にして慶應のSFCヘ入学し、社会起業家を目指している。
 だからしっかりと社会に対する問題意識も持っており、具体的な方法論も考えているだろう。僕は必要ないはずだ。しかし、面接始まってすぐに彼は、
「言われた課題が出来てなくて」
 と照れた。でも、自分で行動しているはずだから、問題意識も具体策もあるだろうと聞くが、
「それがはっきりしないんです」
 とのこと。ちょっと僕も意味が分からなくなってきた。しかし、社会起業家になりたいという気持ちはあるのだから、
「なんで社会起業家になりたいと思ったのか。そして、どんな社会起業家になりたいのか」
 と聞くのだが、それにも答えてくれない。どうやら、本当にそこが分かっていないらしい。
 これまで一年間ずっとインプットに集中してきて、今年はアウトプットしたいというので、この一年間で一番衝撃を受けたインプットはなんだったかと聞くと、それも分かりませんと答える。僕はちょっとびっくりした。おそらく、何事をやっても、全部、自分の身に沁みていかず、すーっと通り抜けていくのだろう。体験が身に沁みていかない。これは僕が最近の人たちに感じることでもある。やりたくてあるのではなく、こういうことやっていることは正しいことだ、という刷り込みから行動を起こしてしまうと、絶対に身に付かない。とても固い頭の思考方法、体験方法なのである。そこはちゃんと指摘し、改善するよう求めた。
 これまで怒られたことなどないのか、と聞くと、ちゃんと大学の先生たちは叱っているようだった。
 なんと言われているのかと聞くと、
「指摘したことがちゃんと反映されていない」
 と言われているらしい。直そうとしたのか、聞くと、直す気はあったとのこと。それが途中からどうすればいいのか分からなくなるらしい。僕はここらへんから心配になってしまった。そんな状態で、自分の力で起業家するという無謀なことに挑戦するのはとても危険である。しかも、彼は僕とほぼ同じ年齢の31歳である。どうすればいいのか。
 零塾に入る必要がないと思っていたのが、話を聞くにつれ、これは鍛えないと大変なことになるとおせっかいかもしれないが思い出した。というわけで、課題を出す。やりたいことが支離滅裂に5個ほどあったので、それぞれの問題の参考文献を洗い出し、その中から一番重要だと思う文献を挙げ、その理由をレポートしてくれとお願いした。ちゃんと今日、話したことはがんばって反映してくれとお願いする。
 しかし、不思議だったのは間中くんは、憶えられないといいながら、ノートを僕が言うまで一切取らなかったことだ。時間があるのだから、僕の本も図書館で借りて、一応読んでおいてほしかった。ちゃんと人が会うのだから、お互い興味を持たないと。
 うーん、現代は大変なことになっている。これまで放っておいた僕自身に対して問題を感じた。もっともっと零塾はやる必要があると思った。大学なんかに任せてられないのである。このままでどうする。ちゃんと飯食うにも大変な世の中なのに、挨拶の仕方とか、人との接し方とか、ノートの取り方とかほんと、そんな単純なことを教えないといけない状態になっているのかもしれない。しかし、諦めずにやることにする。だから、ちょっと今日は辛辣な文章を書いているかもしれませんが、これでビビらずに、どんどん零塾に来て下さい。そして、間中くんもがんばってください。
 その後、ナジャには僕とケイコさんだけになったので、二人で零塾について話す。ケイコさんがふと、
「今の人はね、師匠となる人がいないのよ」
 と言った。まさに僕が零塾やっているというのはそれなのである。塾生のみんなに共通することもそれである。
 本当に困った時に、助けるのではなく、叱咤激励してくれる人、まさにその人、先人、師匠、父性がいないのである。
 とにかく、やりますので、ケイコさんこの場所、いつも使いますんでお願いしますと言うと、アメリカンおかわりあげるよ、とケイコさんはコーヒーをくれた。
 石川も昨日の夜、僕に向かって、
「坂口さんは、石山修武さんみたいな師匠がいるからいいんですよ。でも、私にはいないんです」
 と言葉を投げた。それは本当の叫びなんだと僕は理解した。
 で、僕が師匠になり得るのか?
 僕にはその答えはまだでてない。

 2011年1月28日(金)。熊本日日新聞月に一度の連載「建てない建築家」第1回目の原稿を書く。2000字ほど。書き終わり送信。生まれ育って、毎日読んでいた新聞に半生記を書くのはとても感慨深い。自分が出会ってきた色んなことや人を新聞の中に詰め込みたい。普段では表を出すことのないような事柄なんかもデーンと発表したいと思っている。この連載は僕としても実験をしてみたいので、大いに楽しみである。
 零塾の入塾希望のメールは本当に毎日一通は必ず来ている。それぞれみな面白いことを書いてくる。今日の人も面白そうだ。
 江上さんという30歳の男性。大学で社会学を専攻し、そこでベンヤミンのバサージュ論やルドルフスキーの「建築家なしの建築」、アーキグラムの「プラグインシティ」などを研究し、都市と人々の集合的記憶などに関心を持つ。
 その後、イギリスの美術学校と大学院へ通い、文化人類学を専攻。そこでマルセルモースの「贈与論」やアナーキスト人類学者デビット・グレーバーについて学ぶ。さらに、様々な社会活動を行っているという。
 そして、学んできたものを形に変え、社会と接続して、伝えていきたい。その方法論を零塾で学びたいと書いてきている。
 いやいや、零塾には本当に色んな側面からのあらゆる才能が集まってきているように思える。僕は塾生たち全てから、しっかりと学んでいる。
 これはみんなにとっての私塾なのではなく、僕にとっての0円の私塾、つまり零塾なのである。
 午後1時に国立駅へ。サキさんと会う。いつものようにナジャへ。零塾面接を開始する。サキさんは現在、沖縄で暮らし、大学に通っている。卒業後は地図を制作する会社に就職することが決まっているという。彼女の言うこともこれまた非常に興味深かった。
「今、住所不定なんです」
「というと?」
「家って本当に必要なのかと思いまして、引き払ったんです。それ以後は、友人の家やゲストハウスなんかを渡り歩いて暮らしています。ものにも執着しない性格で、所有欲がほとんどないので、これでも十分生きていけます。シェアの精神でやっているのです。友人の家では、泊めてもらうかわりに、食事を作ったり、掃除をしたり、友人が多いので、友人同士を繋いだりしています。自分自身がみんなシェアするための拠点になればと思っているんです」  彼女はもう既に、自分自身の身体を使って、実験し、フィールドワークを実行していた。
「そして、今度就職するので、会社から部屋を提供されるんです」
「それをシェアしてみたら?」
「そうなんです。部屋を時間で制限はするけれども、どんな人が使ってもいいシェアスペースにしたいんです」
 彼女のやることはかなり明確に決まっていた。
 それでも、ただやるのでは意味がない。それが個人ではなく、誰でも可能で、さらに社会にとって必要なスペースであることを示したい。そこで、僕はシェア文化についての研究も、その実践と同時にやってもらうことにした。今、僕のドキュメンタリー映画を撮ってくれている映画監督の本田さんがクリス・アンダーソンの「シェア」という本が面白かったといっているのを思い出し、その本を読んでもらうことにした。後は、江戸文化。江戸はシェア文化に包まれていた。だからこそ、そんなに必死に働かなくても生きていけることができた。リサイクルの精神も豊かだった。江戸と現代のシェア文化をミックスして、さらに自分の体験を踏まえ、一冊の論考を書いてみようと提案してみた。彼女は納得し、それでいくことにした。
 いやいや、毎日、面白い人間たちが集まってくるもんだ。その共有スペースとしてこのナジャがある。
 帰り際、ナジャのマスターのケイコさんが、
「面白い娘だねえ。女は三界に家なしっていうからねえ。仏教なんかも調べたら、いいんじゃないの」
 ナイス、ケイコさん。このように零塾は香りのように、色んなところへ散らばっていく。
 その後、フーアオと待ち合わせして、古道具屋LET'EM INへ。食器棚のいいものがないかといつも寄っているのだが、なかなか見つからない。と思ったら、なんだか感じの良い食器棚があるではないか。しかも値段が以上に安い。サイズを測ったら、ぴったりだったので、即断し、購入。無茶苦茶可愛い棚。しかし、僕が今作っているモバイルハウスよりは高い値段。そういう自己矛盾の中で生きている。とほほ。まあ、でもフーは満面の笑み。
 河出書房の坂上ちゃんより「原稿早く!早く!」というので、家に帰って、急いで書く。12枚書いて送信。
 塾生の寺田くんと電話。石川の展示は無事に完了したとのこと。これで一安心。あとは石川、ゆっくりしてくれー。
 春秋社の篠田さんより連絡。いい子なんだけれど、なかなかスポットライトが当たらない「一坪遺産」君が、テレビで紹介されるとのこと。しかも紹介者は明川哲也さん!高校時代の憧れの人である。この人を見て、僕は生き方に色んな幅があることを自覚した。ああ、嬉しい。
 高校の同級生から連絡。自分が教えている高校でぜひ講演をしてくれとの依頼。しかも、秘密裏で。もちろん、乗った。彼女が教えている高校は色々と大きな問題を抱えているようで、話を聞いているだけでなんだか大変そうだ。だからこそ、人から見たら、どうやって食っているんだ、訳の分からないといわれてばかりの僕だと、なんかいいかもしれないということらしい。先日、金八と書いたが、本当に金八みたいになってきたなこりゃ。しかし、初めての学校訪問。僕はこれがやりたかったので、無茶苦茶楽しみ。二月に実行する。秘密で。

