零塾

第7章 再生

 2011年3月21日(月)。熊本で起きる。後ろなんて見ている暇はない。とにかく前を向いていこうと決意した。とにかく僕はありえないほど色んな人に声をあげて、放射能から逃れろと叫んだが、それはほぼ全面的に無駄に終わった。一時は完全に無気力になったが、フーは、それなら、こちらでみんながいつか来れるように、心地の良い家、やりがいのある仕事を用意すればいいじゃないのと慰めてくれた。そして、私たちを守ってくれてありがとう、と言ってくれた。僕は自分の直感が正しかったことを実感した。
 その後、鎌仲ひとみ監督の「被爆者」を二人で観る。あまりにも惨い映像で、今、それをリアルタイムで体験しているぼくらには衝撃で目を覆いたくなるようなシーンもあったが、事実が知れてよかった。もしも、興味がある人は、ぜひ観て欲しい。本当に恐ろしいのは、外部被爆ではなく、内部被爆であるということに気付くことができる。15歳以下の子供と、妊婦だけは、せめて助け出さないといけない。しかし、僕にはもう声をあげることができない。だから、熊本で安全な場所を確保し、それを開示すること。そして、この映画を観るようにと促すことをやろう。それだけでも、気付く人がいるはずだ。
 もしも、何か迷っていたり、悩んでいたりしている人がいたならば、僕にメールしてください。アドレスはkyohei88@gmail.comです。いつでも、避難情報、汚染情報などを提供します。僕はもちろん、メディアで声をあげることはやめたが、個人的には今でも叫びたい気持ちでいっぱいです。ということで、ぜひ。塾生で不安な人ももちろん、メールしてくれ。塾長は色々と心配しています。
 朝から、辰頭温泉へ。ここは僕が思うに、日本で一番素晴らしく新鮮な温泉である。シャンパンのように湯船に入っていると小さな気泡がまとわりついてくる。ありえないくらいリラックスして、自分の身体が尋常ではないくらい堅く萎縮していたことを知る。アオも気持ちよかったと言ってくれた。自分がまずはリラックスして、力を蓄えて、これからの復興に向けていかないといけない。食欲も戻ってきた。気付いたら3キロも痩せていた。おかわりをして、御飯を食べる。家族の団欒が心を癒してくれた。再生へ向けて、歩き出そう。
 フーと移住について、本気で話し合う。映画「被爆者」を観た後のフーは、自分でも事の重大さに気付いてくれたようで、無知であることが罪なのだということを知ったようで、熊本で新しい生活を始めることに同意してくれた。僕は元々、アオを自然が豊かで、海が綺麗で、面白い人間たちが集まっている熊本で育てたいと懇願していたので、これも何かのきっかけであると認識し、実践に移しことにした。ちょっと広い家を借りて、みんなが集まれるようにしようと考えている。モバイルハウスの実践ができるように、庭もある家を探そうともしている。こちらは家賃も安い。駐車場代も安い。生活費も安い。だから、心配ないよと、人々に伝えられるような気がする。少し落ち着いたら、物件探しに奔走する予定。まずは、自分たちが落ち着くことが先決だが、今は希望に満ち溢れている。笑顔でいたいと思った。家族で一緒にいることの幸福に素直に気付いた。どこで生きてもいい。ただ、みんなが一緒にでいれればいいのだ。
 震災、原発に心を囚われてしまっていて、フーにホワイトデーのお返しをすることを忘れていたので、シャワー通りという熊本の代官山のような通りを歩き、PEMANENT MODERNという服屋へ寄る。ここは熊本を代表する文化人である有田さんが35年前に始めたお店で、東京では絶対に並んでいないような世界中のとびきりの服が売っている。ちょっと高いけど、モノがいいので、気にならない。僕は服なんてなんでもいいけど、避難中のフーは着の身着のままで来ていたので、お洒落でもさせたかった。そこで、綺麗な色のサブリナパンツがあったので購入。喜んでくれたので、嬉しかった。
 その後、有田さんと話す。彼は35年前にまだシャワー通りに一軒も服屋がないときに一人で直感で感じ、店を始めた。周りの人間は誰しも失敗すると言っていたそうだ。しかし、有田さんは逆に彼らこそ、これから大変なことになるではないかと思ったという。そして、それがそのまま実現されてしまった。何かが起きた時に、人は変わるよりも、元に戻そうとする。しかし、一度変わってしまった世界は元には戻らない。ちゃんと覚悟を決めて、早めに決断することの重要性を二人で熱く語り合う。理解者と初めて出会って、心の緊張が解れた。熊本には僕の理解者がいる。それはやはり自分の地元であるということが大きいかもしれないが、それよりも、熊本という街の県民性だと思う。もちろん、ここでもほとんどの人が変化を恐れる人だが、その中に幾人かは本当にとびっきりの行動者、実践者、越境者がいる。僕はTOKYO0円ハウス0円生活でも書いたけど、そんな大人たちに育てられた。これからは彼らと恊働して、新しい世界を作って行こうと決意した。できるはずだ。僕には自信がある。熊本の優しさに触れて、ほっとした。今度は僕が被災している人に優しくする番だ。
 久々に家族水入らずで御飯でも食べようと、実家を離れて、餃子屋「弐ノ弐」へ。アオが一番好きな食べ物が餃子なので、それを食べることに。震災後初めて、レストランで生ビールを注文。家族三人で乾杯し、とりあえず家族は安心なので、これからはみんなのために力を尽くそうと誓い合う。しかし、本当に美味しい御飯であった。ここも、ぼくが以前働いていた「サンワ工務店」の設計である。ここの街の面白さを東京に住んでいる親友たちに教えてあげたい。
 僕が熊本に移住したら、もっともっと面白くなるのではないかと思い始めてきた。零塾は国立、吉祥寺から場所を移して、ここ熊本で始めることにする。零塾はどこでもできる。これも強い。僕の仕事は竹のようにしなることである。どんなに圧迫されても、凹まない。あきらめない。希望しかない。絶望しない。人に向けて行動する。隅田川の鈴木さんの思いを受け継ぐ。多摩川のロビンソン・クルーソーとも電話する。彼もやはり心配していた。以前は絶対に多摩川を離れないと言っていたが、今日僕が「何かあったら渡している新幹線のチケットを使って、熊本まで来てよ」と言うと、「分かった」と言ってくれた。彼が熊本で過ごし始めたら、それもとても大きな力になると思う。そうなってくるともっと楽しいことになる。僕はみんなと一緒に過ごしたい。親類とか関係なく、色んな人が集まってくらせるコミュニティを作りたいと思っている。村を作りたいという夢があったが、いよいよその夢に向けて、行動する時がきたようだ。
 どんどん行動へ突き進もう。食後、熊本の文化発信的食堂である「PAVAO」へ行き、かおるちゃんとえりなちゃんに挨拶。彼らも移住してきて正解だと言ってくれた。そして、今度は西から盛り上げて行こうと。この食堂は僕にとってとても重要な拠点になってくると思うので、挨拶をする。熊本で出会う人で会う人、一緒に頑張ろうと喜んでくれている。僕も今まで東京という文化が集約されていたところで培ってきた技術を持っている。それは熊本にとっても必要なはずである。この僕が産まれ育った街を文化発信拠点にするべく行動する。そのことの可能性を感じ、気持ちが高ぶり、歩いて帰ってくる。
 GoogleもIKEAも本社を関西に移転したらしい。ソーシャルネットワークを駆使している人間は動くことを恐れない。土地と固まっている人間は動くことを恐れてしまう。その違いが今この瞬間如実に現れてきている。
 これから東京は中心ではなくなるだろう。大阪にも移るし、神戸にも移る。京都の良さにもさらに気付くだろうし、岡山の文化発信も意味がある。尾道の街の良さや、福岡の国際性、そして、熊本の独自性。いろんな都市が元気をださないといけない。それを東へ向けて放出する。僕は勇気が湧いている。それは、この震災の間、ほぼ毎日、僕に海外からの正確な情報をスカイプで与えてくれた海外に住んでいる友人たちのおかげでもある。僕が電話するといつも出てくれて、現状と、これから行動するべき方法を教えてくれた環境エネルギー政策研究所飯田哲也さんのおかげでもある。そして、理解して付いてきてくれた家族もそうだが、感謝を述べたい。そして、これからとにかく復興するぞと僕はとにかく興奮しているのである。
 内藤さんから連絡。村上春樹さんを世界で一番初めて翻訳した翻訳家アルフレッド・バーンバウムさんが翻訳をしてくれることが決まった。しかも、もっと面白いものにしたいからといろんなアイデアをくれたので、僕は共同著者でいこうと提案した。印税率も決定したので、これで仕事が進む。こんなときこそ、だらだらしているのではなく、仕事をする必要がある。ルーティンは非常事態のときこそ重要なのである。ゼロから始める都市型狩猟採集生活を韓国版で翻訳したいとの声もかかったとのこと。バンクーバーでは大きな個展を開催してくれることになった。そして、まだ発表できないが大きなプロジェクトが無事に完成へ向けて突き進んでいる。これは僕にとっての大きな地殻変動だと思う。今は、自分がしっかりとしなくては。人々は大きく傷ついている。それをいつか助けるためにも、今は僕は自分ができる仕事に集中したいと思っている。

 2011年3月22日(火)。V6のイノッチが出演する舞台のパンフレットのためのインタビューを電話で受ける。とにかく仕事をしよう。電子書籍についての相談。今年、翻訳版が仏語、英語、韓国語と三か国後出版される。熊本に移動したので、これからは韓国、中国でも活動ができるだろうから、アジア圏も自分のフィールドと捉えて、活動していきたいと思っている。アーティストの大原大次郎からメールがあり、熊本にいつか遊びに来たいと言うので電話して話す。みんなそれぞれ考えている。僕も相談に乗りたいし、一緒に考えたい。こういう時には、一人で考えては駄目だ。みんなで考える。その人の個人的な問題であっても、みんなで考えるくらいの幅広い意識を持たないと、それぞれのキャパシティーでは対応できないようなことが起こっているのだから、確実に頭が沸騰する。だから、何か相談したい人はぜひメールください。電話しますから電話番号を書いておいてください。
 零塾生の神部くんからも電話。彼は国家公務員なので簡単に休むわけにはいかない。しかし、今回の原発の件で、完全に疲れており、相談に乗って欲しいとのこと。元気だったみんなが、少しずつ傷ついてきている。とても心配だ。西日本に実家があるとのことで、すぐに帰省しなさいと言う。会社なんて、精神的に疲れたと言えば、ちゃんと何日かは休めるし、ちゃんと診断されれば、もっと長期休むこともできる。そして、また治ったら復帰することもできるのだから、すぐにやめるのではなく、まずはいれるだけ安全なところへ行き、リラックスしたほうが良い。塾生がこのように悩んでいるのを見るのは辛い。みんなが集まれる場所を作りたい。その思いがとにかくひしひしと高まっている。
 赤瀬川原平さんから、5月ごと河出書房から出版される予定のTOKYO0円ハウス0円生活文庫本の解説が送られてきた。音読して、家の中で家族みんなの前で読む。感激。しかも、移住ライダーの話もしてくれて、僕の根無し草の強さについて書いてくれていた。もしかして僕のこの日記を読んでいるのかと緊張する。しかし、そんなはずはない。赤瀬川さんの先見の明に感謝する。文庫本の解説を赤瀬川さんに書いてもらうことが僕の夢だったので、今回の実現はとても嬉しい。大変な時に、夢が叶って救われた。こうやって、色んな人に救われている。やるしかない。前に進むしかない。しかし、東電は一生許さない。これだけは僕は抑えないことにした。今後、ちゃんと調査して抗議したい。
 オランダのユトレヒトのマイコと連絡。4月にオランダに行くことにしていたが、さすがに今は慌ただしいので、6月に伸ばしてもらうことにした。しかし、絶対に行く。この震災、原発事故のせいなんかで、仕事を諦めるのは僕はとてもじゃないけど、嫌なので、敢行する。そういう意味では、日本の仕事だけじゃなく、海外の仕事が半分ぐらいの状態なので、これまでと変わらない仕事をすることはできる。それはとてもありがたいことだ。しかも、みんな応援してくれている。
 アルフレッド・バーンバウムさんからメールあり、翻訳改訂版について厳しい駄目出し。ありがたく読む。彼はただの翻訳家ではない、創造性を持ち、独自に回転し行動する、アーティストである。これは僕の本ではないと思った。共同著作としたのは間違いではなかっただろう。これはとても心強い。彼とももっと密に連絡を取り合い、作品の質を高めよう。これから、自国の仕事はそこまで増えて来ないだろうと思う。海外からの信用もほぼゼロになってしまっている状態で、活発な輸出入が行われるとはとてもじゃないが思えない。それだからこそ、今のうちに欧米、アジア諸国と仕事をする可能性をできるだけ増やしておかないといけない。ここで、生き方をシフトチェンジしないといけない。自分を奮い立たせる。ぼうっとしている暇は無い。日本で僕の仕事は結構、無視されているので、自分の場合は海外の活動も活発していかないと未来は無い。生き延びていくためにも、とにかく海外へ向けて発信しよう。
 厚生労働省が原発事故以前に対応していた基準値と今回の暫定基準値という曖昧な値の違いに驚く。 今、原発事故のおかげで危険性が高まっているのだから、ちゃんとこの基準値で生活するべきだが、日本政府は17日に基準値を今の暫定基準値に変更しているのが気になる。しかし、実家の両親は「恭平、国が嘘を言っているわけないのだから、信じなさい」と懇願している。そして、この基準値の変更の事実を知らせると「基準値の値を増やしてもいいと分かったから増やしたのよ。国が嘘を言っているわけはない」と言う。それはそうかもしれないし、そうじゃなかったら大変なことになる。国が言っていることを信じるほうがいいのだろう。僕はちょっと頭がおかしいのかもしれない。自分で得た情報しか信じられからだ。WHOの飲料水の基準を見ながら、東京の水道水のベクレルを調査続行する。昨日、一昨日の雨で結構値が上がっているのが気になる。しかし、テレビでは飲んでも全く影響がないと言う。鎌仲ひとみさんの映画を見る限り、それはありえないと思えてくる。一体、どちらが本当なのか。僕の場合、何かよくないことが起こったら、まずは最悪の事態を考えて行動するのを鉄則としているが、それでは大袈裟なのだろう。僕の両親が言っているのだから、大袈裟なのだろう。もう何も言わないと言っていたが、それでもやはり気になるようだ。ちゃんとしたソースを出して、考察していきたいと思う。
 塾生で原発のことが気になっている人が多いので、飯田さんにお願いして、ちゃんとお金を払って、放射能勉強会を開こうと思っている。僕が東京に来た時に実現すればいいと。あと、DOMMUNEで3月3日の予言のような原発問題トークが再放送されることに決まったので、ぜひ見て欲しい。深夜から放送されるらしく、誰でも見ることができるはずである。さらに「都市型狩猟採集生活」第7回もやらないといけない。
 とにかく行動する。びびるな。ひるむな。諦めるな。前向きに。楽しく。ユーモア増大で。しかし、厳密に。徹底して。事実から目を反らさないこと。自分を裏切らないこと。
 震災、原発事故から時間がたち、僕の心も落ち着いてきて、希望も湧いている。しかし、それと同時に東京電力が犯してしまった問題点が浮き彫りにもなっている。慣れたら終わりだ。ここで注視しないと一生しない。両親が見てないところで、調査を続行しています(笑)。