 2011年1月29日(土)。午前中、原稿。河出書房書き下ろし本。4000字書き終わり送信。
 その後、外出。駅前で宮崎さんと待ち合わせ。いつものようにナジャへ向かい、零塾面接。彼女は広告代理店でコピーライターをしている。面接を始めると、いつも会社で実践しているのだろうか、プレゼン用のような数枚の紙を僕に見せながら、自分が感じている問題意識、そして、どのような具体策で解決していくかを語ってくれた。
 彼女は、子供が置かれている現状の環境に危惧を示していた。そして、子供らが集まれるような寄り道をする場所を作りたいと。そして、実家のある香川で自ら実践していることを話してくれた。香川の高松も空襲の被害を受けていて、それを言い伝えていこうとしている70歳代の男性に中学生の頃から影響を受けていて、その手伝いをしているという。そこまでやっているのなら、それをどうやって広げていくかを零塾でやろうとしているのだと僕は感じ、そのことについて考えていた。しかし、それはもう彼女は実践ができている。 あれ、不思議だなと思っていると、あるファイルを出した。
「実は、本当にやりたいことは、ですね」
 そういって見せてもらったファイルには、いくつかの短篇小説、詩、そしてこれから取り組もうとしている長編小説のプロットが書かれていた。
 そして、ミヒャエル・エンデ、ケストナー、トーベ・ヤンソン、宮沢賢治の名前を出し、彼らに影響を受けて、幼い頃からずっと文章を書いていて、コピーライターになった今でも、作家になってこどもから大人まで読むことができる小説を書きたいという思いが、日増しに強くなっているとのこと。
 また、大学では文化人類学を学び、ブッシュたちがなぜ戦争をしないのかということを文献を通じ研究し、卒業論文を書いたりしていたそうだ。
 そこで、僕は神話について研究している研究者たちの本をまず、とことん読んでもらうことにした。レヴィ・ストロースやジョセフ・キャンベル、エンデであればシルビオ・ゲゼルも。最近、週末は図書館に通い詰めて本を読みまくっていると言っていたので、そんなに大変なことではないだろう。本を読み、感銘を受けた章を取り上げ、それの要約を書いてもらうことにした。
 その後、フーアオがナジャに来て、ケイコさんに挨拶。宮崎さんも一緒に四人で上野へ行くことに。
 上野駅で塾生の神部くんと待ち合わせ。5人で東京芸大の卒展へ行く。建築科の石川の展示を見に。昨日まで塾生の寺田くんが手伝ってくれた展示は、ちゃんと出来上がっていてほっとした。石川もほっとしている様子。その他、展示をいろいろと見て歩く。
 卒展が終わると、みんなで谷中ボッサという喫茶店へ行き、喋る。アオも楽しそうだ。
 家に帰ってきて、石川と電話をする。まだ体調が悪く、しかも、就職が決まったばかりなので、零塾に入るのではなく、まずは会社で頑張ってほしいと伝える。零塾は僕は一生やる予定なので、いつでも入れるわけで、まずは自分の激動する周辺の環境を整えてほしい。石川も納得してくれた。
 夜、河出書房ののうえちゃんから「零塾ハマりすぎです。ちゃんと原稿書いて下さい」ときっちり釘を刺される。そりゃそうだ。

 2011年1月30日(日)。午前中、スペクテイターの遅れていた立体読書の絵をようやく描きはじめる。案は浮かんだ。しかし、まだまだ手は動かない。
 お昼は、ナジャにてアーティストの工藤さんと打ち合わせ。来年9月に実地される向島でのアパートを再生するアートプロジェクトでのトークイベントの依頼を受ける。なぜアートで街を再生しようとするのかということがなかなか僕には分からないところがあったので、そして、もしもアーティストがトークをするのなら僕よりももっと適した人、つまりアーティストや美術評論家などがいるのではと勝手ながら提案。ちょっと僕の件は保留することにした。
 トークショーを企画してくれるのはありがたい。しかし、毎回、なぜそれを今やる必要があるのかは問うていきたい。そこに納得して、しっかりと仕事をしたいと思うからだ。そういえば、筑波でのトークイベントを依頼されて、もうちょっと練ってくれとお願いした若者からはあれ以来、連絡がない。あと、早稲田大学で師匠石山修武さんとのトークセッションを企画した若い建築学生からも連絡が途絶えた。おーい、がんばれ若者。というか、今どうなっているのか連絡してくれよ。
 ロンドンにいるコブケンこと古武家賢太郎くんから何年ぶりかのメール。相変わらずロンドンで頑張っているようで、頼もしい。4月にオランダに行った際にはロンドンにも行ってみようかなと思案する。今回はフーアオもオランダに連れていってみようかなとも考えている。毎回、海外で素晴らしい仲間に出会い、美味しい料理を食べて、幸福を感じているとき、スチャダラの「彼方からの手紙」じゃないけれど、「あー、あいつらもここにいればなあ」と思うので、今回は連れていきたいなあと。
 夜、太田出版の梅山くん(彼は月末で会社をやめてフリーになるのだが)から連絡があり、劇作家、小説家である岡田利規さんが主宰しているチェルフィッチュの新作を見てきたのだが、そこに「レイヤー」という言葉や、空間についての考え方が出てきていて、僕との接点が見えてきているとのこと。それはとても興味深い。これまで、かなり人間の身体に興味を持っていた岡田さんであるが、前々回の「わたしたちは無傷な別人であるのか?」で僕は身体というよりも、人と人の間の空間、空気のようなものにシフトチェンジをしてきたなあと思っていたところでもあったので、色々とシンクロして、梅山くんが打診してきた、岡田利規さんとのアフタートークを快諾した。しかし、それはとても緊張する。詳しくはトップページを見てください。今回の新作も本当に面白そうなので、みなさんもぜひ観に行きましょう。