 2011年3月23日(水)。落ち着いてきたので、今度は東北の被災地への支援を考えていきたいと思っている。来月、バンクーバーに行く。バンクーバーには僕の作品のコレクターたちがたくさんいて、彼らに呼びかけて、ソーラーパネルを購入するための支援金を集められないかと考えている。秋葉原で一枚一万円で購入できる。しかもそれらはMade in CANADAなのだ。だから、カナダへ行き、ソーラーパネルを大量に購入し、それらを持って帰ってくる。200万円ほど集まれば200枚購入できる。そうすれば、自家発電ができる。テレビも見れるし、ラジオも聞ける。電灯だって、大丈夫だ。インフラの復旧なんて待たずに実践することができる。陸前高田の被災者たちの映像がテレビで映っていたが、電気もガスも水道もないとのこと。このように、まだインフラが復旧していない地域を調べて、そこに持って行くのはどうだろうか。
 車があるところなら、バッテリーはある。車に乗る時は、バッテリーを装着し、家に帰ってきたら、バッテリーを外してソーラーパネルと接続する。そうすれば、電気は大丈夫である。あとは、水道。多摩川のロビンソン・クルーソーに聞いたら、2時間経てば、ヨウ素やセシウムも落ちるだろうと予想している。そこで、それらの成分がどれくらいで無くなるのかを、専門家に成分を調べてもらって、純粋な水を雨水から獲得する。これはどこまで実現するのか分からないが、実践する意味はありそうだ。
 ガスは無くても、竃を作ればいいと思っている。
 そして、家は全て、流された廃材を転用する。そして、復興のための家を建てる。映画監督の本田孝義さんと話して思ったことがだが、一時的に土地所有制をストップさせて、暫定的に公有地にして、まずは人々にプライバシー保てる自分たちの家を自らの技術を使って建てるのを手伝うことはできないか。ここには隅田川の鈴木さんも協力してもらいたい。彼もやる気はあると言っている。
 僕は今、心が平安に保てる場所にいるのだから、次はようやく復興の手伝いをする必要がある。僕が今まで調査し、培ってきた0円ハウス、都市型狩猟採集生活の方法論はこれから重要になってくる。フーアオは避難させた。僕は被災地に向かい、放射性物質の知識を伝え、そんな中、自分たちの家を手にするシェルター作りをする必要があると思う。
 少しずつ、人のことを考えられるようになってきた。まずはカナダへ行く必要があると思う。その前に、一度被災地を視察しにいくことも考えている。
 隅田川の鈴木さんと多摩川のロビンソン・クルーソーの二人について考えている。彼らのことを僕は都市型狩猟採集民と呼んだのだが、今回分かったことは、彼らは狩猟採集民では無かったということだ。東京という土地に繋がっているのである。東京が無いと生きていけないと思っていたのである。僕は訂正しなくてはいけないのかもしれない。都市型狩猟採集民は、彼らではなく、まさに自分のことだったのか。鈴木さんとロビンソンを置いてきたことをどう捉えていくか。僕は一緒に来てくれると思っていた。しかし、そうではなかった。もうちょっとこのへんは考えていかないといけない。とにもかくにも早く彼らと会いたい。彼らは水道水と雨水と一緒に暮らしているので、心配だ。
 そろそろ仕事を始めないといけない。まずは、地元である熊本日日新聞「建てない建築家」連載第2回。1600字、完成し送信。モバイルハウスから見た今回の地震、原発事故を取りあげてみた。熊本に帰ってきて、新聞の連載を読んだよという反応が結構あったので、注目してもらえているのは大変ありがたい。しかも、これからは熊本に移住するので、もっとダイレクトに表現できると思う。
 新聞の連載と、インターネットでの僕の日記、という二つのメディアを駆使して、攻めてみる。僕の場合、幸運にもマスメディアの方からも興味を持ってもらっており、そこで不自由を感じたことは今まで無かった。構成に口を出したこともあるけれど、それも受け入れてくれた(そのおかげで、ビートたけしさんが多摩川のロビンソン・クルーソーに会いにくるという奇跡が起きたのだ)。大衆文化とアンダーグラウンドのどちらも同じ視点で見ている僕ならではの、独自の動きができるのではないかと思っている。言動統制されるようなことは始めから書かない。そのかわり、日記では思ったことを全て書く。このバランスをうまくとろう。自分にはできるはずだ。それを今までの人生で培ってきたのだから。
 新聞連載を終え、次に集英社すばる「モバイルハウスのつくりかた」連載第9回目。こちらもさすがに今月は休載しようと一時は思ったが、担当編集者から「絶対書いて下さい」と言われたので、取り組む。締め切り一時間前に、ようやくエンジンがかかり、一時間で原稿用紙10枚4000字が無事完成。集中力が戻ってきたようだ。というよりも、避難中は逆に完全にスイッチが入っていたので、どんどん原稿が書けた。日記ばかり書いていたのだが。しかし、零塾の日記を書き始めてから、色んなことがしかも大変なことが起こっている。どんな小説よりも、リアルで信じられないことが起こっている永遠小説になってきた。それはそれでびっくり。
 心配していた二つの仕事を終え、ほっとしたので、フーアオと三人で外出。熊本の平穏な街を歩く。子ども文化会館へ行き、遊ぶ。熊本城の周りを歩く。高校時代にいつも通っていたお好み焼きや「てんてまり」で広島風。美味。その後、熊本市現代美術館へ。学芸員の坂本さんに挨拶。一昨年の僕が作った自転車ハウス作品「坂口自邸」を昨日美術館が購入してくれたので、そのお礼と今後の活動についてほぼ一方的に(笑)話す。被爆者の上映会もしたいねえとも。熊本では、もちろん地域に密着して動くことも重要だが、なかなか地方の文化発信には問題があることも山形、京都、香川などを見てきた中で分かっているので、そこに自分が入ったらどうなるのかは、大体予想ができる。こんな狂っているとしか思えないぶっとび野郎は、東京の友人ですらドン引きされるのに、それが九州だったらどうなるか。でもまあ、笑って過ごそう。
 しかし、そんなことよりも、僕は若い人に気持ちは向かっている。若い人間を世界にも通じる人間に育てないといけない。ちゃんと表現しているものが、世界水準を理解した上で作られるべきなんだということを認識させたい。だから、まずは零塾である。熊本の若い人間たちを育てる。教育へと向かっていこう。僕自身の発信は、今、日本でも海外でもある程度可能になってきた。自分のことは全く心配がない。むしろ、これからもっと求められてくるだろうと自覚している。その時に、恊働してくれる若い人、独自に動く若い人を育てないといけない。そのことに使命感を感じている。
 最近、全国各地から不安である、どうすればいいのかというメールを受け取っている。一日に僕のホームページに来る人も、なんと昨日4000人を超えた。一人が作り出すメディアとしては大きい。「ゼロから始める都市型狩猟採集生活」も発行部数が一万部を超えた。DOMMUNEも前回は延べ視聴者一万人を超えた。この人たちとどういう行動をするのか。そして、僕の本をいまだ読んだことのない人々へ向けて、どんなことを発信するのか。日記、零塾、DOMMUNEという三つの独自メディアの柱を駆使してきたことで少しずつコミュニティが形成されている。一緒に動きたいという人も出てきている。ディレククションする責任も感じている。だから、自分にはスピードをあげて行動させるけれども、人々にはゆっくり促そうと思っている。焦らないで急ぐ。緊張と弛緩を同時並行に続け行動する。でも、連絡したい時にはメールして下さい。読者の方からのメールも相次いでいる。ちゃんと対応できているか不安だけれども、できるだけ答えているつもりです。
 夕方から、僕が通っていた中学校の周辺をミニクーパーを運転しながら、スラックの新譜を聴きながら走る。昨年、亡くなってしまった僕の中学生時代の友人である同級生の亮子ちゃんのところへ線香をあげにいく。胸が張り裂けそうな思いであった。お父さん、妹さん、おばあちゃんに会って、僕はなんて声をかけてあげればよいのか分からず、でも高校生時代の時に、僕は亮子ちゃんの親友と付き合っていて、僕の友人は亮子ちゃんと付き合っていたので、よくダブルデートみたいなのをしていたので、その頃の話とか、大学時代に東京の僕の家に泊まった話とか、その後、女性問題で亮子ちゃんに怒られたとか、そんな話をした。
 お父さんからは亮子ちゃんが中国へ行き、勉強して帰ってきて、これから本当に楽しみだったという話を、おばあちゃんからは、戦争の時に、何もなかったけど私たちは強かったという話を聞いた。僕にできることは何もないけれども、また来て、ビールでも飲みにきていいですか?おばあちゃんの戦争の話ももっと聞きたいし、と言うと、また来て下さいと言ってもらえたので、また行こうと思った。ここ数年、同い年くらいの友人たちが亡くなっていて、どうすればいいのか分からないときがある。とは言っても、僕は馬鹿みたいに希望を捨てられない人間なのだが、それでも、地球よしっかりしてくれよと思ってしまう。でも、それには人間が生き方をまず変えなさいと言っているのだろう。しかし、人は何かを死守する。もちろん、僕も死守する。
 僕は、どこで生きてもいいし、土地なんか持っていないし、家なんか持っていないし、お金なんてどうでもいいし、仕事なんて別にどうでもいいし、持っている本も全部売ってしまったし、ドローイング作品も全部売ってるし、服は全部貰いものだし、物欲もないし、そもそも欲望自体が存在しない。日本が駄目なら、海外へ行けばいいし、アフリカでも、欧米でも、南米でも、アジアでも、どこも嫌いじゃないし、別に好きでもない。
 ただ、僕はフーとアオは、死守したい。そのことに今回、ちゃんと気付いた。命をかけて発電所で放水活動をしている消防士や自衛隊などの職業に就いている人々には、頭が下がるが、僕は仕事を投げ出しても、お金なんて捨てても、フーアオを死守したいということだけは分かった。それは僕の人生がちょっと普通とは違うこと、それに家族も巻き込んでいること、そして、もちろん僕には保障もなければ、保険もない、僕が死んだら家族は確実に路頭に迷う。それならば、僕は生きなければいけない。そして、家族も僕の迷宮に率先してくっついてきてくれているかぎり、僕は死守しなければならないと、よーく分かった。
 もちろん、そのことに周りの人々から賛否両論があると思う。でも、最後に決断するのは自分である。もちろん、責任は他人にあるのではなく、自分にある。それは今の放射能汚染の問題にも繋がってくる。国がどう言おうが、専門家がどう言おうが、僕はそんな人に後で賠償金なんて請求する気なんてさらさらない。それよりも、ただ自分が死守したいと思っている人たちが、賠償するような状態になるように、ただ自分の頭で考えて判断しているだけである。僕は一生、人に文句を言いたくないし、どんなときも悲しくても寂しくてもできるだけ笑っていたい。笑う門には福来る。
 あと、僕は今回の震災、原発事故の時に、念頭に置いていた言葉は孔子の「君子 危うきに近寄らず」である。
 しゅんくんから連絡があり、6月に表参道ヒルズの「Pass the Baton」で個展を開催することになりそうだ。4月、5月、そして、6月。とにかく行動あるのみ。しかし、徹底して戦略は立てていこう。ただ向かっていくだけでは跳ね返される。それは今回の震災でもよく分かった。今、仕事で、素晴らしい体験をさせてもらっている。それを実社会へと繋げていく。
 翻訳家のアルフレッド・バーンバウムさんからさらに厳しい意見がどんどんメールで送られてくる。このちょっと凹んでいるときに強い人である。ありがたくスパーリングをさせてもらう。本気で世界中に伝えたいならば、色んな人の意見に耳を傾ける必要があるだろう。独りよがりが一番いけない。僕は無知で、無力で、何一つ物事を分かっていない。そこから始めよう。謙虚に、しかし、自信は胸に秘め、萎縮せず、心を広く。そして、優しく。困っている人がいたら、助けよう。困っていたら、泣き言を隣の人に打ち明けよう。僕もフーに泣き言を言っているし、アオから勇気づけられている。だから、何かあったらみんな声をかけてください。僕にできることはなんでもやるつもりです。
 サンワ工務店の社長も僕の移住を喜んでくれた。どんな家に住みたいのか?と聞いてくれて、探してみると言ってくれた。彼は熊本でおそらく一番面白い物件を知っている偉人。なんだか、熊本移住ライフも面白くなってきた。不思議と不安は無い。海外に移住するのと同じような気持ちである。実家に帰るというのとも少し違う。そして、どんなところでも僕はトークショー開きたいし、ライブをしたいし、スラックとパンピーを呼びたいし、マルチネをよびたいし、磯部涼と一緒に夜遊びしたいし、松江くんの映画を流したいし、前野健太にも歌って欲しいし、DJ ShhhhhにDJをやってほしい。そして、零塾を早く開きたい。みんなに会いたい。それが今の僕の気持ちである。

 2011年3月24日(木)。25日(金)。たくさんの日記の読者からのメールをひたすら返信する。とても励まされています。ありがとう。僕はとんでもなく多くの人々たちに影響を与えているのだということを再認識した。さらに緊張感を持って、人生の選択をしなくてはならないと自覚。同時に、だからといって萎縮してはつまらないので、たまには顰蹙を買うように、ふざけたこともやっていこうとも思った。僕は自主規制はしない。自主開放をし続ける。もちろん、抑制は重要だけど。
 僕はこれから声を大にして、問題に突き進むだろう。そうなると、恐らく攻撃もされる。既に、上関原発問題からNHKや朝日新聞の仲の良いディレクター、編集者たちの自主規制が入ってきている。しかし、そこに絶望しても仕方がない。諦めずに、また彼らにも声をかけていこうと思っている。マスメディアが信用ならないというのは簡単だが、僕はそう簡単には諦めたくない。だからまた恊働しようと思う。いつでもどこでも絶望することほど楽な作業は無い。希望を持つということは大変な作業なのだと思う。だからこそ、知性を持っている人間たち、技術を持っている人間たちがこの時期、行動し、人々に新しいベクトルを示していかなければいけない。
 読者の人が何人か、電話をしたいというので、電話をかける。避難情報、汚染情報を僕がどのようにして獲得し、処理し、吸収しているかを伝えた。僕は情報を信じて動いているわけではないことも伝えた。ただこのような事態には、最悪の事態を想定して動くのが、人間的本能であるだけなのだ。そのような事態を想定せずに自分の場所に固執する人間は、生命よりも尊いものがあると信じているということである。生命よりも尊いものとは一体何なのだろうか。いつかの戦争時に人々がそう思い込み、死んでいったことを思い出してしまう。
 もちろん、そのことを僕は直接に知らないから分からないことでもあるけれど、2001年に亡くなった最愛の祖父、井元健之は戦争の時のことを僕に話してくれて、それがいかに馬鹿げたことだったことを伝えてくれた。彼は戦争直後、すぐに米兵たちと仲良くなり、映画俳優という夢へ突き進む。その肯定的なエネルギー、飄々と変化する機敏性、竹のようにしなる性質は、確実に僕はこの母方の祖父からの影響を直接に大量に受けていることを今回、さらに理解した。僕は、いつも自分が周りの人間からは理解されないような時にはこの祖父と夢想で語り合う。で、いつも大体それでいいんじゃないと言ってくれるのだ。
 そんなことを家で言っていたら、僕の親父がぼそっと、父方の祖父である坂口始の話をし始めた。技術者であり、なんでもいじるのが大好きで、免許書も一桁だったという大の機械好きで、器用貧乏と言って家族から笑われ、呆れられていた始さんは、戦後、自動車整備工場を立ち上げたという。機械好きだが、自分を表現することが下手だったため、会社はうまくいかず親父が物心ついたころには潰れていたらしい。その後、タクシーの運転手になる。運転は天才的にうまかったという。最後は、スクールバスの運転手。エンジニアでいたかっただろうが、それを自分の生業にすることなく、人生を終えた。親父が言うには、生活はとても貧しかったという。
 しかし、プライベートでは創作活動に打ち込んでいたそうだ。象牙を使った彫刻作品を作ったり、神社で毎日朝五時半に目覚まし代わりの太鼓を打ちに行き、神楽の音楽担当もしていた。尺八をしていたとのこと。切れ端で椅子を作ったり、サル、鶏、モルモット、ホオジロ、メジロ、犬、など動物への愛に溢れ、色んな動物と共同生活していた。僕の親父の肩にもサルが乗ってきてたそうだ。そんな人間、周りに一人もいなかったそうだ。そりゃそうだが。お経が空で読めたので、お坊さんの代わりを勝手に買って出てやっていたり、僕と同じようにギターも何も持たず、裸一貫で詩吟をやっていたそうだ。全くの我流で。
 近所の住民に愛を振りまき、エンジニアであり、芸術家であり、音楽家であり、家具職人であり、お坊さん(?)でもあったので、色んな人のお世話をしてまわったそうだ。親父も子供心におせっかいにしか見えなかったとのこと。僕にはとてもよく理解できる行動なのだが笑。
 さらに、親父の親父の始の親父である、徳松がもっととんでもない人間であった。実家に帰ると、こんな話がぽろっと聞けるから面白い。徳松は、河内という熊本の蜜柑の名産地で育ち、百姓が嫌で街を出て、明治時代にもかかわらず、アメリカはハワイへ移住する。しかし、ここで坂口家の血筋だが、どれくらいいたのかは不明だが、結局夢破れて、熊本に戻ってくる。その後、仕事が何をしていたかは不明だが、在野の政治活動家になり、県庁などに直訴にいっていた。(家族はただ殴り込みに行っていたと今でも思っている)
 そんな話をしていたら、今度は母が、健之の父である、井元定雄の話が始まった。定雄は山口の炭坑で一旗あげようと熊本から移住し、小野田炭坑の労働組合の委員長をしていたそうだ。定雄とは会ったことがないが、僕が大好きだった曾祖母トキヲは定雄と一緒に政治活動をやっており、婦人会の会長など、トキヲは女性の権利を守る活動をしていたらしい。この話は僕は初めて聴く。おそらく、両親は僕のどこから来るのか僕にも計り知れない社会的な活動へのエネルギーを察知し、無意識的にだろうけど、隠していたのかもしれない。僕の両親の曾祖父は形は父方がブリコラージュ的、母方が正統派的、政治家であったのである。極めつけにこう言った。「ペルーのアルベルト・フジモリ元大統領は、井元家の親戚なのよ」
 一体、何なんだ。僕のこれからの人生の幕開けのような、家族の会話であった。しかも、僕の両親は恐れている。彼らは、なぜ人のために仕事をしようとするんだ。自分たちが幸せであればそれでいいではないか。出る杭は打たれる。お前が打たれるのが心配だから、あんまり目立った行動をしないでほしいと懇願している。それも分かる。だから、ちゃんと地に足をつけて、行動をしよう。誰も悲しまないような方法などできるわけはないが、悲しみはできるだけ最小限に抑えられるように努力しよう。
 お昼頃、熊本の一番弟子であるヨネと僕の本拠地PAVAOで待ち合わせし、ビールを飲みながら、次なる行動の計画を建てる。ヨネも建築学科卒業の作家志望の男である。僕はこいつをしっかりと社会に役立つような人材に育てる。それが僕の熊本にいる責任の一つでもある。で、ヨネと二人で東北に入るための計画。車はバンが手に入った。向かうは気仙沼で石山さんの建築を調査し、陸前高田で見つけたブリコラージュ人たちと協力して、再建、復興のお手伝いをしよう、と。僕は温泉にも入って、熊本のうますぎる飯も食べているので、エネルギーが充填されている。だからこそ動こう。今日は決起集会ということで、とにかく飲むことに。
 PAVAOの次に、親友が働いているクラブへ遊びに行く。クラブと思って踊りに行こうかと思ったら、そこは高級クラブであった。女の子たちがやってくる。親友も着飾ってやってきた。西で消費を恐れていたら、経済が大変なことになると思い直して、とにかく大判振る舞いすることにした。ヨネと一緒に飲みまくる。無茶苦茶高かった。でも、それでよい。気持ちよくお金を払う。
 その後、都一という僕の大好きな飲んだ後に行くと最高の体験ができるお好み焼屋へ。隣に座っているおじさんと仲良くなり、しかもそれが僕の小学校時代の親友が働いている会社の社長という奇跡が起こり、一緒に原発問題について語り合い、どうにかしないといけない、僕は行動すると宣言。しかも、社長は全部驕ってくれた。ありがたい。こうやって、西からも盛り上げていく必要がある。最後にまたPAVAOに戻り、テキーラを飲んで、アイスコーヒーで落ち着かせて、タクシーで帰ってくる。
 発売された朝日ジャーナル復刊号を読む。飯田哲也さんも書いているし、藤村龍至さんも赤瀬川原平さんも書いている。その中に僕も入って、自分の原稿が書けていることに、興奮するし、使命感も感じる。藤村さんと電話で復興について話し合う。ここは、僕と藤村さんがちゃんと協力して、建築家として、ちゃんと取り組む必要がある。お互い話し合い、士気を高める。緊急事態、異常事態こそ、人間の本分が試される。ちゃんと政治的にも、具体的にも、器用大工的にも動いて行きたい。
 そういうバランス感覚が僕と藤村さんにはあると思う。そういう人は稀なはずだ。だからこそ、希望を届けたい。とにかくやらねば。カナダで僕はとにかくお金を集める。僕の作品を全て売却する予定だ。それをもって、モバイルハウス復興版を建設する。
 もう建て売り住宅は嫌だ。35年ローンでもう一度家を建てるのは嫌だ。僕は新しい住宅システムを構築しなくてはならない。壊れてもいい家。守らなくてもいい家。だけど守られる家。そのような巣のような空間こそ、この復興では一つの希望になるのではないか。僕はそう思う。落ち着いてそう思う。