 2011年1月31日(月)。今日は朝からずっと家で、立体読書のドローイング。題材は堀辰雄の「水族館」。浅草六区がすんごい盛り上がっていたころの話。ようやく構図が頭に浮かんできたので、絵を描きはじめる。ぐんぐん進んで、午後5時頃描き終わる。これでようやく一月の仕事を全て終了した。とか言っていたら、一月が終わっちゃった。しかし、最近は仕事の量も増えてきて、零塾生も増えてきて、執筆以外にも色んな事案が蠢いて、トークショーも多くなっている。それでもまだキャパオーバーではないのだが、全体的に時間がかかるので、仕事も遅れ気味である。いかんいかん。計画表を書き直し、二月からに備える。二月が肝なので、ちゃんとやらねば。三月は映画撮影、四月はオランダ、五月はロサンゼルスでの展示、六月は3331での個展と続くので、二月にちゃんと働かないと大変なことになりそうだ。
 夕方、バサラブックス店長のセキネがやってくる。僕の家にある本を整理したので、その大半をせきねが持っていってくれることに。アオはセキネが大好きなので、二人で勝手に遊んでもらって、僕はその間、仕事をしていた。その後、写真家のナンペイがやってきて、先日のユトレヒトでの展示物を持ってきてくれて、その次いでに吉祥寺のバサラブックスまで本を届ける。
 その後、ナンペイと西荻まで行き、風神亭で一緒に飯を食べる。

アオが仕事をしたいと叫ぶので、書斎を作ってあげた。

 2011年2月1日(火)。朝から外出。フーアオ揃ってお茶の水へ。順天堂病院へ。アオの定期検診。問題無し。その後、僕だけ鎌倉へ。江の電にのって長谷という駅で降りると、ゴウくんが待っていてくれて、彼に連れられ一花屋というカフェへ。今日は僕と生意気のトークショー。平日の昼間にもかかわらず60名以上の人が集まってくれて、お店はてんてこまい。最高動員数を超えたという嬉しいニュースを聞かされた。ありがたい。
 生意気の二人が、渋滞で遅刻していて、それでもたくさんのお客さんが待っているので、とりあえず僕がまず話をすることに。一時間ほど。このカフェ、古い民家を改装しており、ガラス戸の向こうはお庭だし、無茶苦茶雰囲気が良く、気持ちが良い。平日だろうと関係ない人間ばっかり集まっていて、そのエネルギーも強く感じた。録音技師の塚田さん、ペドロコスタ氏と会った時にお世話になった畠山さんも来てくれていた。
 その後、生意気のデビットとマイケルも集まり、三人でトーク。デビットはデザインから今はガーデニングへ向かっているそうで、そうやって、今みんなが変化しているのだということを知り、とても興味深かった。その後は、みんなでギターを持って、歌った。
 この変なトーク&ライブ、やっぱり面白いかもなあと思う。
 トーク終了後も、来てくれた人たちととにかく話す。ゴウくんとも意気投合し、一緒になにかできそうな気がした。NHKエンタープライズのプロデューサーをやっている窪田さんとも初対面し、色々と話す。こちらも何か一緒にできるといいですねと話し、みんな駅まで送ってくれて、僕は塾生のなつめさんと一緒に帰る。いやいや、良い時間、楽しい人々、美味しい御飯でした。香取という無農薬の日本酒まで頂き(これ、本当に美味です!)、家に帰ってくる。5時間ほど、話し歌ったので、疲れてそのまま眠る。

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 2011年2月2日(水)。午後1時に国立駅前で岡島さんと待ち合わせ。ナジャにて零塾面接。岡島さんは新潟で家事手伝いをしている43歳の男性。家である時思い立ち、執筆を始める。現在3部作の第2部まで仕上がっている。で、中身を見せてもらうと、かなり興味深い内容。しかし、ヘンリー・ダーガーになってしまっているように僕には見えた。可能性はあるが、同時に自閉してしまっている。ぜひ、歴史を紐解いてもらって、自分なりの道、星座を作ってみたらどうですか、と提案してみた。本を書いているのに、本を読めないと言っていたので、そこをどうにか乗り越えてもらいたい。いやいや、しかし、世界には色んな種類の人間がいるものだ。ここまで零塾をやってみて、同じベクトルを向いている人が全くいない。それは当たり前だといわれるが、今の社会の在り方と照らし合わせると、有り得ないことである。岡島さんに柿チョコと柚子味噌を頂く。味噌を食べてみたが、これが美味でありがたい。
 その後、ナジャにフーアオがやってくる。ケイコさんはフーのことが大好きになったらしい。フーアオと国立を散歩する。フーのベルギー製のスカートなどを購入した後、ツタヤで「ニューヨーク8番街の奇跡」のDVDを借りて家に帰ってくる。
 この映画は、僕が9歳の時に、親に映画館に連れて行ってもらい観た。それで今でも鮮明に記憶している映画の一つなのだが、今見返すと、僕が今やっていることとほぼシンクロしてビビった。スピルバーグの影響が実はかなり強いのではないかと気付く。
 夜、尾道のいっとくグループ社長、大将こと山根浩揮から電話があり、今、東京に来ていて、恵比寿のちょもらんま酒場で飲んでるから来いと指令をもらい、すぐに外出し、恵比寿へ。大将と田村さんと三人で飲む。大将とは、僕が18歳の時に、原チャリで日本縦断している時に、たまたま出会い、意気投合し、居候させてもらって以来の付き合い。僕にはこういう偶然出会った今でも付き合う親友がけっこういる。そういう人たちは、今でもありえないくらい成長し続けているので、とても刺激になる。僕が大将に初めて出会ったときは、多額の借金をして初めての店を持ったばかりの22歳で、今やとんでもなく稼いでいる居酒屋グループの社長になっている。しかし、精神は、自分の家の自分の部屋で、古着屋をやっていた、ブリコラージュ根性たっぷりで、会うといつもほっとし、そして刺激を受ける。
 その後、大将と二人で国立へ戻り、barHEATHへ。今日はマスターがいなくて、性別不明の不思議な方がカウンターに座っていた。スコッチを飲む。で、盛り上がり、ずっと飲んでいた。やっぱりこのbarは最高だ。大将は僕の家に泊まる。

アオの新作「まち」。クオリティが上がってきている。

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 2011年2月3日(木)。最近、なんだかずっと人と会っていたので、今日は一日、家に引き蘢り、仕事に専念する。
 立体読書と築地のドローイングを郵送し、立体読書の原稿を仕上げる。送信。その後、復刊する朝日ジャーナルのための原稿「路上の幸福論」3000字に取り掛かる。完成し、送信。週刊朝日の中村さんから返信。初めての仕事だったが一発オッケー。よかった。熊本日日新聞の連載の原稿の返信。こちらも初めての仕事だったが、こっちは第一回目なので、過去ではなく、今やっていることを書いて下さいと言われ、つまりボツ。まだ締め切りまで長いので、もう一度やり直すことに。
 その後、河出書房の書き下ろし単行本。こちらは5000字、勢い余って書く。結構、辛口だった坂上ちゃんがいい調子ですと言ってくれたので、ちょっと安心したのか、書き進められている。もう18万字になる。一体、どこまで行くのか分からず。ということで、初めての面接で、スーツを着てきて、ちょっと大変で心配になっていた武藤くんが、ちゃんと数日後仕事を見つけ、そして、自分が目指すところへ向かっていっている。そのための企画書まで送られてきて、なんか本当に嬉しくなった。零塾としての自分の役目を最近、少しずつ自覚、知覚していきつつある。

コタロウからもらったウッディ人形は、帽子が無かったのだが、フーがフェルトで作ったというので見ると、こちらもクオリティが高くてビビる。どう考えても、僕よりも才能があるようにしか見えない。しかし、フーは年間3つぐらいしか新作を作らない。なので、僕が働かないといけない。つまり、僕はコントロールされているのかもしれないとふと思った。アオは歓喜の雄叫びをあげていた。まさに「買うな作れ!」の具体例である。グッジョブ。