 2011年3月26日(土)。朝起きて、熊本日日新聞「建てない建築家」連載2回目ゲラチェック。毎月最終月曜日の文化欄の半ページ、しかもオールカラー。期待してくれているので、これは本当に頑張りたい。しかも、今や熊本県民になったので、そういう意味でも盛り上げていかないと。
 集英社すばる「モバイルハウスのつくりかた」連載9回目のゲラもチェック。直して送信。これで気にしていた連載は完全に終了。と思ったら小学館スピリッツの担当編集者から電話。路上力も次にやらないといけない。
 今、本当に色んな人からメールが来ている。映画監督の松江哲明くん、劇作家の神里雄大くん、漫画家の長尾謙一郎さん、アーティストの大原大次郎くんなど作家たちからも連絡が相次ぐ。今まで、もちろん会えば話はしたが、特にメールのやり取りはしたことがない人ばかりだ。僕の今回の行動に対して、色々と励ましの言葉を頂いた。ありがたい。感謝です。
 その後、お昼、ヨネとフーとアオと僕の四人で紅蘭亭という美味しい中華料理屋でランチを食べる。美味。その後、歩いて新町へ。物件探し。新町は城下町で、いまだにたくさんの町家が存在している。せっかく引っ越すなら、今度は古い物件に住んでみたいと思っていたので、とにかく色々と当たってみる。町家でありえそうな物件が二軒あった。ちょっと地震が来たら大丈夫かなと思えるようなものだが、やはり趣深い。検討してみることに。
 ここ新町は(実家も新町である)、町家が多いので、町家で町づくりをしようとしているとのこと。尾道の空き家再生プロジェクトのようになってきたら、面白くなるのではないか。期待したい。
 その後、僕とヨネと並木坂へ。福岡から来た零塾生の江上くんと待ち合わせし、いつもの拠点のPAVAOへ。そこで、江上くんの面接をする。非常に面白いことに取り組んでいるのだが、生業が無い。生業がしっかりとしていないと、自分の作業は着実には実行することができない。なので、むしろ江上くんは先にどうやって食べて行くのかということを考えてもらうことに。
 面接が終わると、また物件さがし。今度は上通りという僕が大好きな街並の近くを探す。そしたら、あったんです。ありえない物件が。坪井川という熊本城のお堀に繋がっている川で、その川沿いにまるで千と千尋の神隠しに出てくる油屋のような建築と出会う。しかも空き家。行ってみると、これがとんでもなく、風情があり、僕は即決でここに住みたいと思った。
 不動産屋へ電話すると、この建築は戦前のものらしい。材料はかなりいいものを使っている。二階はL字で窓になっている。つげ義春の「李さん一家」のような雰囲気もある。涎が出てきた。しかも、広大な庭まで付いている。これであれば、モバイルハウスを実験することもできる。さらには、街の中心地から徒歩5分。なのに、とても静か。しかも、川沿いなので、なんというか悠久の時間が流れている。戦前の建築なので、建具もしっかりとしていて、もうここに住みたいと思って、値段を聞くと、以前は家賃が1万5千円だったとのこと。信じられなかった。さすがにそれは安過ぎるので、3万円になったとのこと。さらに、この家は売りに出しているらしく、いくらですかと問うと「土地付きで620万円です」とこれまた有り得ない発言。
 安い。これなら、買うことができる。滞在1週間もないのに、いきなり家を買おうとしている笑。さすがにフーアオが見ていないので、我慢したが、明日また見に行くことに。近所には夏目漱石の旧邸がある。僕はここが街で一番好きな場所である。そんな憧れの作家が住んでいた街のすぐ横にある戦前の千と千尋ばりの建築。庭もあるし、横は川。なんだか興奮してきた。新しい生活が始まる予感がする。ここで、零塾を開こう。トークショーも開こう。フーはジュエリーの店をここでやればいい。作業場まで設置されている。ヨネは僕の家の庭にモバイルハウスを建てて住むと言っている。
 僕が妄想する村計画がここであれば実現するのではないかと思った。土地や家を買うことを僕は否定してきたが、否定するよりも、買ってみて、そこを完全にパブリックスペースにするという実験をやったほうが面白いのではないかと得意の思考の転換をした。もちろん、驚く人も多くいるだろう。しかし、それが僕の仕事の醍醐味である。矛盾の中の矛盾に飛び込む。
 この急展開に意外とフーがくっついてきているのに驚いている。アオは熊本に来て、活発になってきたので、良かったなあと思った。
 しかし、どうなるのだろうか。日々変化している。自分に振り落とされないように、ちゃんと手綱を引っ張って、気持ちよく風に乗りたい。

 2011年3月27日(日)、28日(月)。朝から喫茶店で原稿。原稿仕事は熊本でも東京でも何にも変わらない。これだったら、生活費が東京の3分の2ほどの熊本でサバイバルするほうが断然いいのだということに今回気付いた。そういう意味では僕にとっては、東京に住むことができなくなったという失望のはずだったのだが、それがまさに希望そのものであったので、とても嬉しい。僕はこの原発事故によって、新しい生活を発見したのである。これを絶望的に捉えるか、希望として捉えるかで、僕はこれからの人生が決まると思っていたので、熊本でやれると思えたので良かったと思う。
 吉祥寺にあるモバイルハウスについて考える。集英社の飛鳥さんとも少しだけ話す。僕は始めは熊本にモバイルハウスに持って来ようと思っていたが、それよりもモバイルハウスを東京にあるセカンドハウスと見なすのはどうかと思った。東京には打ち合わせもあるし、東京で文化を発信している信頼しているアーティスト、音楽家、作家たちがいるので、月に一度、一週間は東京に出張し、モバイルハウスに滞在しようと思っている。そうすれば、別に熊本だけに固執するのでもなく、放射能で汚染されている東京での生活も実体験することができる。アオは一生足を踏み入れさせないが、僕は別に心配ないので、東京も見たい。なるほど、こうすればいいのだとまた閃いたのである。
 熊本の友人たちとも、出会い、これからのことも話をする。こちらも面白くなりそう。自分の動ける場所が、東京だけでなく熊本と二つに増えた。さらにバンクーバーにも僕の活動の場所が発展しつつある。興奮している。そうやって動けば、経済危機なんて全く関係ない。どこでも生きていける。今回、そのことにさらに自信を持った。根無し草でいることは、これからの社会では本当に最重要項目である。これこそ都市型狩猟採集生活の根源なのだ。
 バンクーバーでの個展も本格的に動き出した。これは本当に楽しみ。そして、これからの移住生活にとっての軍資金を獲得するための機会でもある。しっかりと稼ごう。もうひとつの大きなプロジェクトからも大金が入った。とにかく、これをもって、また新しい生活を完全に自分の表現として昇華させる。そして、これをまた次なる活動のためのお金に変化させる。
 こういうことを零塾ではちゃんと教えていきたい。しかし、まだ零塾生のほとんどは、ここまでいっていない。その前に勉強をしなくてはならない。すぐに利益や結果を求める人間が多過ぎる。ちゃんと10年かけるつもりでやってほしい。
 そして、熊本での生活の場所だが、この戦前からの千と千尋の神隠しハウスに本当に生活することができそうだ。まだ決定はしていないが、どうにか交渉している。しかし、ここで最高だったのは、今日の熊本日日新聞の朝刊に僕の「建てない建築家」という連載が掲載されていて、それを読んだ不動産屋さんが気に入ってくれて、僕のお願いしている条件で話をしてみると言ってくれた。ありがたい。新聞で連載していて良かった。
 ということで、ここに住む予定で突き進む。フーも了解してくれた。この豊かな庭でアオを育てる。0円ハウス研究所を設立する。弟子のヨネは、この庭にモバイルハウスを建てたいというので、0円で使っていいよと伝えた。こうやって少しずつ村を作っていく。しかも、僕の家に来れば、家賃タダですから。
 いい方向に向かってはいるが、ちゃんと実現させないと。明後日、さらに動くことになった。
 夜はまたPAVAOで熊本市現代美術館の坂本さんと飲む。
 やる気がむくむくと湧いている。

二階からの眺め。有り得ないほど気持ちの良い落ち着く空間。正月とか皆で酒とか飲みたいね。

一階廊下。夏目漱石の面影が浮かんでくる。ここが勝手口です。

大木が家を守る。

母屋の前には平屋の作業部屋がある。ここが0円ハウス研究所になる。

入口から庭、母屋を眺める。

80平米の母屋と120平米の庭。広い。昭和初期の風が流れる。

庭から坪井川を眺める。

サンワ工務店所有の軍用ベンツと4WD。右のが欲しい(笑)ので交渉する。

熊本の音楽発信拠点ウッドストック。ここから家まで徒歩5分。最高のロケーション。

 2011年3月29日(火)、30日(水)。不動産屋から電話がかかってきて、大家さんに伝えたところ、任せますと言われたとのことで、まずは購入せずに2年ほど賃貸で住んでみてもいいということになった。家賃は80㎡で3万円。庭は150㎡ほどある。熊本でも破格の安さである。しかも、別に買わなくてもいいのなら、賃貸のほうが良いので、ありがたくお願いすることにした。
 敷金も礼金ももちろん無し。手数料が一ヶ月分だけ。そのかわり、何にも管理しない補修しない。そのかわり、あんたこの家再生するのなら何やってもいいよという契約になった。僕は以前、光文社のPR誌で「東京珍貸住宅情報」という連載をやっていたのだが(あれはなかなか読者の反応が良かったのだが、雑誌が休刊し、光文社もなんとなく元気がないのか次の雑誌に移行するという連絡を待つも、一年ほど連絡がない。最近電話したら、他の出版社に企画持って行っていいですよ発言されちゃった。とほほ)、その連載の最終目標であったのが、この誰もが見捨てた最低のように見える最高の物件を見つけ、そこに住みつき再生させるということだったので、こんなところで夢が叶った。
 こんなところ、熊本に住んでいる人間だったら借りないのだろう。でもアオはこの家を見て、となりのトトロのサツキとメイの家を連想している。僕は熊本にある徳富蘇峰と徳富蘆花が始めた大江義塾という今も現存する建築を思い出したので、どうにかして住みたいと思った。フーは多少不安そうだが、それでもちゃんと再生させたら楽しくなるかもしれないという希望は抱いている。一週間で家を買おうとまで決めようとしていたので、フーはおそらくジェットコースター状態だっただろう。
 でもフーは僕がリスク大好き人間なのを知っているので諦めてくれたっぽい。面白くなるためには、リスクを避けては通れないのである。だからこそ先を見通せる力が必要になる。僕は今回、もちろん避難してきたが、今は疎開しているつもりはさらさらない。完全に熊本という生まれ育った土地に対して大きな可能性を感じたから、むしろ移住したくてするのである。ということを、フーに説得する。現にフーのアトピーがこちらに来て少しずつ快復している。もちろん、何が原因かは分からないが、辰頭温泉に入った時の充電感に僕は可能性を見た。
 夏目漱石の熊本時代を調べているのだが、今の僕と同じちょうど32歳の時に、漱石は僕の家の隣にある旧邸で暮らしていることを知った。何でもすぐに結びつけたがる僕の悪い癖だが、やっぱり関連性を感じてしまう。彼はここで、俳句作品のほとんどを作り上げる。そして、正岡子規と手紙で連絡を取り合い、創造性を高めていく。我が輩は猫である、にも三四郎にも、熊本のここの描写が出てくる。しかも、僕の家は漱石と同じ空気を吸っている可能性が高い。小泉八雲や漱石や寺田寅彦たちがいた熊本は教育の実践場だったのだろうと想像する。ここで、僕は若い人間たちと一緒に新しい教育の在り方に挑戦しようと思った。零塾をやろうとしていたというのはここに繋がったのかと一人で考えている。それはあなたの素敵な勘違いよと両親。そうかもしれないが、そうじゃないかもしれない。僕はいっつも、楽しい方に結びつけるようにしている。そうやってきて、うまくいかなかったことがない。まあ、どんな時でもうまくいっていると勘違いしているのが僕の特徴なのではあるが。
 ということで、この坪井の邸宅に家族三人と弟子のヨネと暮らしことにした。すぐにヨネに電話する。ヨネがモバイルハウスを庭に建てたいというので、もちろん承諾する。村への第一歩。家賃は零塾なので、もちろん0円である。若者からは一円も金をとらない。社会の財産だからである。邸宅自身の再生の工事も手伝ってもらうことに。ヨネがちゃんと飯が食えるように育てないといけない。巻き込んだのだから、こちらも一生懸命やるつもりである。
 不動産屋の井上さんと喫茶店で話し合う。彼に向かってやたらと熱く語ってしまった。九州はこれから確実に繁栄する。だから挑戦するために僕は移住する。今年、韓国版の翻訳本も出るので、ここから韓国へ行くこともあるだろう。上海の友人からは上海で活動してくれとも言われている。バンクーバーにも福岡空港からの方が行きやすいとのこと。今は新幹線で30分で福岡だ。アジアの拠点になるという石山修武氏の言葉の意味がようやく分かってきた。
 これから、東京だけの仕事で食っていくのは困難になってくると僕は考えている。だからこそ、活動の場を広げないといけない。来月行くバンクーバーでは、自分の住む場所も見つけて来ようと思っている。熊本にもいつか放射性物質は降ってくる。その時、またさっと動けるようにいつも色んなところへ場所を作っておく。根無し草でいるには努力が必要だ。そのことを肝に銘じ、とにかく生きのびることだけ考える。創造を試みる人間は決して病んではいけない。15日の直感から二週間経ったが、自分でも笑えるくらい生き方が毎日変化している。それでも、腹の底から笑えている。萎縮もしていない。闘争心もある。東電は許せない。しかし、今の僕は原発よりも、次の一歩だ。解決策、そして自分の仕事の発展形を具体的に示すこと。
 今のこの時間、さぼっていては駄目だと叱咤する。原稿を書く。仕事をとにかく進めよう。後ろは振り返らない。毎日、ちゃんと決断する。そして、それをこの日記で表明していく。
 バンクーバーの原さんとスカイプして、個展の打ち合わせ。これで打ち合わせができるから、もう本当にどこでも仕事ができるのである。住むところなんてどこでもいい。ならば安く、環境が良いところへ行く。それは知性のある人間なら、当然実行することである。こだわりなど、自分の創造性の何の役にも立たない。だから、徹底して土地に対する執着心を捨てる。昔であれば、僕も東京を離れられなかった。でも、今は違う。なぜ違うようになったのかを考える必要がある。
 原さんからはとても嬉しいニュースばかり届いた。おおいに励まされる。バンクーバーに住んでいる僕のコレクターの人たちがとにかく個展はともかく会えるのを心待ちにしているとのこと。感動して心が揺れ動く。みんなどこかへ旅行に行っているらしいが、僕の個展のオープニングに合わせて、帰国してくるらしい。
 なんで、ここの人は日本人の僕を、日本人よりも温かく迎えてくれるのだろうか。不思議な縁である。しかし、日本で僕がどんなリアクションされても、全く平気で凹まないのは確実に彼らのおかげである。この人たちは、可能性だけに注目する。少しでもあれば、ちゃんと真剣に話してくれる。そして、作品を買ってくれる。ここにはアーティストとコレクターの真剣な関係性が存在している。僕はギャラリーに属したことがないので、本当であればコレクターを見つけるのは困難のはずだ。しかし、僕には理解してくれた幾人かのフィクサーがいる。原さんもその一人。彼女のおかげで僕は独立して生きる方法を見つけた。
 僕はこの地震、原発事故を経て、さらに零塾では「どうやって食っていくか、どうやってお金を稼ぐか」を徹底して教育しようと思っている。お金が全てではないことは分かっているつもりだ。でも、大半の人がそれで苦しめられていることを知った。つまり、自分の技術でどこでも稼げるような方法論を確立している人間が異常に少ないのだ。この国は。そのことを真剣に教えていこうと思った。
 そんなことを考えていたら、東京書籍の山本さんから初めてのメールがあり、日記を読んでくれており、零塾の教科書になるような本を作れないかとの依頼。こんな大惨事で、新しい仕事を作り出そうとするエネルギーが衰えている中、とても心強いものを感じたので即電話し、東京のモバイルハウスで会うことに。東京書籍と言えば、僕も高校生時代お世話になった教科書である。そこから教科書の依頼って。一人で盛り上がる。
 バンクーバーの件もそうだし、太田出版の重版もそうだし、北海道からすぐにトークショーをしたいと依頼が来たのもそうだし、今日の東京書籍もそうだ。どんな困難な時であっても人々は決して希望を捨てない。立ち向かう態度さえ伝えることができれば、ちゃんと仕事が生まれる。これこそ態度(atitude)経済である。
 夜はDOMMUNEで3月3日の都市型狩猟採集生活第6話の再放送を見た。見ながら初めてツイッターをピンチヒッターでやってみた。2800人の同時視聴は僕の番組史上最高人数であった。しかも、地震、原発事故前にもかかわらず、ありえないほど的確な問題意識を伝えていた。僕はただ話を聞いていたので、これは鎌仲ひとみさん、飯田哲也さんのおかげである。とにかく最近、日々勇気を頂いている。この日記にも5000人の人が訪れている。感謝してます。次にもっと行動に移さなければいけない。自分が試されていることを感じている。失敗を恐れずやろう。しかも、失敗したら僕は終わりだと思う。失敗してはいけない。なので、毎日ちゃんと頭を使って考えよう。知る勇気を持て。いまだにこのカントの言葉が頭から離れない。これを奈良の講演会で音読してから、何かがちょっと変化しているように感じている。
 毎日、たくさんのメールが送られてきてます。ありがたいことです。親父から「お前がそんなに狂ったように仕事をする意味が分かった」と言われた。そうです。理解してくれる人間は、必ず存在する。そのことの確信があるから、僕は行動をすることができるのである。それは批判してくれる人も同様である。わざわざ僕の作品、言論について真剣に考えてくれるのである。そんな人々の言葉を僕は無視できない。批判をする人の言葉の全てを「文句」だと思っていた数年前と、自分をちゃんと修正してくれているのだと、自分の無知と無力を実感し、それらの批判の言葉によって自分の動き方を調整することができるようになった今では、雲泥の差がある。ネガティヴなエネルギーを否定する人もいるが、僕はたとえネガティヴであろうとも、それはエネルギーなのである。そのことに気付いてからは、ありえないほど気が楽になった。ということで、余裕ができたらから、徹底して人の批判に耳を傾けることができるようになった。しかも、その批判こそが自分にとっての新しい可能性を示してくれることが多いので、今では喜んで追いかけているというドMになってます。