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 2011年2月4日(金)。午後2時半からナジャにて零塾面接。大学3年生の鈴木くん。村上龍研究をしたいとのこと。しかし、その理由となっているのが、自分のトラウマの話で、それが活動の動機となっているらしく、それではうまくいかないのではないかと説明する。トラウマを克服させるために作品を作ることは不可能だと僕は考えている。自らの思いを解放させるために作品を作って、誰の心に届くだろうか。そこはちゃんと抑制しなさいと伝える。それは他の零塾生にも言えることだが、それだけはやめたほうがよい。それはこれまでの歴史を見れば、一目瞭然である。創造は解放のためにあるのではない。社会のためにあるのである。一応、分かりやすく説明したつもりだが、うまく伝わっただろうか。しかし、よく勉強しているようなので、そこはとても可能性があると思う。がんばりましょう。
 その後、同じくナジャで「Robinson」会議。目次を今、練っているのだが、少し軌道修正。僕の色をもう少し濃くしてみることにした。うまく実現すれば大変なことになるであろう、企画も中に取り入れた。近日中にまた再構成して、提出することを約束し、立川へ。
 立川シネマシティにて映画を観る。バサラブックスのセキネから頂いたチケットで「ソーシャルネットワーク」を観る。
 僕は最初から最後まで引き込まれてしまった。そして、大いに共感してしまった。facebookの黎明期についての映画であるとの前情報だったが、内実は全く違う。もちろん、登場人物も会社名も本名なので、facebookのことを取りあげていることは間違いないのだが、SNSというものが一体何なのかというようなネット時代の人間の考え方の詳細なディテールなどは全くない。帰ってネットで調べると、監督はfacebookの創業者に会ってもいないという。だから、ほとんど関係ないものとして捉えたほうがいいんだろう。で、僕はただ映画を観て見入ってしまった。
 ザッカーバーグがショーンと二人でクラブの中でダンスミュージックがガンガンかかりながら、話しているシーンが無茶苦茶よかった。あと、校長が、ザッカーバーグの不正を訴える双子兄弟の申し出をばっさり聞かないシーン。共同創立者のエドゥアルドが、勝手に口座を凍結し、家に帰った後、狂った彼女からなんでfacebook上で彼女がいないことになってんのよ、とキレられた時に、設定の変更の仕方が分からないと困って本音を吐いたシーンなど、恐らく事実は全く無視して映画を作っているくせに、妙にリアルな描写が印象的であった。ただの映像的な描写というよりも、立体的、空間的な描写であったのも特徴的。ショーンの俳優がすごかった。
 主人公は人と共感できずに、ひたすら自分のことを喋り続け、創作をし続ける、ほとんど病気の人のように描かれるが、僕には全く病気に見えなかった。むしろ、彼だけがまともに感じられた。
 共同創立者のエドゥアルドは一番始めは冴えたまともなやつなのだが、途中から、変に階級社会に憧れたり、ショーンの自由奔放な才能に嫉妬したり、最終的には、自分が贈与したことを感じてもらえなかったらと口座を凍結するというただの欲の塊になる(その中で、先述した設定の変更が分からないという「まともさ」が最後に出るのも興味深い)。で、追放される。ザッカーバーグはまずエドゥアルドにとても共感していたから、相手のある種のまともさに気付いていたから彼に協力を求めた。それをエドゥアルドは、自分がザッカーバーグを助けたんだと勘違いしている。彼はザッカーバーグに助けられているのに気付けない。
 それは現代社会では「普通の感覚」「常識」と呼ばれるが、僕からしたら狂気としか思えない。人の才能に気付きながら、エドゥアルドは常識という実は狂った世界から見ればザッカーバーグの才能が気付かれないことをずる賢く察知し、協力する。そんな複雑な人間の精神を映画として描いていて、それは人間の心理をキュビズム的に表現していて、そこがいい。
 カリフォルニアに移住してきたしょっぱなの屋根の上から滑車で降りて遊ぶシーンのカメラワークもいい。デビットホックニーのプールの絵と、モロッコのホテルの中庭の絵がミックスしたような、キュビズムと中国絵巻の論文で書いていたようなシーン。シーンの絵自体もいいが、その自由な空気感も体感できてよかった。
 テーマは「まともさ」。というか常識に対する虐待映画? そして、映像の中国絵巻的立体感と、深層心理のキュビズム化。それらが混在一体となっている映画なのではないかと僕は感じている。この「まともさ」は、常識ばかりを何も考察せずに信じている狂人ばかりの現代ではなかなか理解されない。校長が親父のコネを使ってずる賢くザッカーバーグの不正を訴える双子の言葉を全く耳に聞き入れず「他人に雇われるのではなく、自分で仕事を作れ」と怒鳴る。怒鳴っても、彼らは理解できない。校長が狂っていると思ってしまう(実在のこの校長は困った人らしいが)。僕として、ショーンっぽい昭和的人間にちょっと共感してしまうところがあるので、見入っていると、最後にコカイン所持で捕まってしまうので、「まともさ」を追って見ていくと、それが教訓に思えた。ショーンの「まともさ」も徐々に常識的なものになっていく。原因は金だ。金がない時のショーンは輝いていた。先日読み始めた「世に棲む日々」の吉田松陰の松下村塾も0円だったことを知り興奮したが、やっぱり0円でやり続けようと心に誓う。
 なんか分からんが、珍しく映画を観て興奮した。最後に女の子に執着しているようなシーンがあるが、あれも僕はトラップのような気がした。別にザッカーバーグは女の子にモテたいからやったのではない。本当にまともなものを作りたかっただけだ。で、食事の席でザッカーバーグに対して、知っているくせにfacebookなんて知らないと言った彼女のまともさにむかつくけどほっとしたはずが、最後にはfacebookに入っている。なんだこいつも狂人なのか、というシーンに僕には思えたのだが、そう考える僕はもしかしたら病人なのかもしれないから、この映画評はあんまり参考にはならないかもしれない。

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 2011年2月5日(土)。今日は朝から家で仕事。原稿。河出書房書き下ろし。10枚書いて送る。
 午後になって、購入した食器棚が運ばれてくる。一緒に手伝って、搬入していたら「ゼロから始める都市型狩猟採集生活、面白かったです」と突然、店長さんが言ってくれてびっくり。しかも、DOMMUNEも観ていてくれていたらしく、嬉しかった。といいつつも、僕は家で仕事をするときは、パジャマじゃないと書けないので、ずっとパジャマなので、恥ずかしかったが。古道具業界も都市型狩猟採集生活と言える。そういうこともあり共感してくれたとのこと。なんだか新刊「ゼロ活」は本当にがんばってくれているなあ。色んなところで反響を頂いている。ありがたい限り。
 夕方、水道橋駅にて零塾生武藤くんと待ち合わせ。今日は武藤くんが以前在籍していたボクシングジムの日本タイトルマッチがあるというので、武藤くんと一緒に後楽園ホールへ観に行くことに。しかも招待してくれた。今回だけは僕も甘えさせてもらうことに。でも、零塾では基本的に何かもらったりすることはしたくない。ゼロでなくなってしまうので。武藤くんは、面接時はニートのような状態だったのだが、その後、ちゃんと仕事を見つけ働き出した。そして、次に自分が一番取り組もうとしているボクシングについてやっていこうと試みているところである。顔がしゃきっとしてきて、それを見て、僕は単純に嬉しかった。ボクシングの試合というのは、テレビ中継されるのはメインイベントだけで、前座の試合などはほとんど観ることができない。それをUSTREAMでやってみたいというのが武藤くんのアイデア。
 実際に、僕も初めて前座の試合を観るのだが、これがなかなか面白い。というかボクシングってこんなに面白かったんだと驚く。やはり現場で観るのが一番だが、USTREAMで4回戦や6回戦の選手たちのハプニングも多々ある試合を観れるのはとても良い試みだと思う。ボクシングの選手というのは地方出身の人が多く、ということは地元に応援してくれている人がたくさんいるはず。しかし、彼らは東京に来ないと試合が見れない。その人たちに届くだけでも意味のあることではないか。有り得る提案だと思った。
 タイトルマッチは負けてしまい、武藤くんは残念そう。二人で久々に「くるみ」へ。広島風お好み焼き。ちょっと味が変わったかな?
 武藤くんと次の課題を考える。彼はちゃんと締め切りに間に合わせて企画書を書いてきた。面接でぼーっとしていた頃が信じられないほどちゃんと書いている。やはり、人間、自分がやらなければいけないと使命を感じていることだけは、ありえないほど力も出るし、実現することができる。おそらくこの企画書だとちゃんと通過するだろうと僕は思ったので、課題はクリア。しかし、企画書は企画書。それ以外に、次はどういう構成でいくのかを、もっとクリエイティヴに考えていく必要がある。どういう撮影をするのか。実況は誰がするのか。副音声で誰か面白い人にやってもらったりするのか。選手たちのデータなどをどのように紹介するのか。ただ試合を中継するだけでいいのか。どうやってこの番組を広めていくのか。
 来月までにそのようなことを厳密に考えてもらうことにした。ボクシングジムでトレーナーをやっていた時に、同僚だった友人がアマチュアだが、カメラのことに詳しくお願いしてみたいとのこと。このように、やるべきことを知ると、自分の周りにいる友人たちが大きな財産に見える。彼らとおおいに語り合える。社会の愚痴なんか言っている暇はない。どうすれば実現するのかをとにかく真剣に議論しあえるのだ。
 なんだか、武藤くんの力が湧いているように見える。今まで無茶苦茶心配してきたが、今日の話を聞いて、心配することを止めた。もう進めるような気がする。後は、ここから細部をみっちり厳しく追及していこう。ここからが重要です。

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 2011年2月6日(日)。お昼過ぎに戸塚へ。フーアオとメイとユメとあやっぺとまっちゃんとフー母と食事をする。義理の兄であるまっちゃんが来週から二年間ほどシンガポールへ転勤するので、お別れ会。その後、子供たちと遊ぶ。零塾入塾希望のメールがまだ届いてくる。山形からのメールも。そういえば、山形に12日に行くので、そこでも出張零塾できるじゃないかと思った。チェルフィッチュの新作で岡田利規さんと対談するのだが、その前に、ちゃんとチェルフィッチュを見ておこうと思い、9日にも行くことに。翼の王国の卓ちゃんから電話。5月頃インドネシアに行かない?とのこと。はい、行きます。またまた翼の珍道中が実現しそうだ。楽しみ。しかし、4月二週間オランダ、ユトレヒト、5月上旬ロサンゼルス、下旬インドネシアって、日本の仕事大丈夫かな?と少し不安になる。

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 2011年2月7日(月)。朝から戸塚を出て、多摩川へ。集英社すばる連載「モバイルハウスのつくりかた」のための作業。今回はモバイルハウスにペンキを塗る作業。ペンキを塗るって簡単そうに見えるが、ちゃんと綺麗に外壁を塗っていくという作業は、実はかなり難しい。ロビンソンに笑われながら、教わり、少しずつ上達していった。午後3時までかけて働く。
 ロビンソンに、千葉での0円ヴィレッジ計画を話をしたら、本当に興味を持ってくれ、それは絶対に実現すると断言してくれた。求められている、と。ロビンソンの優しい言葉に勇気が湧く。千葉市長への企画書も早くやらねば。3月中には必ず提出したい。
 その後、渋谷へ。電子書籍出版社を立ち上げた内藤さんと河出書房の坂上ちゃんと待ち合わせ。TOKYO0円ハウス0円生活の英訳、仏訳について色々と意見交換。今、映画という大きなプロジェクトに合わせて、そこを幹として様々な試みをやっていこうと計画を立てている。その一つが、著書の翻訳を電子書籍化することである。内藤さんは女性一人でそれをやってみたいと言ってくれた。英語とフランス語の翻訳家でもあり、法科大学院を出た法律の研究者でもある。僕はずっと海外で活動をしてきたが、そこで、限界も感じていた。自分の力だけでは思想を世界中に広めていくことが困難なのである。それは言葉の問題もあるし、それぞれの国の状況などを把握しながら行動するというようなリサーチが全くできていなかった。
 日本ではここ数年で、僕は自分なりに仕事をする方法論を確立してきたと思う。周りにいる編集者などの協力者も信頼できる人たちが集まってきている。そんな中で零塾も始めることになった。そして、次に僕が取り組んでいきたいのは、世界中に向けて発信することである。展覧会はこれまで少しずつ実践を重ねて経験を積んでいった。芸術の世界では一つの可能性を感じた。しかし、もっと広めていきたい。で、それはやはり電子書籍でやるべきだろうということだけは感じていた。
 それがようやく実現のためのスタートラインに立てた。しかも、それを映画が海外で上映されることと連動させていく。
 これは必ずや、とてつもないことになるだろう。という確信がある。
 その後、磯部涼が渋谷にいたので、一緒にシロクマへ行き、飲む。その後、王将の横のさつまやへ。で、途中からササオとフリーになったばかりの梅山景央も参戦。途中でササオは帰り、残った三人で虎の子食堂へ。で、スゴい飲んだ。飲み過ぎてしまって、ヒートアップしてしまい、磯部涼といつものように議論白熱し、それはとてもよかったのだが、やりすぎてしまい、反省。朝、多摩川へ。

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 2011年2月8日(火)。朝、多摩川で製作中のモバイルハウスの中で眠りにつく。その後、磯部涼にごめんと電話で謝る。午前11時に仕事開始。ペンキ塗りの続き。
 午後3時頃、ほとんど全て塗り終わる。ロビンソンは電気系統を整備してくれた。これが本気でやばかった。なんだか、スゴい家ができている。オリーブ少女でも住めそうな可愛さも同居している。こんな家が市民農園に建ち並び、住宅兼畑の月額700円ヴィレッジが出来たらと思うと、興奮した。しかし、実現まではまだまだ長い時間がかかるはず。まずは吉祥寺で駐車場に住んでみよう。少しずつ少しずつ。焦らずに行こう。32歳になったら、焦りがなくなった。もうどうでもいいと思えるようになった。
 その後、大ちゃんのところでちょっと話して、高校の同級生の小島さんと喫茶店で話をする。彼女も面白いことを企てているのでとても興味深い。お互いがんばろ。
 家に帰ってくる。
 さすがに今日は疲れた。

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 2011年2月9日(水)。朝から原稿。あと、来月クランクインするTOKYO0円ハウス0円生活の映画のための美術図面を描く。僕は原作と美術を担当する予定。先日、ソーシャルネットワークを観て、やはりハリウッド映画が面白いなあと思っている。一昨日、磯部涼とも話したのだが、今、芸術が社会とちゃんと接続し、突き刺さっているのは、ハリウッド映画ではないかと思っている。今回の映画化は、海外への出品も当然考えられているようだが、それと併行して、こうなったら自分でハリウッドに売り込みに行ってみようかという妄想が、アオを公園に連れていきながら、思い立ち、アオと二人で興奮。
 電子書籍をお願いしている内藤さんに「ゼロから始める都市型狩猟採集生活」の翻訳者を探して欲しいと依頼。太田出版にも妄想を話す。しかも、ちょうど5月に僕はロサンゼルスでの展示があるので、ハリウッドに行くことができる。で、妄想としては、タランティーノ氏とデヴィット・フィンチャー氏に会えないかと。今回の僕原作の映画のプロデューサーが、タランティーノ作品のプロデューサーということもあり、お願いすれば、不可能ではないと思っている。なんてね。たぶん、これは妄想。しかし、大事な妄想だと思っているので、ここに書き記しておく。
 今月の18日に、またまたトークショーをすることになった。18日の午後6時から青山の「月見ル君思ウ」にて開催される「グレイトフル・ポップ」という音楽イベントの合間に開催されるとのこと。参加者は、僕と映画監督の入江悠氏、詩人の佐藤雄一氏、音楽家のtomadの四人。一体、どんな接点があるのか、僕は全く分かっていません。tomadは仲が良いけど、他の人とは会ったこともなければ、作品も見たことがないので、不安なので、さっそく調べないと。しかし、今月は異常にトークショーが多い。さらに、毎日、零塾やってるし。話してばかりだ。話すのが一番好きなので、それはそれで良いのだが、話してばかりだと馬鹿になってしまうのではないかとも思っている。
 夕方、外出。横浜みなとみらいへ。神奈川芸術劇場へ。チェルフィッチュの新作公演「ゾウガメのソニックライフ」を観劇。これがこれがよかった。明後日、主宰している劇作家の岡田利規さんとアフタートークがあるので楽しみ。しかし、今日観ておいてよかった。しかし、こうやって新作を見るのが、本当に楽しみな芸術家が今、この時、同じ時間に同じ場所にいるというのはとても幸福なことだ。石川直樹と電話。なんだか、すごい話を僕にしてきた。石川直樹は僕がとにかく悔しくなるようなことを言ってくる。で、それはとても素晴らしいことだと思っている(フーは、意味が分からないといってるが、、、)。しかも、今週末、山形の東北芸術工科大学で講演をするのだが、次の日は石川直樹の講演らしい。夜、会おーぜーと話し合う。
 観劇後、明後日の打ち合わせを瞬時で終わらせ、ただ黙って、酒も飲まずに、一人で家に帰ってきた。チェルフィッチュと言えば、2006年の3月31日に「三月の五日間」をスーパーデラックスで観たのが初めてだったのだが、その時に、僕はクソーと悔しくなって帰ったのを記憶している。で、その時もアフタートークがあったのだが、その時、僕は「自分が話したいのに、なんで僕はただの観客なのか」とさらに悔しい思いをした。ということで、いつかちゃんと話したいと思っていたところの明後日のトークショーである。楽しみ。