 2011年3月31日(木)、午前中、外出し、喫茶店ビギンへ。創業55年の老舗。しかも、お客さんが少なし、ラテン音楽がなっているので心地良い。路上力の原稿2000字と、河出書房の止まっていた書き下ろし原稿4000字が進んだ。ここ、原稿書きやすい。熊本では、当面の間、午前中だけを自分の仕事の時間にあてることに。後は、家の再生をする。
 その後、熊本城へ花見へ。満開で平日にもかかわらず人が多い。熊本は街の中心部でも緑が多い。夏目漱石が「森の都」と呼んだ都市である。今回の原発というきっかけで、僕は自分が産まれ育ったところで生活していくという転機が訪れた。こういう変化は変に気にせずに、むしろ好機と思ったほうがよい。しかし、九州に放射性物質が舞い降りてくることも時間の問題である可能性もある。来月のバンクーバー個展の際には、バンクーバー移住も視野に入れて物件を見ようと思っている。本当に遊牧民のようになってしまった。まあ、それはそれで楽しいのだが。
 熊本城で、フーアオ、そして横浜から遊びに来ているフーの幼なじみの鳥海さんのおじちゃん、おばちゃんと坪井の新居へ行く。おじちゃんが面白がってくれて嬉しい。その後、青柳という料理屋へ。天草の魚を使った刺身と、馬肉のすきやきと釜飯と霜降り馬刺を食べる。無茶苦茶美味かった。東京では寿司屋で卵しか食べないが、ここでは魚が食べれる。偏食野郎でございます。
 福岡の建築家である井手健一郎さんからメールがあり、5月11日に福岡で行われるデザイン展でのトークショーの依頼。藤村龍至さんも参加するとのこと。藤村さんとは東北の復興プロジェクトについて話し合いたい。僕には何もできない。もちろん、無力だ。だから、何もしないで無力感をちゃんと感じようと思っていた。
 しかし、カナダの人々たちが僕の個展に向けて様々な巨大な協力をしてくれているのを見て、少し変化してきた。ソーラーパネルが大量に手に入れば、方法は見つかるかもしれない。それととにかくお金を獲得しなくてはならない。0円のボランティアで人に依頼したくないからだ。個展では150枚のドローイングを全て売却する予定である。
 何か可能性はあるかもしれない。とにかくお金。家を建てるのにはお金がかからない。なにせ2万6千円なのだから。もちろん、そんな家に住みたくないと言われることが多いと思うから。。。うーん、難しい。で、そんな話を井手さんや、藤村さんと話し合えたら良いと思う。しかし、被災者の方たちは、関東、関西のほうに受け入れ先があるにもかかわらず、避難していない人も多いと聞く。生まれ育った土地から離れたくないのは理解できる。しかし、今は緊急事態。その状態でも変化することが困難ならば、僕のモバイルハウスなんて、住めるわけないと言われると思う。それを解決する方法も考えないと。
 しかし、熊本に移住してきて、福岡、北海道と、今まで全く声がかかることがなった地域からアクションがあるのには本当に希望を感じる。変化すると当たり前だが、仕事の在り方自体も変化する。その変化を楽しもう。自分の失ってしまったものを悔やんでいても仕方が無い。自分はここでやるんだ。不安はなくはないのだが、なんだか知らんが勇気に満ち溢れている。零塾生と電話で話し合う。零塾ももうスタートさせてますので、塾生のみなさん、課題はちゃんと締め切り守ってがんばってやってみてください。もしも、大変な状況にある人は、ちゃんと知らせて下さい。対策を練っていきましょう。福岡の塾生、江上くんからも仕事が決まりそうだとの連絡。みんな少しずつ動いている。僕は、彼らの少しでも指針となれるように、ちゃんと決断し、生き延びようと思った。

熊本城の桜。なんかこっちは緑や花や太陽光が関東とは全然違う。

熊本城の目の前の二の丸公園でフーアオと遊ぶ。

青柳の寿司。美味。

僕の熊本での仕事場「ビギン」夜12時までやっている喫茶店。

 2011年4月1日(金)、午前中、サンワ工務店へ。社長に会いに行き、今後のことなど色々と相談する。サンワ工務店はTOKYO0円ハウス0円生活でも書いたが、僕の建築観のルーツである。高校生の時に、熊本の店は楽しいところが多くて、僕はシャンカールというインド風カフェによく行っては放課後を楽しんでいたのだが、そこを設計したのがサンワ工務店だった。そこで、ルミちゃんというこれまたサンワ工務店が設計していた雑貨屋の姉ちゃんに社長を紹介してもらったのだ。とにかく、会いたい人がいたらすぐに会いにいけという僕の勝手な教訓によって実現した初対面で僕は「無償で働かせて下さい」とお願いした。それがきっかけで大学時代、夏休み、春休みはサンワ工務店で働くことになったのである。そこでの体験が僕のその後の建築仕事の根っこなのである。社長は熊本に帰ってきたのを喜んでくれており、何か一緒にやれれば面白いなと思った。
 その後、ミニクーパに乗ってヨネとホームセンターに行き、道具、お揃いのツナギを購入して、坪井の新居へ。今日から、再生を始める。まずは二階部分を掃除。帚で掃いて、雑巾がけすれば、かなり綺麗になった。午後4時頃まで作業して、二階の縁側でヨネと酒を飲んでいると、高校の時の後輩のジマが電話をしてきて、僕のホームページを見たら、なんか面白そうなところに引っ越してるたい、おれも見に行きたいというので、ジマも呼んで三人で飲む。飲むといっても、酒がなくなったので、ヨネが地元の八代の水源から汲んできた湧き水を飲む。東京の友人も水には困っているようなので、ここの水源の水を送ってみようかと思っている。ヨネに保健所で確認するように指示。ここは水もうまい。本当に熊本にはなんでも揃っている。しかも、地価は安い。なんだか不思議なところである。地元の人はあまりにも環境が良すぎて、逆にその良さが普通と思っているところがあるのかもしれない。県外から、海外から来ると、その価値がありありと見える。しかも、生活費が安い。しかも、地方都市にもかかわらず夜は結構元気だ。みんな酒飲むし。これから移住が増えるかもしれない。
 僕とヨネとジマの三人で、PAVAOへ。そこでまた小学生の同級生であるタグッちゃんに会う。INDIGOという熊本のクラブのオーナーと一緒に。INDIGOは閉店してしまったらしい。がっくり。この気狂いダンサーは一体どこで踊ればいいのでしょうか。さらにS.L.A.C.K.やパンピーなどが所属しているDOWN NORTH CAMPのクルーであるリュウヘイくんも来た。なんか色々と繋がるもんである。ま、東京も熊本も関係ないってことなんでしょう。とか言いながら、熊本で活躍しているというカメラマンとカフェで話をしていたのだが、石川直樹も石塚元太良のことも知らなかった。それはそれでびっくり。地方で動くことも重要だなと再認識したのであった。
 なんと尾道から大将が車でやってきて、PAVAOで一緒に飲む。その後、大将の友人である広海さんがやっているHERO海という居酒屋へ。広海さんも一緒に僕とヨネと大将の四人で午前3時頃まで飲む。その後、三人で坪井の新居に帰ってきて、寝袋にくるまって寝る。
 DOMMUNEの宇川さんと磯部涼と電話でやり取りし、第7回目の都市型狩猟採集生活の打ち合わせ。来週、僕が上京している時にやる予定です。飯田哲也さんに電話すると快諾してくれて、これからの話ができそうだ。楽しみである。あとは、政治家の人にでてもらいたいと思い、調整をしているが、うまくいくかは分からない。原発の今後の展開、東北、エネルギー転換、僕の移住など、密度の濃いトークになりそうだ。

再生初日。窓を開けると気持ちの良い風が入ってくる。

家の廊下から桜が見える。四季折々色んな顔を見せてくれそう。

一階縁側から坪井川を眺める。

ここが勝手口。アオはこの板の階段が好きらしい。

綺麗にした二階部分。料亭のような雰囲気。

ヨネと二人で格安ツナギ。

建具を動かしたら、空中庭園のようになる。

徒歩3分のところに松本家という「ちょぼ焼」が美味い店が。

夜のPAVAO。歌っているのは熊本幻のフォークシンガー水前寺きな子。

10

 2011年4月2日(土)、尾道の大将と、ヨネと僕の三人で坪井新居で目を覚ます。すきま風が凄くて、朝は寒い。こりゃちゃんと再生しないとフーちゃんが来てくれないかもしれない。朝から僕だけ家に帰り、原稿を書く。その後、寝る。で、昼過ぎに大将の車に乗って、サンワ工務店へ。大将は尾道に旅館を作りたいという夢があり、その時は絶対にサンワ工務店と一緒に仕事をしてほしいという僕の思いもあって、両者を引き合わせる。面白いことになりかもしれない。楽しみだ。
 その後、スタンダードの真也さんにも再び会って、そば幸にてカツ丼セットも食べ、坪井の新居へ戻る。サンワ工務店の藤田さんが来てくれて、坪井新居の再生計画について話し合ってくれる。イギリス人の大工さんにもお願いしてみたらと提案を受けた。なんだか楽しくなりそうだ。藤田さんはこれまで20年以上にも渡って、ボロ小屋のような民家や蔵を新しく再生してきたプロである。僕が空想していた再生計画とはまるで違う、新しいアイデアをいくつか提供してくれた。しかし、これをやるとなるとかなりの大工事になりそうだ。フーと相談して決めることに。フーにその提案をすると、綺麗になればなるほど嬉しいから、全部やってほしいと言われ、やはり2、3ヶ月はかかるかもしれない。お金もかかるだろう。どうなるか。
 今日の夜はゆっくり。パンピーと電話で話す。熊本に来て、ライブやってよとお願いしたら、まんざらでもなさそうなリアクション。しかも、僕は今回、パンピーメインでやりたいことを伝えると、ソロアルバム作るっすよ、とのこと。これで決まり。でたらリリース記念ライブをやろう。なんか少しずつこっちでも行動を起こしていこうと思っている。

11

 2011年4月3日(日)、今日は休みを取る。そういえば、なんかずっと頭は回転していて、なんか眠れず、ずっと作業しているような日々だったので、意識して休むのは久々かもしれない。朝から、フーとヨネと、ノノカとアオと僕の5人で、やっぱり辰頭温泉へ。朝温泉は疲れが取れる。
 その後、家族で児童館へ行き、またプラ版工作に夢中になる。
 午後からは、坪井新居にて、福岡の建築家井手健一郎さんと家族が来訪し、5月11日に開催される、僕と藤村龍至さんと井手さんとハビタットの方と行うトークショーの打ち合わせ。キフジという博多で一番美味いと言う辛子明太子を頂く。井手さんはなんだか同じ匂いのする方で、面白いことになるのではないかと期待する。しかし、建築家というものがもっと公共性を持つべきだという思いは日増しに高まっている。
 その後、PAVAOへ行き、井手さんの明太子をお裾分けして、僕も頂きながら生ビールを飲み、帰宅。明日から東京へ行く。DOMMUNEもやる。モバイルハウスにも棲む。みんなに会えるのも楽しみだ。

12

 2011年4月4日(月)、朝、熊本空港から羽田へ。まずは渋谷駅の不動産屋で契約書にサイン。その後、センター街の蕎麦屋「更科」で磯部涼と待ち合わせ。3週間ぶりの再会。DOMMUNEでのトークの案を練る。なかなか難しいがやってみようということに。
 その後、吉祥寺駅で集英社の飛鳥さんと会う。一緒にモバイルハウスへ。モバイルハウスには映画監督の本田さん、美術評論家の小倉正史さんがおり、みんなで部屋で話す。集英社すばるでの連載もこれまで通りやり続けることに決めた。東京には月に一度一週間ほどモバイルハウスに滞在する。その時の記録を書くことに。
 iPAd2がなかなか出ないので、痺れを切らしてiPadを購入。そして、モバイルハウスで試して使うとやっぱりばっちり使えたのであった。いやいや凄い。これで完璧なモバイル生活が完成した。みんなこれでいいんじゃないか、などと夢想しながら、モバイルハウスで眠る。とてもサムイ夜だったが、部屋の中、布団の中は暖かい。

自家発電でiPad&iPhone。ソフトバンクのCMに出ちゃいそうな風景。

13

 2011年4月5日(火)。モバイルハウスで目を覚まし、午後から梅山景央がモバイルハウスに来る。スペースシャワーTVのディレクター、映像作家の人たちを引き連れて。スペースシャワーTVでモバイルハウスを使って番組をやりたいとの依頼。フリーライターのユンさんも来る。七尾旅人くんも来る。なんだか、モバイルハウスには人が集まる。そりゃ今大変だから、さらに人が集まる。素晴らしい東京の別荘になりそうで満足。
 その後、井の頭公園で花見。僕と梅山と磯部涼とバサラブックスの関根とダブマルとチンくんとビデオテープくんといわき市から避難してきた友人や漫画家の大橋裕之くんやササオやユメコちゃんや快快のヨンちゃんやChim↑pomの林くんやタクミくんやミヤジなどみんな色々で平日の昼間にもかかわらず20人以上の人が集まってきたらしい。素晴らしき暇人たちよ。とても楽しい会でした。でも、結構放射性物質降ってたらしい。。とほほ。しかし、父ちゃんは出稼ぎに来たんだ。我が儘いってられん。でも熊本に帰りたいとこの時点でも正直思っている。
 その後、居酒屋へ流れるも、結局いつも通り磯部涼と喧嘩して僕はグラスを割りーの、相変わらず元気な二人。逃げ足の早い僕は殴り合いになる前に、ささっと吉祥寺から渋谷へエクソダス。明日のDOMMUNEについて打ち合わせしていたら、何を話すか不安だと言っていた磯部涼に(いつも彼が構成を書いているからだろう)、不安なら出るななどと暴言を吐き、喧嘩した。なんかピリピリしていた。そりゃぴりぴりするよ。つい一ヶ月前、原発に取り組み始めたのに、もう爆発しちゃって、メルトダウンしちゃっているんだもん。二人ともこのスピードに追いついていくのに必死である。だから喧嘩しても仕方がないのだ。周りの人間はそのこと分からず喧嘩なんかするななどと言うが、僕の耳には入らない。どうせ、明日の朝一、お互いがんばりましょうと言えばいいのだ。
 というわけで、今度は渋谷のベルマッシュへ行きまして、元エココロ編集長ケイちゃんとスペクテイターとエココロのアートディレクター峯ちゃんとショウちゃんと、いつも僕に服をくれるファッションデザイナーのシミちゃんと、インテリアデザイナーのシンゴと工藤キキちゃんとササオとアーティストの大原大次郎とスペクテイター編集のツルちゃんとエココロフリー編集のえりちゃんらと、こちらもたくさんの人々が集まり、僕の移住祝いの会を開いてもらう。寄せ書きを頂く。ということで、エクソダスリーダーとして、みんなが来れるように環境作りをしておこう。第二次世界大戦でいち早く逃げたアンドレ・ブルトンのように。
 その後、峯ちゃんたちの事務所へ行き、みんなでなんか戯れていて、なんだか毎晩東京では忙しく、寝ていないので、眠くて事務所の寝袋で寝た。