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 2011年2月10日(木)。午前中、原稿。河出書房書き下ろし本。10枚書いて送信。調べたら、480枚になっていた。もちろん、本にする時には330~350枚ほどに落とすと思うのだが、それにしてもよく書いている。少しずつ執筆体力というものがついているのではないかと思うようになってきた。このjournalの零塾バージョンも、450枚を超えている。つまり、ここ4ヶ月ぐらいで800枚ぐらい書いていることになる。別に書けばいいというものではないが、とにかく、僕は今のうちに訓練をしたいと思っている。ちゃんと、ただ考えているだけでなく、話すだけでなく、手を動かして書くということ。これを鍛えとかないと、今後闘っていけないと思い込んでいるところがある。
 磯部涼には、ただお前はたくさん書けるけど、粗過ぎるし、文体もまとまっていない、雑文ばかり書いてどうすると言われる。それにも納得させられる。だから、もうちょっとちゃんとやろう。僕の周りにはたくさん文句というか、助言というか、悪口というか、もうなんでもいいのだけれど、とにかく面と向かってちゃんと言葉で言ってくれる人間がたくさんいる。全ての言っていること、ツイッターでの細かい批判でさえも、僕はエネルギーをもらえる。だって、僕が行動した結果、作品は産まれるのだけれど、だからこそ責任はあるのだが、僕は自分の作品を僕のものとは全く思っていないから。
 たくさんの人に観てもらって、読んでもらって、色んな意見を聞かせてもらって、それをフィードバックして、また新しくいいものを作ろうと試みるだけである。それしかない。自分の表現をしたいなんて言ってもがいている人間を最近、零塾をやっていることもあり、学生によく会うこともあり、まあそれ以外にもたくさん人に会うので、よく見かけるが、それでは駄目だというのが、僕の意見だ。かと言って、誰かのためでもない。作品によって、色んな人間たちが集まりとことん議論ができることこそ喚起させる必要がある。だから、僕はそれを社会のためだというのだ。社会のためというのは、別にボランティアをしろだとか、行政をしろだとか、いいことをしろとか、言っているのではない。あらゆる批判を、ただ感情的な文句としか思えないものまでも、取り入れて、よりよいものにするために、自分の表現というアイデンティティを捨て去り、それと同時に、でもそれを全てこちらが責任とりますという方法論をとる必要があるのではないか、とか色々と考えている。
 午後、零塾の面接。チョコで世界を平和にしたいという田代さん。モデルをやっていたとのこと。とても楽しそうなチョコレートを頂く。魯山人とジェイミーオリバーの研究をしていこうと決める。これは面白くなりそうだ。しかし、一体、人間は本当にありえないほどの固有性を持っているのだなあ。それが普通に生きていたら見えないというのもおかしいなあ。みんな零塾やればいいのになあ。などと妄想。
 夜、磯部涼がファイトクラブを観ろと言うので、借りる。ソーシャルネットワークを観て感動した僕は、セブンもファイトクラブも観ていない。フィンチャー氏にハリウッドで会うとか言っているのにもかかわらず、このていたらくである。で、ファイトクラブ観て、フーと二人でビビった。もちろん作品の完成度もそうだが、それと同時にその分裂症と行動と妄想が、危ないほどに僕と酷似していた。二人でちょっと唖然となる。

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 2011年2月11日(金)。午前中、原稿を書いて送信。その後、ナジャにて零塾面接。松本くんは広告代理店で働きながら、家では絵を描いているとのこと。僕が入塾に必要な二つの質問をするも、それにはまだ答えられい様子。しかし、何かしたいと思っている。僕は絵を芸術として、描き続けようとしていることい関しては付き合うが、好きで家で描いてますという趣味には付き合わないと言った。それに、アーティストになりたいのに、人の意見を聞いてしまったら、それもまたあなたが今勤めている会社となんら変わらなくなってしまうのではないか。他者からの指示だけで生きてはだめで、自分で考えて仕事を作らないといけないと伝える。ということで、零塾に入るかどうかは保留してもらった。
 みんなに共通するのが、恐ろしいことに「考えることができない」ということだ。なぜ、いきなり零塾に来るのか。その前に、どうやったら、自分が思い描いている状況になるかをまずは考えないといけない。人に聞くのはその後だ。やっても、やってもうまくいかない。どうしてかを考える。その時に、自分が何もまだ知らない、体験していないことに気付くはずだが、そこに気付いていない人が多い。気付いているのかもしれない。しかし、自分のどうしようもない無能さに気付くのは確かに辛い。だから、それを避けて考えないままでいる。それじゃ、いつまで経っても他者からの指示で生きる人生は変えられない。僕としては、それでもいいんじゃないかと思うのだが、しかし、人々はやはりそれでは嫌らしい。ならば、考えろ。無能さに気付け、無知を知り、そして勉強をしよう。そして、緊張をしよう。少しは焦ろう。ただ焦るのではなく、焦ったら、行動をしよう。図書館にも行こう。分からないことがあったら、ちゃんと人に尋ねよう。知らないことがあったら、知らないので教えて下さいとたとえ年下の人にでも言えるようにしたほうがいい。なぜなら、そちらの方が数万倍楽だからだ。
 なぜ、人は楽に物を考えない。考えれば考えるほど楽になるというコツを知らない人が多過ぎる。仕事がないという人は、仕事について考えたことがない人だ。僕だって、あまりにも分裂症だから、普通にただやっていたら仕事になるわけがない。だから、考えてみよう。どうやったら、それが社会と接続するのかを。徹底的に。
 その後、引き続き、零塾面接。今度は、藤原くん。26歳のパンクミュージシャン。ただ音楽家として成功するのではなく、社会に対する運動になるような行為をしていきたいとのこと。自分でバンドをやっていてアルバムも出しているらしい。彼には、パンクやっているんだったら、僕のところなんか来たら駄目だから、自分でやれというメールを返信したのだが、それは分かっていますが、それでも零塾やってみたいというので、受け入れた。しかし、音楽をやりたいのに音楽を何も知らない。自分の起爆剤となったのは銀杏BOYSだと言う。それは分かる。で、そこからどこまであなたは遡ったのかいと聞いても、出てこない。その瞬間に出てこないということが全てを現している。だから、もっと勉強するように指示。一ヶ月で100人の音楽家の音楽を聞くこと。それはパンクに限らず、クラシックからメタルまで幅広く聞くこと。その中で自分の心に響いた音楽を五つあげてくれ、そして、その人たちはどのような音楽の影響を受けて作っているか、どのような方法でアルバムを作っているか、どのような方法で流通させているか、どのようなコミュニティをつくっているか、どのような稼ぎ方をしているか、どのような場所でライブをしているか、どのようなエンジニアと付き合っているか、マネージャーは誰なのか、など徹底的に調べてくれと課題を出す。
 しかし、頭の回転はいい人のようなので、ぶっとばしてやってください。
 で、みっちり4時間ほど喋り倒した後、横浜へ。神奈川芸術劇場。チェルフィッチュのアフタートーク。
 二度目の観劇だったが、これがまた良くて、やはり岡田さんの演劇は、僕にいつも創造するチャンスを与えてくれる。トークは僕にとってはとてもよかった。お客さんがどのような反応をしたのかは、質問もなかったし、その後、数名の人からはよかったですと言ってもらえたが、みんな、そのまままっすぐ帰って行ったので分からなかった。でも、岡田さんが喜んでくれていて、それがとても嬉しかった。岡田さんに雑誌「robinson」での執筆依頼をする。快諾してもらった。吉田松陰のごとく、少しずつ少しずつ仲間を作っていこう。
 その後、僕、梅山景央、岡田利規さん、磯部涼夫妻、講談社川治くん、河出書房坂上ちゃん、タンゴとダーツバーで飲む。そこでの話も最高だった。素晴らしい時間。感動屋の僕は感動する。司馬遼太郎の「世に棲む日々」を読んでいて、嬉しかったのは、幕末の吉田松陰の周りの人間たちがやたらと泣いていたことだ。この当時は、別れはほぼ死を現すというので、みなすぐに泣いていたらしい。司馬さんの妄想なのかもしれないが、ちょっとほっとした。でも、この前、多摩川のロビンソンに会ったときに「吉田松陰は小物だよ。それよりも、幕末には役人ですごい人間たちがいたというところに目を向けなさい。勝海舟を調べなさい」と言われた。僕の師匠は本当にするどい。素晴らしい師匠たちが僕の周りにはいる。僕は僕自身が幸福であるのではなく、その人たちを思うと幸福なのである。零塾もそうなるようにしないと。
 で、テキーラ飲んで出てきたのだが、磯部涼がファイトクラブ面白かったか?あれの妄想のブラッドピットは、まんまお前だったろ。と言われ、図星。零塾って、本当はお前の妄想なのではないか、ナジャでやっていると言っているが、お前が死んだ後にオレが取材したら、喫茶店のママが「坂口さんは独り言をずっと一人で喋ってました」とか言ってんじゃないの。大丈夫か?と言われ、一瞬、本当にそうだったらどうしようと思ってしまった。あまりにも、突然、忽然と零塾というものが姿を現し、それが瞬時に形になっていき、今、増殖しているので、自分でも分からないところがあるのだ。でも、たぶん、違うと思う。大丈夫だよ。と返した。
 帰りの電車の中で、梅山景央と一緒に、次の企画を考える。人が集まるところを作らないといけない。しかも、全くヒエラルキーの無い場所を。僕の中では吉阪隆正の百人町の自邸横にあったU研究室だ。ここには、あらゆる大学からの有象無象が集まり、参加する全ての人が議論に加わっていたという。来るもの拒まず去る者追わず。有名無名問わず。作品を作っているとか、肩書きがあるとか関係なく、年齢も上下関係なく、議論をしあう。そのような場所をつくろう、と。
 名前を付けよう、となり、僕はTACTと言った。指揮者の指揮棒と意味するTACT、中沢新一さんから教わった南方熊楠が「直感」を英訳したときに使ったTACT。そのような見えない空間としての見えないけど確実に存在する、あらゆる人々たちの思想によって形成される場というしてのTACT。よし、それでいこうと決める。
 どこかを借りて、月に一度、研究会を開く。そこではどんな人間も集まれる。料金は500円ぐらい。払えば誰でも参加ができる。
 そんなところから若い才能が溢れ出てくれば面白いねえ。
 今日、岡田さんと話していてそう思ったのだ。一緒に議論し、高めあう場所を作らないとね、と。
 とにかく、今あらゆることが動いている。会えば、その瞬間に色んなことが産まれてくる。もちろん、それはすぐに消えてしまいかねないものでもあるし、危険でもある。
 でも、やっぱ、やるしかないと思っている。勘違いかもしれないが。勘違いでいいとは思わない。もうなんでもやればいいと言うような無謀な人間ではない。
 しかし、やっぱ、やるしかない。
 終電で家に帰ってくる。フーの炊き込み御飯を食べる。明日は山形で講演会。朝6時すぎに出発なので早めに寝る。

20

 2011年2月12日(土)。朝6時起床。外出。東京駅へ。つばめに乗って山形へ。山形駅にて東北芸術工科大学の齋藤くんと渋谷くんと会い、彼らの車に乗って、大学へ。
 今日は彼らの卒業制作展であり、その中で僕が講演をすることになっている。大学にてみかんぐみの竹内教授、R不動産の、そして石山修武研究室の先輩である馬場教授と初対面。みんなで蕎麦屋へ。話はもちろん盛り上がり、三人のトークセッションも楽しみ。
 その後、学生に案内されてまずは彼らの卒業制作を観覧する。そして、午後2時に講演がスタート。まずは僕が一人で一時間ほど話す。たくさんの人が来てくれて、しかも熱心に聞いてくれた。二人の学生たちからの誠実な質問を受けた。誠実すぎて胸が締め付けられた。
 その後、竹内さんと馬場さんとトークセッション。こちらもとても楽しかった。刺激的な会話になったと思う。
 盛り上がり講演は終了。その後は、山形在住の小林さんと会う。今度は零塾の面接。
 小林さんは一児の母であるが、元々山形の女性建築家のもとで働いていたという。大学で建築を勉強しているわけではなく、その女性建築家の仕事に共感し、働き始めたとのこと。そういう無知な状態が始めている。仕事は楽しかったという。
 建築家の仕事自体にはとても共感している。しかし、何か違和感を感じる。それは建築ができあがる前の工事段階の時。建築は建てるまえは敷地にある雑草を全て取り除き、更地にして、掘り起こし、コンクリートを埋めて基礎部分を作っていく。建築を学んでいれば、それは当然のことで、つまり、そこまで違和感なく通り過ぎることができるが、小林さんはできなかった。それがおかしいと感じてしまったらしい。それは、僕も同じであった。だから分かる。それはおかしい。でも、それをおかしいと言っていたら建築はできない。だから、全ての建築家たちはそれをおかしいとは言わないようにしている。子供みたいなこと言っているんじゃありませんよ、と。
 しかし、結局小林さんはその違和感が拭いきれずに、建築の仕事をやめてしまったという。しかも、主婦をやりながら、その建築家に丁稚奉公したような状態だったので、無賃で働いていたそうだ。そこも僕と一緒であった。僕も学生時代大工に丁稚奉公したときも、卒業後、石山さんのところに丁稚奉公したときも、給料は零である。でも、学びたい。しかし、違和感を感じる。で、やめた後、図書館でたまたま僕の本を見つけ、直感を感じ、読んでみて、共感をしてくれたとのこと。僕は本を書いていてよかったな。とこちらが救われる思いがした。
 そして、小林さんは僕に、
「坂口さんが取り組んでいる試みを、この山形でも実践できないかを担当してみたい」  と言った。千葉で実験しようと試みている0円ヴィレッジ計画。吉祥寺で始めようとしているモバイルハウス計画。また零塾もそうかもしれない。それらの山形支部を作れないかと思っているそうだ。よし、ちゃんと行こうとしている方向性が決まっている。僕は納得し、それを零塾での課題にした。
 このような誠実な思いを抱き、しっかりと生きたいと考える人間が今、零塾にはとんでもない勢いで集まってきている。僕はそこに何かとてつもないエネルギーの塊を感じている。みんなそんな熱意が顔全体、体全体に溢れ出ているようには見えない。それは、やはり彼らがこれまで生きてきた、環境がそのエネルギーを少し抑圧しているのだろう。しかし、内面には頭脳には大きなエネルギーが渦巻いている。つまり、今、日本人はとんでもないのだ。ホームレスと呼ばれていた人が実は僕たちが持っていない高度な技術、生活哲学を持った人間であったことを知るのと同じ状態で、僕は今、一般人とよばれる人々に会い、彼らに含まれたフラクタルな可能性に満ちた、しかも、彼ら固有の創造性に気付こうとしている。これは0円ハウス以来貫徹している僕のフィールドワーク人生のネクストステージなのだという確信が日に日に増している。
 なんだよ、普通の人って、常識に縛られている人って、お金しか見えていない人って、既成概念に囚われている人って、将来について考えていない若者って、希望を持っていない人って。どんだけ、人は解像度が低いのか。もっとよくみろ、人を面と向かって向かいあって、目で見て、話し合って、握手して、ちゃんと向かいあえ。本当に人間を「知ろうとする勇気を持て(byカント)」。僕の頭の中の目玉の親父が、そう僕に叫んでいる。人は、自分以外のことを知らな過ぎる。なのに、その見えない人について語りすぎる。事実は違う。僕はそれを零零塾で知ることができた。それだけでも実現したと言えるかもしれない。
 とにかく、今、僕は毎日、零塾生たちに励まされて、またその勢いで、今日の学生たちにも、ぶつかった。
 その後、居酒屋で懇親会。また、徹底的に学生と話し合った。藤原さんという講演で質問してくれた女の子なんか、泣きながら、僕と議論した。そういうの、いいんだよ。最高なのよ。しかし、みんなあまりにも物事を知らな過ぎる。4年生になって、卒業するというのに、 建築も音楽も映画も本もなにもかも知らな過ぎる。頼む、せめて僕の日記を2004年から遡って読んでくれよ。僕だって、何も知らない。しかし、ちょっと知らなすぎた。ということで、完全に僕は怒った。でも、それを聞いてくれたということは、響いてくれたのかもしれないと淡い希望を抱く。
 二次会は、男だけ7人で花小路へ。どこへ行こうかと迷っていると、いつものように突然、目の前に80歳のおばあちゃん。僕は瞬時に理解し、おばあちゃんに声をかける。
 すると、おばあちゃんは、今、店締めたところだからって、後ろにいる若いホステスさんのほうをむく。でも、おばあちゃんと僕はなぜか意気投合し、店を再オープンしてくれることに。ビール飲んで、カラオケを歌う。2時まで飲んで、7人で21000円。確実に80歳のママは大サービスをしてくれた。辻というこのスナックは、なんと山形市で一番古いスナックらしい。えらいところへ迷い込んでしまったもんだ。お礼に、ギターがあったので、アフリカの歌&トレイントレインという十八番の歌を弾き語りさせてもらった。
 その後、フラフラと雪の街を歩き、温泉に入って、眠る。