バサラブックスの関根が冴えない挨拶を。。。

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 2011年4月6日(水)。で、モバイルハウスに帰ってくる。午後から東京書籍の山本さんとモバイルハウスで打ち合わせ。ほんとひっきりなしに人がやってくる。新しい書き下ろし単行本の依頼を受ける。こんな時期に新しい企画を通そうと試みてくれるだけでありがたい。とにかく、やれることはやりますと言い、色んなアイデアを出す。
 これからの時代の教科書になるようなものを作って欲しいという山本さんの依頼をちゃんと返していきたいと思った。来月は熊本の夏目漱石の坪井旧居の横にある、僕の坪井新居にて打ち合わせをすることに。こうやって、編集者たちも熊本に来れるようになると楽しいなあなどと夢想する。
 そうしていると、次に映像作家の大石女史が来訪。スペースシャワーTV用の映像を撮影する。iPadの調子も抜群で、WiFiの調子もすこぶる良い。その様子を撮ってもらう。別にこんな時代が来るとは思っていなかったけど、僕の場合、今、普段通りプロジェクトを実行していたら、なんだか時代に合わせているように見えちゃっている。でも、言っときますが、僕はずっと同じことを言っているんです。だから、これが終息しても、僕はやり続けるし、電気はちゃんと自由化し、自家発電するという方法もちゃんと奨励されるような社会にしたいと言い続けると思います。ずっと同じことを繰り返そう。僕はいつもそう思う。人間はその時々に言っていることがコロコロと変わりすぎている。恐怖に怯え、お金を求め、会社にすがりすぎている。それは生きるということではないとは、路上生活者の言葉である。永遠に弥次郎兵衛の針の先のように起点は変化させないこと。ぶれても、支柱は一切ぶらさない。そのための自立した生き方こそがどんな状態でも、原発が爆発しようがなんだろうが、気にしないで創作を続けることができる原動力になるはずだ。などと喋ったような記憶がある。
 その後、モバイルハウスでギターの練習をして、電車に乗って恵比寿駅へ。磯部涼と待ち合わせして、タクシーでDOMMUNEへ。(結局朝一、僕が電話して、二人で足を引っ張るようなことはせず、切磋琢磨でいきましょう。今日の放送は絶対にみんなが注目するから、ぶっとばしていこうと言いました。)敬愛する映画監督山本政志さんが偶然来ていて、挨拶する。熊楠の映画の上映会をDOMMUNEでやってほしい、そのときは絶対町田康さんに歌ってもらいたいなどと勝手な企画を提案してしまう。
 その後、飯田哲也さんも来てくれて、鎌仲ひとみさんも来てくれて、都市型狩猟採集生活第7回エネルギー問題後編がスタート。同時視聴数3500人を超え、延べだと2万人ほどいったらしい。裏番組でやっていたジェーンバーキンの番組よりも多かったとのことで、原発問題の関心が分かる。結局、僕はいつもどおり最後に、このムードの中、何も気にせず歌いまして、玉置浩二の「田園」の後、S.L.A.C.K.の「Hot Cake」。しかも、パンピーが「恭平さん、明日行くっす」と言ってくれたので、本当に来たらマイク持ってよと言っておいたら、本当に来て、本当にマイク持って、一緒に歌ってくれた。ありがと。
 とても充実した、素晴らしい番組になったと思う。僕に色々と原発について教えてくれた飯田さん鎌仲さんの二人に感謝しています。結局朝まで飲みました。スケジュールみっちりすぎの東京ショートステイは辛いところもある。でも、今日は楽しかった。

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 2011年4月7日(木)。朝、吉祥寺に帰ってきて、改札で河出書房の坂上ちゃんと待ち合わせ。書き下ろし単行本「生きのびるための技術(仮)」の500枚の原稿について。まだ完成しとらん。まあ、それが逆に良かったと言えば良かった。社会の状況、自分の状況をちゃんと刻々と吸収してくれているような原稿である。しかし、ここらでちゃんと仕上げよう。そして、ちゃんと編集して、良い本をまた出そう。これからは本当に必要な本しか出版されなくなるだろう。そうやって選ばれるようにがんばろうと思った。
 坂上ちゃんは5月6日に発売予定の「TOKYO0円ハウス0円生活」の文庫本のデザインも持ってきてくれていた。こちらはもう完成しているので、後は発売されるのを待つだけ。今年は文庫本と電子書籍という新しい媒体での本が、5冊出る予定になっている。まあ、こんな社会状況なので、どうなるのか分からんが、どうなってもいいように、完全に最悪の事態だけを頭に入れておいて、金に困らないように徹底していこう。動きが鈍ったら、僕の場合は終わりである。機敏に。誰よりも早く変化する。誰もが想像していない世界へ向かってベクトルを突き出す。初期投資を惜しまない。誰にも頼らない。自分を笑っている人間にも優しくする。あらゆるネガティヴなエネルギーを発電するための資源と思う。そして、信頼している仕事のパートナーと徹底して、経済効率性よりも創造性に集中した作品を生み出すことに集中する。
 その後、今度は表参道ヒルズにあるPASS THE BATONというギャラリーのスタッフ人、ISLANDというギャラリーをやっている伊藤女史、フリーでディレクターをやっているシュンくんの四人がやってくる。今日もモバイルハウスにはたくさんの人々がひしめきあって、アイデアを昇華させるべく、熱く議論が交わされています。僕は心の底から、こんな場所を作りたかったんだと思えた。こんな非常事態において、こんな非常事態だからこそ、僕は夢が叶っているのかもしれないとふと思った。
 こちらの展覧会は6月の中旬ごろオープニングの予定。地方自治体にモバイルハウスを適用した0円ヴィレッジ計画を模型、ドキュメントで展示する予定。ギャラリーを利用して、政策のプレゼンテーションを実現してみようという試みである。この時期だからこそ、僕の意見を聞いてくれる人もいるかもしれない。そこにかける。さらに、海外で動いている展示ともコラボレーションできればと思う。
 その後、twitterでモバイルハウスに遊びに行きたいという男性がいたので、今ならいますよと言うと、いらっしゃった。少し話して、国立駅へ。メディスンマンのところへ。
 ずっと行けてなかった双極性障害の僕ですが、周りのみんなにはまた発症している、これまでよりもむしろ酷い躁状態だと言われているが、僕としてはそうでもなく、メディスンマンが往診しても、大丈夫そうだとのこと。だって、ちゃんと落ち着いているもん。メディスンマンに確認してもらって、再認識。よし、もっとぶっとばそう。僕の変化に衝撃を受けていた。そして、それを全て創造活動繋げようとしている僕の試みに、とても共感し、興味を持ってくれた。いつも通りの処方。
 その後、久々にナジャへ行く。熊本移住をケイコさんは悲しみつつも、しかしアオちゃんがいるんだったらそちらの方が良いと言ってくれた。78歳の女性が国と東京電力のやり方を批判していた。最もだと思った。
 その後、駅前で講談社の川治くんと待ち合わせし、再び吉祥寺のモバイルハウスへ行き、あるプロジェクトの打ち合わせ。今までやろうと思っていたことだが、この原発パニックの中どうするかと思ったが、川治くんも絶対に実現しようと言ってくれた。房の周りには萎縮している人間なんていない。いや、いるかもしれないが、行動として現れていない。これこそ大事なことなのである。そりゃ人間は、大変なことが起きたら、ぶれるし、ゆれるし、キャパオーバーになるし、萎縮するし、悲しくなるし、鬱状態に入るし、パニックになる。しかし、人は集まれば、それが緩和される。しかも、同じ創造性を共有していたり、同じ目標を共有していたりすることで、さらに緩和されてきた脳味噌が活性化する。そのときに、ちゃんとお互い未来の話をするのである。それが新しい時代の仕事になる。僕はさらに、それこそお金にもなると思っている。最近、貨幣について考えている。新しい扱い方が自分の周りでは実践されようとしているのではないかと思っているからである。いやあ、楽しみだ。
 その後、漫画家の長尾謙一郎さんが自転車でモバイルハウスへ。今日だけで何人が来たのだろうか。川治くんも混じり、みんなで酒を飲む。長尾さんの考え方、これからの方法論などを聞く。そして、僕の方法論もぶるけてみる。お互い素晴らしい議論になったと思う。僕は今、僕の周辺の表現者に対して、興奮している。それぞれが気合い入って、チェンジを試みようとしている。それはとても頼もしいし、単純に元気になる。困ったときでも、困らない。不思議な気持ちになる。

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 2011年4月8日(金)。今日が東京最終日なので、国立の家で荷物をまとめる。その後、フリースクール上田学園の上田さんと電話で話し合う。上田学園で教えてくれとの依頼。快諾する。しかし、この原発事故以来、人々は集まろうとしている。僕に依頼も増えている。ありがたいことだ。僕はボランティアは下手だし、本当にやる気の無い人間なのだが、仕事でだったら何でもやります。ボランティアは零塾で十分です(とは言っても、実は零塾はボランティアではないんだけど、、、)。とにかく今はみんながボランティアをやろうと試みているので、ちょっとあまのじゃくな自分は「仕事」を増やそうと思っている。
 その後、新大久保駅前で七年前に会って御飯を食べたりしていたというマイコという女性と待ち合わせて、グローブ座へ。マイコと会って顔は思い出したが、どこで遊んでいたかは全く記憶に無く、本当に申し訳ない。何かの病気なのだろうか。僕は。いや、しかし、僕は逆に記憶しすぎる病気であるはずなのだが。。。もうなんだっていい。何年ぶりだろうが、みんな元気ならいいじゃないか。
 僕の本にインスピレーションを受けたというヨーロッパ企画の上田さんとV6の井ノ原快彦さんことイノッチが企画した演劇「芝浦ブラウザー」を観劇する。こんな状況だから、お客さんとかどうなっているのだろうかと席に着くと、びっくり満席でこんなの最近見てないなあと嬉しくなった。さらに、演劇が面白かった。僕が本で書いている箇所も所々出てきて、それが具体的に演劇になっていることに興奮し、至る所で笑っていた。本当に幸福な時間だった。もしも時間があれば、観て欲しいなあ。
 その後、二人で楽屋へ行き、イノッチと上田さんに挨拶をする。イノッチから謎のメールが来たのが去年の8月。そこから半年ちょいで、こうやって公演まで繋げている二人の力に刺激を受ける。僕ももっと実現性を高めていかないと。こうやって、高い緊張感で生きている人間と切磋琢磨することこそが、人間にとっての幸福だなあと思っている。
 その後、マイコと蕎麦屋で一杯やっていたら、エココロのエリちゃんがちょろっと寄ってきて、三人で話す。
 で、羽田へ行き、ギリギリすぎて、乗り遅れそうになるが、止めてもらって、乗ったはいいが、熊本の天候が悪く、福岡空港に到着。その後、新幹線に乗って熊本へ。パパに会いたいと泣いていたらしいアオと遊ぶ。忘れないでもらってありがたい。二人で夜の散歩をする。東京はちょっとスケジュールにも原発的にもハードすぎた。楽しかったけど。ちょっと落ち着こう。
 とか思っていると、トロントの情熱姐さんヤンからスカイプがかかってきて「秋は何やってんの?」と言ってくる。秋はまだ完全に日程が決まっていないというと、秋にトロントに恭平を呼びたいとのこと。ギャラリーでの展覧会と、多摩川文明の上映をするのはどうか。との依頼。いいね、いいね。今はとにかく海外での仕事を増やさないと僕はサバイバルできないと思っている。そういうときに、呼応する人間たちが周りにいると、このように向こうから反応してくれる。これは素晴らしいことだ。こういうことをもっと徹底して零塾で伝えていきたい。塾生たちはまだまだその前の段階だが。とにかく、これからはお金持ちよりも知性持ち。大学なんて何の意味もなくなる。会社なんて何の意味もなくなる。もっと言うとお金なんて何の意味もなくなる。はずだ。知る勇気を持ち、どこにも属さず、 自立して生きる。これに徹していこう。
 僕にはやれることがあるはずだと思っている。
 どんなに叫んでも、書いても、理解されなくても、諦めることなく、表現しつづけていこう。
 それがいつか夢だったと気付いてもいい。

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 2011年4月9日(土)。朝はゆっくり過ごし、お昼はカフェでヨネと待ち合わせ。家族三人で向かう。カレーを食べながら今後の計画をヨネに伝える。東京のモバイルハウスで考えていたのだが、今後熊本もどうなるか分からなくなる可能性もゼロではない。そこで、バンクーバーもしくはベルリンに移住することを考え始めている。とりあえず、4月はバンクーバーに行くので、そこで様子を見てみる。アーティストビザはとどうすればとれるのかなどと具体的な方法論も考えてみたい。でも、ベルリンも気になっている。
 ということで、熊本の坪井新居は金をかけて再生するというのではなく、全くお金をかけずに使い直すことにした。ということで、職人さんたちにはそんなに登場してもらわず、一度中を見てもらって、アドバイスを受けよう。アドバイス料だけ払うことに。後は、僕と弟子のヨネの二人でやる。だから、そこには家族で住まないことに。家族用の部屋は別に借りることを思い立つ。
 そういうことで、今日は再び物件探し、5軒ほど見た後に、たまたま実家の近くの新町の路地を歩いていたら、とても綺麗な70年代後半ぐらいの洒落たマンションがあり、中を見せてもらうと70平米と広く、無茶苦茶綺麗。管理も行き届いており、しかも中心地に徒歩で簡単に行け、実家にも近い。歴史のある街でもある。
 フーがここがいいというので、そこに決めた。なんだか、今は自分の家がありえないほど拡散している。まずは国立の家、吉祥寺のモバイルハウス、そして坪井新居。フーアオは今、熊本のマンスリーマンションに住んでいて、さらに、横には実家。そして、今回のマンション。ふー、散財している。でもなんだか解放感がある。もうどこだっていい。なんだっていい。日本でも海外でもどこでもいってやる。とにかくアオを安全な場所へ。そして、同時に僕が活動できる場所へ。つまり稼げる場所へ。常に自分の可能性を試せる場所へ、挑戦していこうと思っている。見えない不安よりも正体の分かっている恐怖のほうがいい。自分の力を試すには、10年先を見た戦略と、あとは勇気だけだ。それができなければ、僕は作家として、芸術家として、建築家として、たぶん死ぬことになるだろう。表現をし続ける人間として生きのびるためには、さらに自分の可能性を広げないといけないのだ。と、自分に言い聞かせ、今の変化に対応させる。
 フーも覚悟を決めたようで、どっしりと構えている。そのためにも、家はフーの好きなところに住めば良い。でも、それなら、自分でも仕事をして表現しなさいと伝えた。フーは、僕よりも才能があるジュエリーアーティストである。でも年間4、5個しか作らない。。。なので、それを改良して、ちゃんと自分でも稼げるように生きろと伝えた。それを試す場所を、坪井新居にするのだ。つまり、坪井新居は僕の家ではなく、あらゆる人々が可能性を試す、実験場にすることにした。
 ヨネが僕が東京にいっている間に坪井新居の図面を描いてくれていた。かなり良い出来。ちゃんとヨネにも給料を払えるようにならないと。今のところ、家賃0円、僕と一緒にいる時の食費、飲み代はタダという条件。そのへんも考えていこう。
 ということで、坪井新居は僕の創造性を実験する研究所になる。まずは僕の仕事場。そして、0円ハウス研究所を併設する。そこではモバイルハウスの実践、インフラフリーの実験などが行われる。ヨネはモバイルハウスに住み着く。そして、フーのジュエリーの工房兼ショップをオープンする。さらに、バンクーバーのセンターAの原さんからここをレジデンススペースとして開放してくれとの依頼を受けている。熊本の芸術性を高めるのではなく、世界の芸術性を高める場所にしたい。そうすればお金も少しずつ集まってくるはずだ。レジデンスとギャラリーを兼ねた場所にしたい。そして、零塾の本拠地にもなる。零塾を学びにきた人間はここに滞在することもできる。ゲストハウスもやる予定。
 そのような、統合された空間にする。それは僕の夢でもあった。地下を掘ってコルゲートパイプを埋め込んで秘密のクラブにもしたい。などと妄想も湧く。
 ようやく落ち着いてきた。さらに加速させる。零塾生から電話など。仕事の依頼など。
 チェルフィッチュの岡田利規さんからメール。僕の一連の動きに共感していただいた。さらに、仕事の依頼。ありがたい。どうなるか分からんが楽しみである。熊本にも家族で遊びに来たいという。その時に合わせて、熊本でトークショーでも企画しようかな。なんて冗談だが。僕が九州に行ったことで、色んな人が九州に来れるようになってきたら、とても楽しみだ。音楽家の前野健太も来たいと言ってくれたし、パンピーもそうだ。熊本でスラックとパンピーと前野健太を一緒にライブさせるようなイベントやりたい。その間にトークショーもやろう。松江くんの映画も流そう。鎌仲さんの「ヒバクシャ」も流したい。
 とにかく色んな企画が頭の中を蠢いている。さらに、ありがたいことに、こんな萎縮ムードの鬱病的な経済状態の中、ちゃんとテンションを保ち、僕に仕事の話をもってきてくれる人々がいる。彼らの勇気に答えたい。僕はどんな状態であっても動く。そのかわり条件だけはちゃんと目を光らせる。僕はボランティアでは動かない。それは零塾だけだ。あとは全部「仕事」にする。だから、ちゃんと金を稼ぐために、自分のアイデアを社会に寄与するために働く。そのことだけはブらしてはいけない。
 とにかく、徹底させろと、自分の中の緊急対策本部が身体の細胞全てに警告している。
 僕はこいつらが好きだ。今の日本みたいに人体には影響がないとは言ってくれない。影響があるという。むしろ、死ぬぞと脅してくる。そのかわり真実を教えてくれる。ちゃんとここで動かないと生きのびれないぞと僕に教えてくれる。僕はこいつらが好きだ。彼らを信頼しているから、どんな他の人間が僕を非難しようが、文句言おうが、笑おうが、才能が無いと言われようが、大金積まれ用が、何にも気にせず、マイウェイで生きることができる。その粘りを僕は塾生に伝えたい。強く生きるのは、自分の弱さを自覚し、認識し、分析し、対策を練り、行動を試みて、失敗してもめげないような信頼できる愛すべき人間を持つことだ。
 社会はこれから地震よりももっと大きく揺れる。その時に、鈴木さんの家じゃないが「遊び」がないと壊れてしまう。「遊び」は実は「不便」から生まれる。「何もなさ」から生まれる。だからこそ、今は「何もない」「自分の可能性をまだ信じてもらえない」不便な場所へ行く必要がある。しかし、そこには可能性があるのだ。やっぱベルリンかなあ、と今、思っている。