21

 2011年2月13日(日)。朝9時に起床。テレビを付けると、BSブックレビューで僕の本「TOKYO一坪遺産」が紹介されている。なんか夢を見ているかと思った。紹介者は元ドリアン助川氏こと、明川哲也さん。「にっぽんの宝です」とまで評してくれた。そうなれるように頑張らないといけないと気を引き締める。その後、また大学へ。昨日飲んでいた学生たちが自分の作品をちゃんと講評してくれと言うので、一つ一つ作品を見ていく。
 彼らの思いの根源は、とても素晴らしい問題意識があると思った。しかし、それをどのように調べ、どんな参考文献を読んで、どのようにプレゼンし、最終的にその作品を誰に見せるかが全く見えていなかったので、ほとんど全ての人に厳しい評価をした。大学での課題はこれで終わりかもしれないが、終わらせてはいけないと僕は徹底的に説明した。
 しかし、そんな作品が卒業制作として展示されているのは、僕は不安になった。なぜ、中間発表で先生たちから怒られなかったのか、指摘されなかったのか。それを言うと、発表する時間が短く、講評時間も短いので、的確なアドバイスがもらえないと学生はこぼした。教授の多くは東京で活動しているので、来れる日は週に2日ぐらいらしく、それだとマンツーマンで付き合いながら作品を作るということができないのかもしれない。大学で建築を教えると言う事自体が、現在かなり困難になっているのかもしれない。僕が学生のころは、夜遅くまで講評会をやらされ、徹底的に指摘されていた。僕は一度泣いたこともある。恥ずかしいが。しかし、その中で鍛えられてく。
 これは零塾だけでなく、大学にももっとコミットしていくべきなのかもしれないと僕は強く危機感を感じた。しかし、身体は一つしかない。やれることは限られている。ということで、僕は彼らに留年という評価をして、零塾の方で引き続きやれるもんならやってみろと言った。
 本当は大抵が留年してもっと研究して、勉強して、読書して、鍛えていくべきだと思う。しかし、私立大学である。つまり、留年したらまた120万円ぐらいかかる。そんな高額な金額がかかる決断を先生方ができないのかもしれない。だから、そもそも大学がこんなに高いことが問題なのだ。こどもを育てるのに、まだ鍛えていないのに、それで社会に出ていけなんてほぼ自殺行為だ。やはり危なかっかしい人間には、ちゃんと一人前になるまで育ててやらないといけない。それは教育である。現在の大学はほぼ商売、消費物になっている可能性が高い。とにかく危機感を感じる。学生たちは徹底的に先生たちと付き合ったほうがいい。忙しいと言われても、だだとこねてでも、ちゃんと鍛えて下さいと吠えたほうがいい。そうしないともったいない。素晴らしい建築家たちが集まっている大学なのに、学生がぼやけているというのは、とても大きな問題だと思う。
 で、僕は一人の人間を見て、彼の考えていることに興味を持った。駅にも車で迎えにきてくれた渋谷くん。彼のアイデアを見て、まだ対処法は子供だが、思考の元になっている方法論は間違っていないはずだと僕は確信した。ということで、来年度からちゃんと独立してやってみろと提案してみた。稼ぎ方、仕事の見つけ方、提案の仕方、伸ばし方は、零塾で徹底的に鍛えるから。すぐに個人事業主の登録をしてこいと言った。渋谷くんはウンと頷いている。これも珍しい。どうせ冗談で終わるのが、学生。しかし、違う。ということで、零塾にスカウトすることにした。他人から動かされるのではなく、仕事は自分で作る。零から発生させる。そのことを教える。本当に教える。徹底的にやります。ということで、覚悟するように。
 その後、石川直樹のトークショーを聴きに行く。終了後、飲もうと思ったが、まだ学生たちが講評してくれというので、そちらへ行くことに。その後、終わって、齋藤くんと渋谷くんに車で送ってもらって、駅ビルの焼肉屋で特上カルビ定食を三人で食べて帰った。昨日のギャラは全て結局使い切ってしまった。ほんとゼロだな。フーに呆れられる。しかし、怒られなかった。
 零塾の入塾希望メールを確認。また数人来ている。17歳の女子高生からも。初めての高校生である。チェルフィッチュのトークイベントで興味を持ってくれたとのこと。高校生でチェルフィッチュって、どんだけ高い教養を受けているのか。しかも、やろうとしていることも、興味深く。いやいや、今の高校生のすごさを痛感。
 早稲田大学の2年生の小林くんと打ち合わせ。今、石山修武さんと僕との対談を企画しているとのこと。うまくいくように祈ろう。そしたら大変なことになるはず。
 本当に毎日、とにかく動いている。物事が動いている。世に棲む日々で松蔭が死んだ。そして、高杉晋作が行動を始める。僕は高杉に感情移入してしまっている。

0円ハウス -Kyohei Sakaguchi-