実寸・作画:ヨネ

近所の古道具屋。ガラスの張り替えもやっている。

熊本城周辺を夜家族で歩く。桜がやばい。

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 2011年4月10日(日)。午前中、家でぼうっとする。地熱発電について調べている。九州は地熱発電王国だ。阿蘇山あるし。大分に大きな発電所があるらしく、そこを視察してみようと思っている。太陽光発電を今、モバイルハウスで試しているが、これはとても有用で、個人レベルではかなり実用性があると思う。今はバッテリー一台でやっているが、これを数台使えば、雨の日でも夜でもなんの問題もなさそうだ。大企業などで使う電気量を賄えるかは分からないが、自分の家ぐらいであれば楽に賄える。で、それの予備として地熱発電をすればいいのではないかと考えている。が、別に研究しているわけではないので、確証はないが。ちゃんとそこらへんを調べよう。熊本では自家発電も盛んである。
 お昼前に外出。熊本市現代美術館へ。無料でやっている人形劇を観に行く。「金の斧と銀の斧」懐かし過ぎる。しかも、クオリティが高い。東京で観たプークは3000円もしたが、それよりも製作費にお金がかかっている。なのに無料。どうやって食べていっているのか分からなくなった。とても面白く、アオも満足。
 チェルフィッチュの岡田利規さんから電話。今月末に家族で熊本に遊びに来たいとのこと。これは楽しみ。温泉にでも一緒に行こう。岡田さんは色々と今後のことを話し合いたいと言う。こうやって緊急時にアーティスト、作家たちが通常ではなかなか起こりにくい化学反応を起こすということは、これからの新しい可能性につながっていく。今後、芸術に対する国や自治体からの助成が大きく変化してくると思う。僕はそれらを全く信用していないので笑、一切受け取っていないが、そういったものに支えられているのが今の日本の芸術界でもある。このときに、どうやって生き延びていくかが重要になる。ぜひ、話し合いたい。次の作品についての話も受ける。これは面白くなりそうだ。
 色んな人たちが、熊本に遊びに来たいと言ってくれている。これはとても楽しいことになると確信している。編集者たちとの打ち合わせもこれからは熊本でもやれそうだ。東京書籍の山本さんは来月来てくれるし、講談社の川治くんも行きますと言ってくれた。こうやって、僕も皆も移動しながら、色んなところで会合を開き、創造性を高めていく。これは僕の理想の社会に近い。
 岡崎藝術座の神里雄大くんにも電話。彼も5月熊本に遊びに来たいとのこと。そういうリラックスできる場所になればいい。坪井新居も二階は僕の仕事部屋兼宴会場にする予定だが、一階はゲストハウスにするつもり。宿泊料はタダ。誰でもいつでも泊まることができるようにしたい。先に避難した人間がちゃんと場所を作っておくと、次の人間が楽に移動することができる。これは昔から人間の社会がやってきたことである。そうやって、デュシャンも生き延びたのだから。
 人形劇を観た後は、現代美術館の展示を見ることに。受付の人たちは一昨年展示した僕のことを覚えてくれていて、どうぞ中に入って見て下さいと入れてくれた。感謝。僕とアオとフーと、偶然公園で出会ったもう一組の避難民家族と一緒に展示をみる。とても良い展覧会であった。そこで、アーティストの浅井裕介くんが現地制作しており、挨拶する。以前、柏のISLANDでのトークした時に作品を見て、零塾生の一人の高校の先輩だったので、会いにいくことに。
 浅井くんの家族とうちの家族とみんなで「きなこや」という安いけど美味しい珈琲とかアイスクリームとか売っている店で、バニラアイスを食べる。アオはピンクマニアなのでストロベリーアイス。浅井くんと色々と話す。今度、熊本で酒でも飲もうと言い別れる。
 その後、僕だけ一人でPAVAOへ。原稿でも書こうと思ったが、結局かおるちゃんと喋ってた。えりなちゃんに鹿児島からのお土産さつま揚げとインドのお土産鳥が集まってくる音を出すブリキの鳥のおもちゃをもらう。店員にビールを振る舞い、みなで一緒に飲む。訳の分からない日曜日の昼下がり。
 坪井新居でしばし原稿を書いて、川向いに建っている古道具屋へ行き、書斎机と椅子を購入しようとするも無かった。残念そうに帰ろうとすると、毎週土曜日、古道具のセリが行われているんですと素晴らしい情報を教えてもらう。来週、行ってみよう。ヨネに調査を依頼。その後、家に帰ってくる。零塾生の茶谷くんからメール。ロンドンにいるようでほっと一安心。とにかく若い人間で芸術で勝負したい人は海外へ行ったほうがいい。微量でも被曝してはいけない。
 今日は高円寺でデモをやっていたらしい。磯部涼と電話で話す。人も集まり、凄い盛り上がりだったという。子連れの人などのいたそうだ。僕としては、おい、子どもはちゃんと避難させろよと突っ込みたいのだが、それでも動きがあるのは良いことだと思っている。この抵抗と、代替案の提案を併行してやっていくことが重要なのだろう。僕は熊本に来たので、九州電力の動きも視野に入れて行動してみたいと思っている。
 東北地方を復興する動きがあるのは、良いことだとは思うが、僕はそんな時ですが、やはりまずは東北から避難させるべきだと考えている。建築家はむしろ、現地で行動するよりも、西日本に避難する人たちが快適に暮らせるような都市デザインをするべきなのではないか。現地にいる人も被曝して、ボランティアで行った人まで被曝するんじゃ、ちょっと辛くなる。希望を持つためにも次なる行動を元に戻す方法をついしたくなるのは人間の性だが、「変化する」ということも大事なことなのだと僕は考えている。しかも、変化するためには時間が必要だ。
 こんな混乱している状況で、計画的な変化は期待できない。鬱病の時に転職してはいけないと言われるのと同じことだ。そんなときはまずは実家に帰ってゆっくりしろとなるわけで、とは言っても実家が被災しちゃってるんだよと言われるが、そうではなく、今は東日本の実家的な役割を西が担うべきだと思う。
 むしろ、日本にこだわらずハワイとかタイとか日本人がよく行くようなリラックスできる場所にひとまず避難してもらい、その間に、知性のある人々がちゃんと話し合い、計画し、準備しておいて、復帰してもらうような行動が必要だと思うのだが、全く、その点、僕の考え方が受け入れられないので、僕の考えていることはこの日本という国では間違いなのだということをほぼ確信する。僕はこの国では異常と思われているらしい。ただ自分と自分の家族が大事だという自己中心的な考え方しかできない人間なのだそうだ。
 人間の手に負えない、しかも自然界に存在しているものではないものが発生しているので、避難するのが当然のはずだが、この国ではどうやら違うらしい。むしろ、今こそ、日本という底力が試されているのだと皆意気込んでいる。多少の被曝は仕方が無い、それよりも復興をと急いでいる。原発をなくせと叫んでいる。鬱病患者は無茶苦茶多い国のはずなのに、鬱病的状況下での行動は、むしろ躁病的発想である。僕はつい二年前まで完全なる鬱状態から抜け出せずに苦しんでいたので、なかなかそんな流れと波長が合わない。
 鬱病の時の自分のことを振り返る。
 遠くで応援されていると嫌になる。遠くからこっちに来て、一緒に遊ぼうよと言われるとそこで楽しめるか不安になる。でも、こっちへ来て、なにも喋らなくてもいいから、食事と寝床はちゃんと用意するし、食事の時以外はほとんど話しかけないから、ゆっくりこっちで休みなさいと言われたら、安心して今まで堅くなっていた力をちょっとだけ抜いてぐったりしたくなる。鬱状態の時には、貧困感が増すので、お金を貰えるのはとてもとても嬉しい。音楽は基本的に頭に入って来ないので歌わないで欲しい。でも、時折一人で小さい音で音楽を聴いてみたときに突如、心が洗われる瞬間がある。僕はJUDEE SILL聴きながら、NICK DRAKE聴きながら波長が合うのを感じ、その時だけ集中することができた。だから、信頼している人から送られてくるMP3はとても嬉しくなる。youtubeはだから嬉しい。突然、元気な人が家の中に入ってきて、御飯を作ってあげるとか、贈り物を持ってきたとかテンション高く言われたら、凹む。でも、昼間布団干しといたよ、静かにしてるから寝てていいよ。と母親的な施しを受けると無茶苦茶楽になる。ちらかっている部屋を掃除するのもいいけど、もっとやりたいのは、そこから離れることである。見ないことにしておきたい。そして、その間、できることなら他人によって掃除してもらいたい。そのためにお金を払うのも嫌なので、余裕がある人に払ってもらえたら、それもまた楽になる要因になる。
 僕は鬱病で仕事も嫌になって、お金も入らなくて、さらにやばいやばいと言って焦っていたとき、友人から70万円を仕事を受注するということで入金してもらった。意外にもこれが効果があり、その二ヶ月後に完全復帰した。ありがとう。でも、ちゃんと仕事をしないと(その仕事、まだ終わっていない。。。。汗)
 と、今の状況を、自分の鬱時代の思いと照らし合わせて考えてみた。でも、これもたぶんどうせ受け入れられない。
 でも諦めません!!!!!気にしません!!!!!これから継続して叫びまーす!!!!!復興よりも計画輸送。そして、知性を結集させた日本七変化計画案の企画、実践。津波、原発について小学校から勉強するための「知る勇気を持たせる」教科書作り。そして、どんな状況になっても生きのびることができるように、国算社理科目から「家」という総合科目の転換。
 こういうことを実践するためには、とにかく横の繋がりが必要だ。その拠点を熊本に作る。アジア諸国の連携を考える。
 とか考えながら、東大の医者である高校同級生の稲葉氏と電話で長く話し合う。ブルータスでお世話になった編集者である井出くんと電話で長く話し合う。熊大医学部で会いたいと思っていた先生が、講談社の川治くんが入社後初めて担当した本を書いていたことが判明。なんかやっぱり繋がる。川治くんが熊本来たら、一緒に会いに行こうということに。
 アオが「夜の散歩に行こう」と毎晩誘うので、家族三人で白川沿いの気持ちよい風が吹く遊歩道を歩く。
 絶望感を感じつつも、アオの振る舞いに、やはり希望を捨てられないなと思う。まずは気楽に夜、散歩して語り合え。そして笑え。避難したことも、変化したことも、この娘が導いている。この人がいなかったら、僕は動いていない。感謝に就寝。

19

 2011年4月11日(月)。朝から、フーアオとヨネと4人でミニクーパーに乗って阿蘇へ。阿蘇には風力発電のための風車が立ち並んでいる。これも今後ぜひ調査してみたい。ヨネの大学の先輩であり、僕の貯水タンクに棲むという狂った作品を当時、受け入れてくれた田中教授が関わっているのだという。パネルではなく、曲げたりできる太陽光発電もやっているとのこと。これは楽しみだ。話を聞きにいこう。
 しかし、久々の阿蘇。桜もまだ咲いており、のどかで気持ちが良い。こんなところに車で一時間ほどで来れる。やっぱり熊本は地の利がある。
 まずは阿蘇神社の駐車場に停めて、参道に立ち並ぶ、お店などを眺めながらetsuへ。ここはサンワ工務店も協力している古道具屋である。etsuに行くまで、いくつも湧き水が湧いていた。なんか、ここでは無茶苦茶普通になっているが、遠くから来た人が見たらたまげるだろうな。
 etsuさんと久々に会う。坪井新居のための机や椅子などを物色。ベンチも置きたいなあなどと夢想。フーアオが住む家をちゃんと借りたので、これでしっかりと無茶苦茶できる笑。押し入れを二段ベッド、三段ベッドにして、ドミトリーにしようなどというゲストハウス計画も浮上。庭にはベンチを置き、誰でも入れるようにしたい。私設の公民館、公園、宿坊が合わさった僕が以前から妄想していたプライベート・パブリックスペースが実現するかもしれない。などとほくそ笑む。
 etsuさんの裏庭には湧き水の小川が流れており、そこにクレソンが自生している。これが美味しいので、行った時には貰ってきている。今日もしっかりとクレソン採集。大量に頂き、店を出る。こうやって、こっちに帰ってきてからは色んなお裾分けが獲得できる。
 その後、サンワの山野さんが教えてくれた「梅くら」という美味しいらしいレストランに行くも、急用で早く閉店してしまっており、残念ながら諦める。そこで、道の途中の「山賊旅路」へ。こんな店名だから、僕の熊本を知らない東京の友人からも「熊本って、本当に熊とかいるんでしょ。野人みたいな人間ばっかりが住んでいるでしょ」とか本気で言われるのだよ。。。
 たかな飯と肉うどん、熊本郷土料理の「だごじる」を注文。名前は野蛮だが、味は無茶苦茶美味くて、満足。
 その後、パン屋でパン買って、早稲田大学の同級生である上野の家へ。彼は結婚して一年ほど前から南阿蘇に移住してきている。日本昔話的な風景の中に建っている家にお邪魔する。仕事の話などを聞く。お茶を頂く。裏庭で採った筍を頂く。奥さんが摘んできた蕨を頂く。こちらでもお裾分けを頂く。
 充実した阿蘇小旅行であった。次回は阿蘇エネルギー視察に行く。熊本の五木村というところが、自家発電量日本一らしい。ここでは地熱発電や太陽光発電などの看板も多い。実際に地熱発電所まである。新しいエネルギーへの転換は九州から始まるのかもしれない。
 5月の中旬、上海にいかないかとの話。上海人の友人が才能のあるアーティストを紹介したいとのこと。5月は上旬がロサンゼルスで展覧会。下旬が翼の王国の取材でインドネシアの予定なので、ちょっとスケジュールが大変そうだが、アジアへは今年からがんがん攻めていきたいと考えているので、行きたい。。前向きに検討。
 上智大学教授のアンジェラからメール。僕の立体読書の絵が挿絵となった近代日本文学短編集の翻訳版がハワイ大学出版社から出版されることが決まったという。契約書にサイン。これで今年、海外での本の出版の計画は4冊目になる。今年がは日本での出版が、文庫本2冊、書き下ろし1冊の3冊なので、日本よりも多いことになる。僕は日本の十代、二十代の若い作家、芸術家たちには、どんどんこういう風に行動していくことを伝えたいと思っている。もちろん、自国語での表現も重要である。しかし、世界中にはいろんな言葉を話す人たちがいる。そういう人たちも視野に入れて活動したほうが、どう考えても楽なのだ。パイが大きくなるわけだから。パイが広がれば、もっと先鋭的に表現できる。売れるために嘘をつくなんてことはしなくても済む。
 だからこそ、固有性と普遍性のバランス、矛盾を自分の頭の中でうまくコントロールしていく必要がある。零塾ではこれらもちゃんと教えたい。もちろん、その前に「何を発していくのか」ということを見つけ、考え、試し、体験しなくてはならないのだが。それは僕の経験上、あまりにも簡単なことなのだが、みんなを見ていると、全く試さないので、ちっとも進歩していかない。知らないこと、無知をちゃんと理解し、さらけだし、教えを乞うという人間としての基本的な作法が全くできていない。
 そうなると、人間は殻を作る。守りに入る。自分が知らないことがバレないように、平気で嘘をつく。嘘をついているもんだから、ちょっと突っ込まれると、敏感になっており、すぐにビビる。で、ビビった顔では、絶対に商談も、プレゼンも、交渉も、人前で話すのもうまくいかない。そのいらんプライドを捨てさせたい。しかし、その殻が無い状態のことを恐れて人は、僕の無神経にしか思えない忠告に対して過剰に反応し、反感を示す。それじゃ駄目なんだけどなあ。それが「自転車はこけるものだから、乗りたくないし、一生乗れるようにならないとしか思えないと泣いて叫ぶ子ども」なのである。
 僕にも知らないことがある。無力感なんていつも感じている。だからこそ、変化したいではないか。だからこそ、知れるようになりたいではないか。師匠である石山修武氏に殴られてた。大学生の時に、悔しくて泣いてた記憶は僕は一生忘れない。石山氏を僕は師事するために上京、入学したのに、大学時代は本気で憎んでいた。自分ができるからって、若い無知の人間を徹底的に攻撃するなんて、人間のやることなんじゃないと思っていた。でも、同時になんで、ここまで真剣に金にもならない、教育に力を注ぐのか、と不思議にも思っていた。
 参考文献の見つけ方、商談の仕方、ちゃぶ台返しの威力、学生的なくだらない夢のアイデアの意味の無さ、同時に思考することの有用性、人が考えていないこと且つ内的必然性があるものの見つけ方、業者の選び方、電話の仕方、発注の仕方、そしてそれを貰っての怒り方、人を忘れない方法。。。
 お金の稼ぎ方を直接教わったわけではないが、僕は徹底的に「生きのびるための技術」を氏から受け継いだと思っている。今、会いに行っても毎回「お前誰だっけ?」と言われる(先日、東北芸術工科大学で早稲田大学石山修武研究室卒のR不動産の馬場教授に会ったとき、彼も同じことを言っていた。。)のだが、僕は勝手に後継ぎしたと考えている。だから、今度は若い人間を育てないといけないなあと。とりあえず弟子のヨネと、零塾生を徹底してやらねば。
 僕が得意とする分野は現状修復よりも、次へ向かうことなので、とにかく前を進む。こういう時、前に進む前にやることがあるといって人は現状把握し、現状修復しようとするが、僕には前に進むことしかできない。次の方法を考えることしかできない。しかし、それで今まで生き延びてきた。それが僕には支えになっている。小学生時代、ソ連の5カ年計画を学び、国が5カ年計画やっていて、自分が今日のことだけ考えていたら、絶対に国というものには負けてしまうと焦ったことを再び思い出し、僕は10年先計画で行こう。それは同時に、20歳の時、石山氏が僕に言い放った言葉でもある。

etsu。小学校を改装して転用している。

その近くの湧き水。こういうのが点在している。水ヘヴン。

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 2011年4月12日(火)。朝から原稿。原稿仕事が溜まっている。やらねば。零塾生からの今回の地震、原発の件などで色々と考えることがあり、締め切り伸ばしてもいいですか電話がいくつかかかってくる。零塾では締め切りは僕ではなく、それぞれの塾生が自ら設定することにしているので、いいですよと伝える。が、同時に、自分で作った締め切りを守れない人間は、絶対に仕事としてそれを実現することはできないとも伝える。
 人が作った締め切りは破ってもいい(いや、本当はよくないけれど)。しかし、自分で作った締め切りは絶対に守らないといけない。というのが、僕の信条なので、零塾の課題の締め切りが遅れていることは別に僕は痛くも痒くもないので、何にも思わないのだが、遅れて平気である塾生に対して失望している。そのままでいる限り、絶対に独立して仕事を発展させていくことができないだろう。つまり、食えないはずだ。もっと真剣に考えてほしい。誰も見ていない、誰からも強要されない、無名の無知の無力の状態である時こそ、超緊張状態で生きてよ。それができない人間が、緊急時にしっかりとした思考でもって、判断、決断、行動できるわけないではないか。
「真面目」という考え方が、僕は皆とは違うのかもしれない。僕にとっての真面目は「真正面から自分の目でしっかりと直視して行動する」ということである。つまり、逃げない。怯まないということなのである。締め切り遅れるから、締め切り日前にちゃんと電話して報告するということではない。絶対に間に合わせるために、30分の会社のお昼休みでも必死に課題をやることである。それができないのならば、絶対に一生作品を作ったり、自分の考え方を人に言語化して伝えたりすることはできない。
 今日は怒っている。怒りに溢れている。まあまあとフーになだめられる。しかし、僕は人を「できない人もいる」などと思えないのである。別に僕は才能があるわけではない。ただ怯まないだけなのである。不安なんかない。そんなよく分からない曖昧な恐れではない。ただ「恐怖」が見えている。だから恐いけれど、怯まないで済む。しかし、人間は思考もせずに不安に苛まれる。そして、自分は「できない人間」なんだと決めつける。その中に溢れている可能性を見捨てる。僕はそういうのを「都市の幸」だと思って、勝手に拾い集める。そして、自分の力にするようにしている。人の捨てた希望も僕は拾い集めるようにしている。
 お昼は、ヨネと一緒に、八木カレーを食べる。怒りが収まらず、ヨネに伝える。で、坪井新居へ行き、今度の計画を僕が喋る、ヨネがメモる。怒りの時は、僕はちょっとおかしいのだが、非常に落ち着いている。落ち着いているというか、明晰になる。その頭で考えていたら、自分がやりたい坪井新居のイメージが一気に溢れ出てきた。それをとどめておく。キッチンのアイデア、玄関のアイデア、窓のアイデア、畳の発注、材料の調達、道具の調達、太陽光発電の計画、お金の計算。がーーっとやって、午後5時に終了。
 途中、PAVAOのかおるちゃんが、ういこちゃんとやってきた。坪井新居の二階で四人で酒を飲む。かおるちゃんは気に入ってくれた。ここに住みたいと言っていた。夏とかここで宴会したいね、バーベキューしたいねと言っていた。正月には庭でちゃんと餅つきやろうと僕も思った。祖父が毎年やってくれていた餅つきを復活させようと思い立った。杵と臼は全部、祖母が持っているはずだ。アオと一緒に、たくさんの人間が毎日あつまるここで色んなことを勉強しようと思った。つい一年前に僕が妄想していた親戚、家族、友人が寄り集まった集落形成計画が俄に動き出している。僕は今、公的な場所を作っている。誰でもただで使える場所を。
 みんながお金のことなんか気にせずに毎日を暮らせるように、僕はそのためにも無茶苦茶お金を稼がないといけないなあと二階の縁側で鳥が飛ぶのを見ながらそう思ったのである。まるでアフリカだなあ。ナイロビで出会ったスラム街の親友たちの顔がぼんやりと浮かんだ。僕はまた新しい直感をつかみ取ったような確信に満ちた。

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 2011年4月13日(水)。午前9時に河原町商店街にて、デザイナーの石井くんとヨネと待ち合わせ。石井くんに車を借りて、サンワ工務店へ。社長と会い、今回もまた材料を下さいとお願いする。社長は「しょうがないな」と良いながら、でも太っ腹に材料をくれた。サンワ工務店みたいな倉庫を持っている会社なんて世界中どこ探してもないだろう。
 ここには、あらゆる地域、年代、国の廃材や、窓枠や、家具や、電灯や、何だかわからない置物まで、無茶苦茶揃っている。本物の戦闘機や、軍用車まである。ありとあらゆる「都市の幸」が集められた、見る人によってはゴミの集積所、またある人には宝物ばかりが揃っている拠点なのである。
 そこで、古い教会のかわいい窓枠やら、戦前の日本家屋に取り付けられていた洒落た窓枠などを頂く。畳の部屋を床張りにしたいと我が儘を言ったら、またしょうがないなと言って、どこかの店舗を新築したときに使って、余っていた床板までくれた。
 僕が社長と出会ったのはまだ何も分からない人間だった17歳の時。それからずっと付き合っている。図々しいことも随分言っている。でも人にお願いするのだから、遠慮するほうがおかしいと僕は思っている。せっかく人の好意を受けるなら、全面的に受けて、自分責任を持たせたい。そういうふうに人と付き合うと、もちろん面倒臭いことが多い。人から贈与を受けるというのはそういうことなのだ。
 いつも挨拶にいく必要があるし、自分が持っているもので余剰があれば持っていったほうがいいし、何より、人から贈与を受けた人間は社会のために自立し、活動していかなくてはいけない。彼らが僕を認めてくれたのだから、それを肯定させなければいけない。だから、僕はどんな状況になっても仕事をやめない。活動をやめない。どんなに人間から笑われようとも、恐れず発言をしなければいけない。
 僕が感じる責任は、人が僕の持っているものを信じてくれているからこそ起きるものである。だから、常に真実を示さないといけない。自分の無知、無力をごまかしてはいけない。自分のことを自分よりも信じてくれる体験が無いときは、僕は自分をよくごまかしていた。厳密ではなかった。零塾ではそれをしたいのである。僕が塾生の才能を塾生よりも信じる。だからこそ、徹底的に要求したい。厳密に生きろ、と。ごまかしてはいけない。それはすぐにばれる。
 ごまかしに耐えきれなくなり、レベル7になったことを発表したらしいと僕の親父が言っていたが、そんなのもうどうでもよい。そうやって文字に起こさないと危険性が分からない人間はサバイバルできないと、多摩川の大ちゃんは言っていた。自分の頭で考えろ、と。何も分からない馬鹿(僕のことですよ!)がインターネットで情報を得たところで、焼け石に水である。僕は自分が馬鹿だということを自覚しているので、一番原発に詳しいと思う人を自分で調べて、飯田哲也さんを知り、電話番号を調べ直接電話をして、彼に危険か危険でないかを聞いて、どこまで行けば安全かを聞いて、それを自分で判断して行動しただけである。馬鹿として、どう行動するのか。これが一番重要だと僕は今までの人生で学んできた。知らないことを知っているふりして、格納容器が、、、ヨウ素137が、、、タービン建屋が、、、とか言っている人間を僕は絶対に信用しない。
 飯田さんからその時に、チェルノブイリとは種類は違うが、被害は同じ状態になる可能性は高いから、そのことを考えて名古屋より西に移動しなさいと言われていた。それだけである。人は原発のことを自分の頭で考えようと試みる。僕はそれはナンセンスだと思う。原発なんてそんな一ヶ月くらいで分かるわけがないではないか。なんでそんな単純なことに人は気付けないのか。どれだけ自分に才能があると思っているのか。僕にはそんな有能な才能がない。だから、人に聞くのである。だけど、自分の頭で考えていないわけではない。自分の頭で原発について考えるのではなく、自分の頭で誰に聞いたら良いかを判断するのである。少なくともそれはNHKではないことは明晰だった。鎌仲さんがあんなに叫んでいた内部被曝について20日頃まで一言も言ってなかったからである。
 塾生に伝えたいのは、何かを知りたいと思ったら、時間を決めて調べなさい。上限は3時間まで。その中で見つけた一番自分が信頼できると確信した人に直接アクセスしなさい。電話に出てくれなかったら、直接会いにいきなさい。インターネット、新聞、テレビなど二次的な情報と触れるよりも、人間から直接発してきた情報と触れなさい。後は調べずに、自分がやるべき仕事に集中すること。一番困難のときに、ちゃんと普段通り仕事ができる人間こそ(もちろん、危険性を調べた後ですよ、、、)これから最も必要とされる人材なのである。
 チェルノブイリの十年後にやっていた「終わらない人体汚染」という番組はとても良かった。その中で、チェルノブイリから200キロ以上離れたチェチェルスクという街に日本人の医師小池健一さんが毎年調査に出掛けているシーンがあり、そこが風下だったため、子どもだけでなく、大人もみんな何らかの病気にかかっていて、ゾッとした。今度は小池健一さんにアクセスしたいと思ったので、先生が勤めている信州大学医学部に電話して問い合わせてみた。そしたら、やっぱりここでもちゃんとコンタクトが取れた。小池先生が言うには、まだチェルノブイリと同じ状態であるとは言えないので、また医師として国民に精神的に不安にさせることが心配なので、まだ今の状況では何も言えないという。ここ5年ほどはチェチェルスクにも行っていないそうだ。でも話ができてよかった。さらに、日本チェルノブイリ連帯基金という組織を教えてもらった。ここに今度はアクセスしてみる。
 久々に原発のことを書いてしまう。まあ、たまにはいいか。どうせ書いても意味がないので、書かないでおこうと思っているのだが、それでも何か吹き出てしまう。それは仕方がない。
 それよりも仕事、仕事。今日はヨネと材料を集めて、作業を開始。電動ドリルと丸ノコは購入したが、それ以外の材料は0円です。0円再生を試みる予定。
 今日はキッチン部分。ここが綺麗にならないとフーがたぶんテンションがあがらないので、しっかりと楽しくなるような空間にしあげようと考える。とにかく光がさんさんと入るように窓枠でコラージュしていく。メルツバウのような空間にしたいのだが、それとフー的な控えめなデザインを融合させる。
 畳の部屋を床に張り替えて、ここもキッチン部分にする。キッチンが8畳くらいになる。ここで、正月は餅を丸めたり、夏祭りの時にはスイカを切ったり、宴会の時には女性陣が集まって御飯の用意をしてくれたりと、その映像を思い浮かべながら建てていく。熊本市現代美術館で作った「坂口自邸」という作品の延長線上にあたる作品になるだろう。
 途中、PAVAOのかおるちゃんから電話があり、東京からお客さんが来ていて、しかもあんたの日記を読んできたらしいよ。ありがとね。と言うので、それなら、坪井新居にも来たらと言うと、一組の夫婦がやってきた。翻訳家とカメラマンをやっているとのこと。彼らと今後について話をする。彼らも福岡出身とのことで、九州に住みながら新しい仕事に挑戦するのもいいのではにあかと提案をしておく。
 忘れていたのだが、今日は僕の誕生日だった。フーが料理を用意してるから夜は家で食べてと言うので、ヨネと一緒に家で御飯を食べる。ヨネも今や、うちの家族の一員になった。その後、両親も来て、みんなで祝ってもらう。とんでもない時代に素晴らしい誕生日。今年はとにかく飛躍する。そうあたしは心に誓ったよ。

サンワ工務店にて床板と窓枠を頂く。なんでこんなに素晴らしいものをくれるのか。

洒落た窓枠もたくさん見つかる。

貰ってきた窓をキッチン部分にコラージュしていく。こちらは水道奥の出窓。

こちらはキッチン壁部分。

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 2011年4月14日(木)。今日は坪井新居改築作業をヨネに任せ、僕は喫茶ビギンへ向かい、原稿を書く。熊本日日新聞月一連載「建てない建築家」第3回目の原稿。今回は0円ヴィレッジ計画について書いた。1600字完成し送信。その後、引き続き集英社すばる連載「モバイルハウスのつくりかた」第10回目。この連載もしっかりと歴史を歩んでくれている。今回は原発からの避難、移住、その後の東京でのモバイル生活について書く。
 月末に家族四人で旅行に来るチェルフィッチュの岡田利規さんのホテル予約を岡田さんの奥さんと相談しながら取る。とにかくおせっかいな僕。本当、最近特に感じるが、僕は本当におせっかいだ。小さな親切、大きなお世話と両親は言う。それも分かる。分かるが、僕はおせっかいで人生を貫くと決めたので、申し訳ないが、これからも僕の周辺の方々には大きなおせっかいがミサイルのように飛んでくると思いますので、ご注意を。
 オランダはユトレヒトにあるCASCOというアートスペースで8月、一ヶ月間滞在し、リサーチとインスタレーションを行う予定なのだが、その時に翻訳、通訳をしてくれたスミレちゃんからメール。スミレちゃんはなんと東京に帰ってきちゃってた。スミレちゃんから電話があり、今後、どうするのか相談に乗る。西日本で住みたい、働きたいらしいので、それに対しておせっかいをすることに。
 塾生のカブヤマくんと電話で提出してもらった課題について話し合う。若手映画監督の作品をたくさん観てもらっており、その中から一人の映画監督を自分で決めてもらった。僕も知らない監督の名前だった。こういうのが、一番嬉しい。僕も知らないことを知りたい。そこまで調べようとしてくれていて、僕も逆に勉強になっている。さあ、その監督と作品が決まった。次に僕が依頼したのは、カブヤマくんは映画音楽を作りたい人なので、その映画の中の音楽がかかっていないシーンで、自分にとって印象的なシーンに作曲した音楽をのっけてくれというもの。
 とうとう実践編である。今度の課題は2ヶ月かけてもらうことにした。3シーン分の音楽を作ってもらう。で、作ったあと、DVDに焼いて、直接その監督のところに持っていく。監督とのアポイントメントは僕が全部手筈を整える。少しずつだが、塾生の中に実践を試みる段階まで来ている人がいる。
 ここからが本当の勝負。自分の才能の無さに気付く機会にもなる。そこに誰よりも早く気付くこと。それこそがが強くなる秘訣である。自分に力がないことを隠蔽していては、日本政府と同じになっちゃう。独力で気付き、独力で訂正、発展させる。才能の無さに気付くのは、多くの人の前でなくてもいい。僕と二人だけで十分なのだ。それでも一人でも他者に知られれば、隠蔽は免れる。自分の弱さを多くの人に見せるのは、タフでないとできない。僕はそれが一番好きな超ド級のMですが、それはみんなにはお進めしない。
 自殺願望がありながら、多くの人の前で講演会とかするのが好きな人は言って下さい。その場合は、坂口スペシャルコースでマンツーマンで徹底的に教え込みます。もちろん0円で。
 原稿が終わったので、ちょっと散歩。家の近所の夏目漱石坪井旧居へ。来月号のエココロ連載「家をめぐる冒険」は、この夏目漱石の家について書こうと思っているので、取材に。ここが無茶苦茶気持ちよいのよ。しばし、歩いて坪井新居へ。
 ヨネはがんばってくれており、床板も全部貼り終えていた。キッチンも完成。で、今度は僕と一緒に二階の壁を窓枠でコラージュしていく。本当に0円で改築ができるかもしれない。
 畳屋が全ての畳を代えてくれたので、新築のような雰囲気を一瞬味わえた。畳替えも不動産にお願いせずに、自分でやりますと僕は言ったので、畳替えは10万円もかかってしまった。しかし、これは必要経費なので気にしない。二階も完成し、庭の整備も進み、アオの子供部屋のかわいい床板も8割完成した。僕は仕事が早い。とにかく早い。大雑把だけど。。でも、自分が住むのだから気にしない。ほとんど大工仕事に関して知識の無い僕ですが、そんな僕にでもヨネにでも床なんて簡単に張り替えられるし、壁なんてすぐ作れる。家の改築なんて、へのかっぱである。だから、みんなできる。やれば、できる。あっ、これは未来芸術家、遠藤一郎の言葉。遠藤一郎は、昨日電話してきて、今、熊本の天草にいるから、熊本に行くよとのこと。今、お前に会いたいよ。早く来ーいと伝えた。
 本当に、大工って簡単である。クオリティをそこまで気にしなければ。だから、大工ってもっと金持ちの仕事ばっかりやるべきだと思う。ちゃんと無茶苦茶いい材料を使って床はって、土壁にして、竹の柵にして、とか。普通の家だったら、住んでいる人間がやるぐらいで十分。もちろん、経費も0円。家なんて、本当に簡単なのである。僕は、この改築を体験し、なんなら、新築だって無茶苦茶簡単なのではないかと思った。でも、僕のおおざっぱな大工仕事を依頼する人はいないと思うが笑。。
 なんで、こんなに簡単なものが難しい、昔ながら技術が無いとできないと人は勘違いしているのだろうか。もしかして、僕よりも馬鹿なんじゃなかろうかとふと思う。しかし、周りの人は僕のことを「お前は天下一品の大馬鹿野郎だ」と言う。そして、それに僕も同意している。僕は、何も知らないし、人にすぐ聞くし、すきま風なんて入ってきても何もきにしないから、適当な大工仕事やるし、床なんてただ寸法測って切って置くだけで完成とか言っちゃうし、面倒臭いところはすぐに弟子のヨネに任せちゃうし、本当に適当な人間だ。
 しかし、そんな人間でも家なんて簡単につくれちゃう。僕はここ数ヶ月の間に、二軒も家を持った。モバイルハウスと坪井新居。なんで、人は35年ローンとかで家を手に入れようと必死に働いているのだろうか。僕は本当に理解できない。なので、仕方なくこういう結論になってしまったのだ。
 もしかして、その人たちは本当に考えることのできない頭が悪い人なのじゃなかろうか、と。
 だから、ちゃんと賢い人は、競売物件とかなんでもあるから無茶苦茶安い家でも貯金で払える金額で買って、適当に改装したらよいし、それぐらいのお金も無いのであれば、モバイルハウスの一軒でも建ててみればいい。いかに、お金を稼ぐために企業で働いたりしていることが全く合理的でないかを知ることができるのではないか。
 どうせ壊れるんだよ。地震で、津波で。どうせ追い出されるんだよ、原発で。
 だからこそ、適当に行こうよ。S.L.A.C.K.も言ってるじゃないですか。「適当に行けよ」って。
 適当って、考えないでいいよってことじゃないよ。僕がスラックに「適当に曲はできないでしょ」って聞いたら、そうっすよ、ありえないぐらい毎日考えてます。どうやったら良い曲ができるかって。って言ってた。だから、言えるんだと思う。適当で行けって。
 お洒落にリノベーションして、元の家よりも高く売っている人とか、建築家でよくいるけど、あれとか僕はあんまり知性を感じない。まあ、買いたいって人がいるんだろうから、それはそれで素晴らしいことだとは思うけど、僕としては0円でできるのに、それを見つけることができない、ちょっと考えたり、試したりすることができない、脳味噌が老朽化した人たちの経済にしか思えないんだよなあ。僕は社会に対して斜めに見すぎなのだろうか。合理的に言っているだけなんだけどなあ。合理性で言えば、やっぱり最近は環境エネルギー政策研究所の飯田哲也さんの合理性の話は、本当の仲間と出会えた気持ちになれた。
 リノベーションで高く転売している人間たちは、やっぱり原発も必要だとか言っちゃうんだろうなあ。彼らには経済的合理性なんて鼻から見てないもんなあ。無いお金で家を手に入れるローンという発想そのものが、僕にとっては合理性もないし、妄想を抱いている人間たちにしか見えない。でも、周りには結構そういう人がいるから、これを言っちゃうと、みんな悲しくなっちゃうからあんまり言えない。だから、自分のメディアで言う。ここは好き好んできた人たちが来るので、好きなことが言える。はっきり言います。ローンなんてものを組む人は、たぶん、お金の計算ができない小学生レベルの頭の持ち主です。あるもので、なんとかする。これが合理的な人間の行動だと思う。
 原発と家の購入とかって、全く同じ発想だと思うんですよ。本当に。
 計画停電するよ、しないよ、とか揺さぶっている馬鹿と付き合うのは簡単である。そのレイヤーに居なければいいのである。自家発電してればいいのである。そんなことやったら、東電さんはびっくりして、計画停電しないので、みんな電気を使ってください。他にある原発でも毎日電気作っているんです。だから、もったいないから電気使ってください。もちろん、0円ではあげれませんが、せっかく原発で電気作っているので、使ってあげて下さいよ。だって、あなたたちも毎月この原発のためにお金を払ってくれている同志なんですから。とか、言ってくるかも。
 で、思うのが、もちろん東電がやってしまったことは悪いけど、この企業の体質は何も東電に限ったことではなく、日本中に存在するあらゆる企業にも共通する話である。お金儲けと自己保身のことしか考えていない人間たちが作ってしまったのが企業なのだから、みな同じような問題に直面したら、どうせ同じ対応をするのである。だから、東電を解体しろだけでは話にならないと思う。人々が毎日働いている全ての企業が問題なのである。放射性物質が吹き出しているのに、僕の友人は福島に転勤しなくてはならないかもと不安を感じていた。会社というのは、僕みたいな馬鹿で毎日定時に出勤することすらできないような馬鹿野郎は入れないところらしいが、それにしてはやることなすこと馬鹿らしくて、しかも、そこで働く人々たちのその会社に対する忠誠心ったら宗教の信仰心よりも強度なもので、驚きを通り越して、むしろ感心しています。でも、信じるものは救われるのかもしれない。僕は何も信じれるものがないので、いつも恐怖におののいているのですが、やはり信じると言う行為は強靭だなあ。信じれない人たちは弱いから、竹のようにしなる生き方を選ぶしかないのである。
 スポンサーの問題とかあって、東電の批判ができないとか、本当に中学生のヤンキーみたいな人間関係で、ノスタルジーを感じてます。ああ、懐かしいなあ、そんな時代があったなあ、そういえば、あの時白い学ラン着て車に乗って中学校に登校してた奇跡のあいつは今なにしているのかなあと久々に中学生時代をおかげさまで思い出している。
 メディアがスポンサーが無いと成立しないということそのものがおかしいことに何で気付かないのかなあ。
 僕の周りのアーティストや作家たちを見ていてもそれは思う。すぐ助成金とか、なんとか基金とか、なんとか奨学金とかもらおうとする。もらおうとしない人間のほうが圧倒的に少ない。文化庁のお金で海外に行くって、それどんなお金なのか全部分かってもらっているのだろうか。助成金って一体何よ。僕はそうやって生き延びているアーティストたちはこれから、バッタンバッタン倒れていくと思う。広告のスポンサーも一緒。あれは、ただ人が余っているお金を人に無償であげるというのとは違う。タダ奢るのとも違う。鎖に繋がれたお金なのだ。そんなの一度手にしたら最後、ずっとそういう世界からは離れられない。それはテレビ局がそのまま現している。
 僕は一度も貰ったことがない。だって指図されたり、自分のことをよくも知らない、しかも芸術のことなんてよく分かっていない知性の無い人間からは絶対にお金なんてもらいたくない。だから、僕はコレクターとの交渉を2006年からずっとしているのだ。彼らは僕の知性にお金を払ってくれるのである。しかも、一生返さなくてもいい。しかも、別にそれが彼らの広告になるのでもない。ただのチップなのである。だから、僕は自由であり、コレクターも自由である。そう言うと、またいや、コレクターがアートを買うのは節税対策なのよとか茶々入れる人がいるが、言っときますけど、ちゃんと芸術作品に対して興味を抱いているコレクターたちはそんなケチな人間ではない。現に僕は一度も領収証を切ったことがない(日本人のコレクターの人には領収書を渡してますが、、)。ギャラリーとかに属して、定期的に展示をしているアーティストなんて、サラリーマンと何も変わらない。アートは社会を変えるためのものである。そんな人間が誰かに寄り添ってしまっては一巻の終わりである。まあ、そう僕が言っても理解してくれる人はほぼ皆無だ(バンクーバーにはたくさんいるけど)。
 夜、遠藤一郎が未来号でやってきた。アオは興味津々で未来号にお絵描きをしていた。こういう出会いって素晴らしいなと思う。遠藤一郎は被災地によく行っている。本当にこの男はいいなあと思う。今、この時代にはこのような戦力的で純粋な人間が必要だろうなと思っている。その後、PAVAOでも飲む。PAVAOのかおるちゃんと、ヨネと、フーアオと、僕の6人で。楽しい夜。遠藤一郎と、どうやって芸術家が生きのびれるのかについて話をする。
 ちゃんとお金を厳密に見よう。誰から貰ったのか。どこから来たのか。そういうことを考えないと、身動き取れなくなってしまう。でも、考えたら必ず脱出口が見えてくる。それが技術なのだ。
 メールあり、ある雑誌で北野武さんと対談する企画の依頼。もちろん、快諾する。多摩川で出会って以来色んなことが起こった。今、僕も改めて、北野武さんと話をしたい。これからの社会どうするのか。本気で話し合いたい。
 どんな状況下でも僕はドブネズミみたいにするすると生き延びたい。
 でも同時に人に対しても徹底的におせっかいしていきたい。
 それをすることだけで、どうやって仕事を作ってお金を稼いで生きのびるのかだけが、僕の大学1年生の時からのテーマだった。
 ようやく、それを実践する時代が来たのではないか。
 まずはメンバーを集めよう。僕はリーダーになろう。
 行動しなくてはいけない。
 やる気は十分にある。

二階のトタンを取って窓枠でコラージュして壁を作る。アオもご満悦。

キッチンで窓部分も感性。

手前の和室に床を張って台所拡大中。無茶苦茶気持ちよい空間になった。

畳も全部職人さんに頼んで新調しました。縁は栗茶。畳を代えると家が生きはじめる。

23

 2011年4月15日(金)。午前中は家でバンクーバーとスカイプし、展覧会についての打ち合わせ。とても楽しみな展覧会になってきた。さらに、原さんのアイデアでバンクーバーだけでなく、色んなところにツアーができるようになるかもしれないとのこと。そうすれば、また色んなところで挑戦ができる。初めてのドローイングの展覧会。僕としては、ドローイングはメインではなく、いつもサブの役目だったので、どういう反応が来るのかはまだ分からないことも多いが、新しい出会いがまた起きるのだろう。現場で動けば、いつも何かが動く。2001年、つまり十年前からのドローイングが並ぶ。
 トロントからスカイプで絵を買いたいとの注文が来る。なんだか凄い世の中になったもんだ。
 今回はバンクーバーでドローイングを150点展示するのだが、そこでしっかりと販売して、ソーラーパネル自家発電付きモバイルハウスセットを被災地で建てる資金に充てようとも考えているが、必要とされる仮設住宅が7万戸で、今のところ陸前高田で30戸しか完成していないという途方も無い数なので、微力の僕が直接何かをしたところでそれはただの自己満足に終わってしまうだろう。しかも、現在の避難勧告に関しても、かなり怪しいと思わざるを得ないので、本当に東北、北関東の被災地で住宅を再び建てることが正しいのか僕には分からない。ということで、バンクーバーでの展示がどう自分の行動に繋がっていくのか、まだ手探り状態である。遠藤一郎から聞いた、ボランティアの話もとても貴重だった。
 その後、外出し、喫茶店で原稿を書く。エココロ「家をめぐる冒険」連載第7回夏目漱石篇。2000字を書き終わり、送信する。あとは絵を描かなくはいけない。さらにエココロでは、これからの働き方についても原稿依頼を受ける。バンクーバーに行きながら、帰ってきてから引っ越しの準備をしながらやれるかな。やらねばならん。
 引っ越しのサカイと国立から熊本までの引っ越し費用の見積もりをしてもらう。これが無茶苦茶安くてびっくりした。予想していた金額の半値だった。以前、少しだけ働いていた時があったのだが、それで優しい値段になった。感謝。
 原稿を書き終わると、今日も坪井新居の現場へ。午前中、ヨネが床とキッチン出窓部分を仕上げてくれていた。さらに、アオの子ども部屋の床板を張っていく。壁もコラージュで作る。昨日も言ったが、床も壁も本当に簡単である。素人でも何の問題もない。高校生ぐらいから、家の建て方なんて授業があったら、日本国民全員、自分の手で家を建てられるようになるかもしれない。今回、自分で実践してみて本当に良かった。今まで、口では言っていたが、実際に自分の手でやってみると、改装であれば本当に誰でも自由に自分の好きなように建てられることが判明した。これで、また自分のやるべき方向性が見えてきたような気がする。
 夕方、ヨネが友人を連れてきてくれた。井上くんはヨネの後輩で熊本大学の大学院生。明日と明後日、彼も手伝ってくれることになった。感謝。今日で、重要な木工事はほぼ終了。後は、キッチン部分の床と壁の塗装である。それが完了すれば、もう誰でも住むことができるようになる。キッチンをどうするか考え中だが、明日は古道具屋が集まる古道具のセリに参加してみることになった。どんな掘り出し物と会えるか楽しみだ。それと同時にキッチンも自分なりの方法で0円でやってみてもいいかななどと夢想してもいる。まあ、明日試しに見てみよう。
 ぼんやりと「公園」のような家にしたいと思っている。庭にはベンチを置いて、灰皿も置いておこう。なぜかこの庭の手前までには今でも色んな人がやってくる。鯉に餌をやりにくるのだ。猫も多いし、鳥も集まる。公共性を持った個人的な空間をどうしたら実現できるか。また面白いテーマができた。そして、それは僕がずっとやりたかったことでもある。
 夏目漱石の家を昨日観たのはよかった。ここにも、たくさんの若い学生たちが、彼を慕って、教えてもらいに、たくさん集まってきたそうだ。だから、広い家なのだ。そういう場所にしたい。タイ古式マッサージをやっている女の子がいて、そこでマッサージ店をやってみたいと言っていた。そういうのも面白いかもしれない。
 フーが、うちに来て、出来上がった二階の窓を見て、恐る恐るヨネに「あれ、ちょっと曲がってない?」と聞いていた。そうなんすよねえ、とヨネが笑ってる。やばい、フーは多少僕の適当さに不安を感じてきている。でも、まっいっか。風が入らないならオッケー。後は楽しく、笑える家であれば良い。笑える家を目指してます。
 明日も僕は、原稿仕事に集中する必要があるので、ヨネたちに任せることに。そして、明後日からはバンクーバー。帰国してちょっと仕事したらロサンゼルス行って、福岡行って、東京で仕事と少しオーバー気味なので、ロサンゼルスの展示を見に行くのやめたほうがいいのかな。ちょっと考えないと。引っ越しが完了するまで、まだ慌ただしい日々がすぎていく。

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 2011年4月16日(土)。朝から家で作業。その後、外出し実家に行き、そこにある水性カラーペンでエココロ「家をめぐる冒険」のドローイングにとりかかる。今回は初めてカラーに挑戦。意外とうまくできた。漱石の家。すぐにセブンイレブンから郵送でエココロ編集部へ送る。
 その後、親父と一緒に坪井新居現場へ。今日はヨネと井上くんとさらに辻くん、たけちゃん、のきちゃんの三人がやってきてくれた。彼らは皆熊本大学の建築学科の大学院生、学部生の先輩、後輩。今回はキッチン、風呂、トイレのペンキ塗りをお願いする。報酬は夜飯とビール一杯。
 みんなでやったら2時間ほどでほとんど終了。家が明るく生まれ変わった。明日には完成するだろう。僕はバンクーバーへ行ってしまうが、彼らは明日もやってくれるとのこと。ありがたい。
 その後、ヨネと明日以降の工事の打ち合わせ。ペンキ塗りが終わったら、アオの子ども部屋の仕上げ。そして、玄関の建具の取り替えをやることに。アルミサッシではなく、ちゃんと無垢の木製の建具を玄関にはめる。素晴らしい建具をサンワ工務店の倉庫から見つけてきたのだ。楽しみだ。ヨネに任せることに。
 その後、6人でPAVAOへ。日替わりカレーとビールのセットを注文し、皆で労をねぎらう。はずが、結局、僕が学生たちに吠えていた。吠えまくってた。僕もいいかげんに、学生に吠えるのをやめないと思いながらも、なかなか諦めきれないらしい。とにかく若い人たちが心配である。ちゃんと考えて生きないと、現代では簡単に人に使われる人間になってしまう。自分でディレクションできる人間になってほしい。大学で学んだ人間が会社なんか行っては駄目だ。ちゃんと自分で自立しないと。
 とか、そんなことを老人の小言のうように、僕はずっと言っている。フーにもう少し優しくなりなさいと言われた。僕としてはこれが優しくしていると思っているのだが、勘違い甚だしいらしい。しかし、僕はとにかく若い人間に、自分で手で生き抜く、どこにも属さず、誰にも寄りかからず、むしろ人を助けられるように、困っている人がいたら仕事なんかほっぽらかしてちゃんと話を聞いてあげられるような、時間と余裕を持った人間になってほしい。時間を盗まれちゃいかん。エンデも言ってたではないか。でも、もっと優しく人の気持ちも聞いてあげないというフーの気持ちも分かる。たまにはそういうふうに生きてみよう。
 一緒にいるとくたくたに疲れてしまうし、おせっかいで、駄目出ししかしない僕の周りからは少しずつ人がいなくなるだろう笑。それでも、この態度を抑えては駄目だと、なぜかいつも結局思ってしまうのである。
 午後10時に僕だけ家に帰ってくる。彼ら5人は坪井新居に飲みに行った。
 明日からはバンクーバーである。少しリラックスしてこよう。
 などと思っているが、結局また新しい次の展開が見えてきて、盛り上がって、寝れない日々を過ごすのだろう。
 バンクーバーのみんなから、早く来い、飯を食べよう、パーティーをしようとのメールが届く。ありがたい。人間、どんな状態であっても、必ず一人は、自分の仕事の核心について間違ってはいないのだということを確信している人間がいてくれている。その人たちを見逃すな。自分の可能性を自分よりも信じている人間たちを自分と思って、いやむしろ自分よりも大事にする。そこからしか何も生まれない。全ての作品が自分の中から生まれていると思ったら終わりだと僕は思っている。僕はただ突き動かされているだけのマシンだ。寿命が来るまで、黙々と走り続けるだけだ。ちゃんと風景を見てドライブしよう。道は続いている。止まったときは焦らずドライブインで珈琲でも飲みながら一服でもしよう。
 さあ、バンクーバー篇のはじまりである。

見違えるほど綺麗になったキッチン拡張部分。

玄関からキッチンを眺める。炭だらけになっていた壁が真っ白に。

手作り窓枠壁もいい感じに。

ここのお風呂がまたいいんだ。ここも真っ白に。裸電球に梁が剥き出し。

熊大軍団とお疲れビール。

0円ハウス -Kyohei Sakaguchi-